6-5.追走
陽の光が奪われたというのに不思議と明るい森の中を、ルリたちはホウキンという男を先頭にして歩いていた。彼が一番前を歩くことでそこに道が作られていくからだ。霧は払われ、木があればその身を曲げるように道をあけ、張りめぐらされた根は踏まれるのを恐れるように道を譲る。
「あの人、もしかして神獣なんじゃないですか? ほら、たいていは人の姿をしているといいますし」
「でも、あの顔よ?」
ルリはそっと言ってきたコクフウに同じく声をひそめて返す。二人のあいだにはクロウが歩いているため、前を行く男の耳に届いているかもしれない。
神獣だというのなら、きっと人の姿になっても醜い造形ではないはずだ。それなのに、あの男の顔はなんだ。向かって左側の頬に病による黒い斑点がある。神獣が病を患うなどと、聞いたことがない。
「神獣はいろいろな形に身をやつしていると聞きます。初代魔王陛下も最初は神獣と会っても気づかなかったらしいじゃないですか」
コクフウの説得力ある言葉に、そうかもしれない、とルリは思った。周囲のものはまるで彼の行く道を邪魔してはならないとでもいいたげだ。この魔界をつくったというのなら、それは当り前ではないか。はるか昔には神獣信仰もあったくらいだ。現在もないわけではないが、昔と比べれば小規模になっている。
「俺はそんな大層なものではない」
聞こえていたのか、と二人はホウキンの背中を見た。先頭を歩くことには慣れているようで彼は振り返りもしない。ついてきているという確信があるのだろう。
「第一、神獣ならばこのような場所にいるはずがないだろう」
「ですが、神獣はどんな場所にも行けるのでしょう?」
「ああ、そうらしいな。たった一日で離島を横断できるとか」
「離島……というと、まさかファイアーランドを」
ファイアーランドといえば、サンドランドのさらに南にある東西に細長くのびた国だ。横幅はフォレストランドからウィンドランドまであるという。つまり、一日で魔界を横断できるといってもたいした違いはない。
ホウキンがそれから口を開くことはなく、話はそこで終わったようだった。彼はクロウほど寡黙ではないが、かといって多弁でもない。
そのまま歩を進め、前方ではなく右方向に道ができたところでホウキンが言った。
「なぜ秘宝を探している」
やはりホウキンは振り返らない。問いただすような口調であるが、それはおそらく彼の性格だ。空気が張り詰めたものではないことから、詰問というより好奇心からの疑問だろうとルリは判断した。
「魔王陛下に命じられて」
「どういう意図があってのことだ」
「すべての『希望』を持ってセトラルランドへ来い、って」
希望を、とホウキンが小さく繰り返した。判然としない点でもあったのだろうか。
「だが、おまえたちはその魔王に殺されたのではないのか」
「そこがどうにも解せないの。いつ殺されたかは記憶にないからよくわからないけど」
「わからない? この国にありながらすべてを覚えているというのにおかしな話だな。まあ、ともかく」
身を引きそこねた木の根が、ばき、と音をたてた。誰も踏んではいない。しかし決して細くはないその根は道をさえぎった罰だとでもいうように粉々になった。
「魔王の命令がそうころころ変わっていては、そやつの治世ももう終わりだな」
冷たく、そして失望したかのような声色。魔王には辟易しているのだと察することができる。
「ゴーストランドでは地位は関係ないって聞いたけど、さすがに陛下をそういうふうに言うのは……」
ルリがぼそぼそと言うが、ホウキンはまったく聞こえていないそぶりで発言をごまかすかのように先を進んでいく。大人の男の足についていくのは道が平たんといえどもいささか苦労する。コクフウやクロウなどはルリ以上に大変だろう。
彼らが遅れはじめたのに気づいたらしいホウキンは歩調をゆっくりとしたものに戻す。
「あとの二人も記憶があるのか」
「ええ、まあ。一応はそういうことになりますね」
コクフウが言いづらそうに肯定すると、立ち止まったホウキンがくるりと身体ごとこちらを向いた。途端、クロウはルリの背後にすばやく隠れる。
「……それほど俺が恐ろしいか」
クロウは答えず目もあわせない。ルリの後ろに完全に身を隠している。ホウキンの様子をうかがうことすらしない。
「宙吊りにしたのは悪かったと言っているだろうに。わからんやつだ」
あきれ顔、それでいて手のかかる困った子供を見ているような、やわらかな表情だ。最初からこのような顔をしていれば、きっとクロウに怖がられることもなかっただろうに。彼の右顔面に広がるおどろおどろしい黒斑も、これならばさほど気にならない。
「怖いの?」
これには否定の声をあげるだろうとからかうようにルリが問いかけるも、クロウは顔を俯けてしまいなにも言わない。見え隠れする紫色の目が揺れている。よもや、本当に怯えているのだろうか。
「大丈夫ですよ、クロウさん。彼は怖いお人じゃありませんから」
とはいえ、クロウの視点から見ればホウキンは充分怖い。背丈の差で表情はよくわからないし、髪も服も黒いために顔の部分だけが白く浮いて見える。その顔にすら不気味な黒斑がある。さらに帯剣しているとなれば、もうなにも言うことはない。
「たしかに怖いかもしれないけど、殺されはしないわよ」
「おい」
おまえたちを殺してなにになる、という響きが含まれている低い声にルリは臆さず言葉を紡いだ。
「だって彼、優しい目をしてるもの」
ルリに諭され、やがてクロウは目は伏せたままでいるものの、そろそろと彼女の背後から姿を現した。
空を仰げば、陽の光を奪われたゴーストランドは夜の暗さに包まれている。それでいて空さえ見なければ霧の森の中は昼かと思うほどに明るい。これは森に太陽があることを意味しているのだろうか。
もう隠れる必要のなくなったらしいクロウはホウキンの一歩後ろをコクフウと並んで歩いている。隠れなくなったといっても、ホウキンが口を開くたびに肩をわずかに揺らすのだから進歩があったのかどうかは定かではない。
ホウキンによって彼の左隣を歩かされているルリはその顔を見上げた。こちらからでは頬の黒斑は見えない。ルリを気遣ってのことだろうか。ルリからの視線を感じてか、ホウキンは自身の顔貌を彼女のほうに向けた。
ともすれば飲みこまれてしまいそうな闇色の双眸と目があった。自分というものがなくなってしまう気がして、ルリはさっと目をそらす。重病人のように目元は隈のせいで落ち窪んでいるようだというのに、どうしても目をあわせたままの状態でいることができない。
「おまえ、なにを持っている。その、力の塊のような」
「……これかしら? 領主から渡されたのよ。帰ってくるときに使うようにって」
訝った調子で言葉をこぼしたホウキンに、ルリは言いながら懐の隠しから赤い珠玉を取り出す。炎を閉じこめたような楕円形の石だ。
珠玉を目にしたホウキンは押し黙った。乱世を生き抜いてきたと思われる男の顔は、近いうちに死ぬと宣告でもされたかのようなものに変わる。が、それも一つ瞬きをしたころにはもとの表情に戻ってしまう。
「どうか?」
「いや……なにも。昔に見たものとそっくりだと思っただけだ。おまえも、あの女によく似ている」
後半は独り言のようであった。ホウキンはルリの手にある赤い珠玉から地面へと視線を落とす。ただ存在するだけで他人を簡単に支配してしまう雰囲気を持つ彼にも想う女がいたのだろうと推測して、ルリは他意なく言ってみた。
「あたしがその人に似てるから協力してくれたの?」
これにホウキンは沈黙をもって答えた。肯定するにしても否定するにしてもたしかに答えづらいだろう。外部にさらされたことのない心に踏みこむ悪いことを訊いたかもしれない。
ふと、前触れなしに彼は足を止めた。沈黙の理由はもう一つあるようだった。
「……血臭だ。近い」
言うわりにさほど不快には感じていない淡々とした語調だ。ホウキンに言われたのでルリも周囲に気を配る。
「血のにおいなんてしないけど……」
「気にするな。俺のほうが魔物の本性に近いだけだ。おまえは混血だろう」
ルリは肩を揺らした。人間か魔物か混血か、はこちらから言わなくてもなんとなくわかるものだが、この男はルリが混血とわかっていながら行動をともにしていたのだ。混血児は好まれないと知らないわけではあるまいに。
「ここで待っていろ」
「お願い、殺さないで」
身軽な動作で地を蹴ったホウキンはすぐに見えなくなった。彼がこの場から離れたために再び霧が出てきたのだ。今までのことは夢だったのだとでもいうように白い霧があたりを覆いつくしていく。
「……あの人のことは追ったりしないんですか?」
コクフウがルリの肩を軽くたたく。
「もう追えないじゃない。それに、彼はあたしたちが行ったらかえって足手まといになるくらい強いもの」
「でも、さっきの獣が殺されたりしたら、僕たちは」
はたして、殺さないでというルリの言葉がホウキンには聞こえていただろうか。ゴーストランド領主には獣に奪われた日輪を取り戻すよう命じられた。そして運悪くその獣と戦うことになったら決して殺してはならないと。それを破れば元いた場所には帰れない。
「追うぞ」
クロウがぽつりと、だがしっかり耳に届く静かな声で言った。この霧の中をどうやって、と疑問を浮かべるルリにクロウは言い放つ。
「奴の言う血臭をたどっていけばいい」
血臭。四肢のしびれるような狂おしい血のにおい。感覚を研ぎ澄ませば、ルリはわずかではあるがそれを捉えることができた。
跳躍して飛びかかってくる獣の爪を避けながらホウキンは舌打ちした。これほど激しく動きまわるのは久しぶりだったせいか、少々疲れてきた。黒毛の獣はホウキンが傷を負わせた白い一方を庇うようにしてその前に立っている。
いまだ剣は鞘に封じられている。できることならば剣は使いたくない。剣というものをろくに使わなくなってずいぶん長くなる。失敗は目に見えていた。先ほど女二人を助けたときも手傷を負わせるにとどまってしまったが、本当は獣を殺すつもりだったのだ。
「忌々しい、獣ふぜいが」
獣を殺してはならない、とルリという少女は言う。しかしながら、生かしておくにはこれは危険すぎる。仲間に傷を負わされたためだろう、ホウキンに牙をむけてくる獣はいささか凶暴になっている。いくらホウキンといえど一人で二頭を相手に手加減するとなるとこちらがやられてしまうのは目に見えていた。
木の根や泥に足をとられることのないことが唯一の幸運だ。地形は思うままになるから足元には注意を払わなくてもいい。
殺してはならないと言った。すなわち、剣を使うなと。だが、そのようなことは不可能に決まっている。
彼は慣れた手つきで鞘を払い、まずは無傷の黒い獣に突進してそれを一閃させる。大樹ほどもある巨体だ、剣の腕が落ちたとはいえ狙うだけならそう難しくはない。
――浅い。
思っていた以上に踏みこみが甘い。いつの間にか背後にまわっていた白毛の獣がホウキンの背部を引き裂こうと前肢を振りあげた。まずいと思いながらもホウキンは守りに転じることができない。
ゴーストランドでは痛みを感じないと聞くが、こちらに来てからというもの怪我をしたことのないホウキンにはそれが真実なのかわからない。衝撃を覚悟して歯を食いしばったときだった。
背面を、なにか熱いものが掠めた。途端に彼に覆いかぶさる重圧が消える。
「おまえは……」
そこに、待っていろとホウキンが命じたはずの一人の女が立っていた。
読了感謝。