6-4.作られた道
赤い髪をまだらに染めた血だらけの女は穏やかにやわらかい土の上で眠っている。息はたしかにあるが、もう永久に動くことはないのではと思うほど安らかな表情だ。ゴーストランドにいるということはすなわち、彼女もどこかで死んだということになる。
「赤花賊の賊長と会ったことがあるって、どういう意味ですか?」
そう言ったコクフウは、アイスランドにいるあいだのほとんどを領主の城で過ごしていた。病みあがりだから、人間だから、と気を遣われていたことはわかっているが、一人だけ除け者にされた気がしてならない。まさかコクフウのいないところでルリたちが賊長と話したことがあるとは思ってもみなかった。
「どういうって言われても、そのままの意味よ。この人から青の希望を譲ってもらったの。コクフウ君も秘宝は見たでしょ」
「赤花賊についてはアイスランド領主様に何度も訊かれてたじゃないですか。どうしてそのとき本当のことを言わなかったんですか?」
「誰にも言わないって約束したからよ」
約束を守るのは正しいことであるが、それも時と場合による。魔王との約束ならまだしも、今回約束した相手はただの賊長だ。領主に尋ねられたのだから真実を告げるべきだとコクフウは強く主張した。
「秘宝を譲ってもらって、それで約束までしたからって領主様に黙ってたんですか?」
「だって、そんなに悪い人じゃなかったもの。よくしてもらったんだから、それくらいあたりまえでしょう」
ルリのすることを今まであまり否定しなかったコクフウの急変した態度に彼女は困惑を隠せないようだった。
「それはルリさんにとって悪い人じゃなかっただけでしょう。赤花賊はたくさんの場所からいろいろなものを盗んでいった。被害者にとって、彼女は悪人でしかないんです。ルリさんだって領主としての仕事はわかってますでしょう? 悪人は裁かないと」
赤花賊は盗んだ品々を貧しい者に分け与えていたことを知りつつコクフウは言う。アイスランド城内でささやかれていたことだ。領主は間違っているという声が多かったが、領主に直接それを言う者はいなかった。なぜならば、領主も赤花賊の行っていたことを知っていたからだ。捕えても牢を脱し、続けられる盗みに上流階級の者が耐えきれなくなり、彼らは領主が出てくるのを願ったのだった。
ルリは押し黙り、目をそらした。赤花賊の件についてはもういいだろう。コクフウは話を変える。
「……ルリさん、やっぱりさっきの男の人を追いましょう。僕らであんなにも大きい獣を生け捕りになんかできると思いますか? あの人が協力してくれれば、きっと……」
白と黒の、二頭の獣。一頭だけと思って油断していた面もあるだろうが、赤花賊の長でもかなわなかったのだ。二頭いると知っていても子供でしかない自分たちだけで殺さず捕らえることなどできるはずがない。しかし、多少の血は流れたが獣を殺さず追い払ったあの男なら不可能ではない。
全身に黒をまとったあの男をコクフウはどこかで見たことがあるような気がした。
「……あたしの親でもないくせに、どうしてコクフウ君はあたしの思うとおりにさせてくれないの?」
「僕はそういうつもりで言ったんじゃありません。でも、思ったとおりに行動したほうがかえってよくない方向に行くと思うんですけれど……」
俯いていたルリが音をたてて立ちあがった。
あ、とコクフウが思ったときにはもう遅い。金色の髪を揺らして彼女はコクフウたちに背を向けて走っていくところだった。ルリの姿を隠すようにあたりはだんだんと霧がかってくる。いくら今まで晴れていたといっても、ここは霧の森と呼ばれているのだ。
そこではっと気がついた。ゴーストランドの日輪は奪われたという。それにしてはこの森は明るすぎる。さすがに昼のような、とまではいかないものの、森の中にしては明るい。霧の森に持ち去られた太陽があるということなのだろうか。
しかし、現時点においてそれは最重要項目ではない。
「ルリさん、どうしましょう」
こちらを見つめてくるクロウに尋ねれば、ルリのほうが悪いのだから放っておけばいい、と彼は冷たく言い放った。たちこめる霧のせいで比較的近くにいるクロウの顔もはっきりとは見えなくなってきた。
「でも、もしもこのまま別れてしまったら? 帰らずの森と呼ばれてるんですよ?」
「領主からの珠玉はルリが持っている。むしろ危ないのは私たちのほうだろう」
迷いこんだ旅人を飲みこむかのように、ごおお、と森がざわめいている。木々の半分以上が枯れていてもこの森は生きているのだ。
「じゃあ、やっぱり追わないと。珠玉を持ってるルリさんのそばにいれば僕たちも安全でしょう?」
「この霧の中でどうやって追いかけるつもりだ。それに、この女はどうする」
コクフウは呻いた。霧で賊長の姿が見えなくて忘れていた。
「彼女なら大丈夫ですよ。獣と争っていたくらいです、僕たちよりも森のことを知ってるみたいじゃないですか。クロウさんも癒しの術を使ってくれたでしょう」
高度な術にもかかわらず、クロウのそれには非の打ちどころがない。目覚めたときにはきっと自由に歩き回ることができるはずだ。
「このかたには悪いですけど、行きましょう。そんなに時間はたっていませんから、まだ追いつけます」
コクフウが立ちあがると、ため息をつきながらクロウもそれに続いた。
道とは呼べない道を、ぬかるみに注意しながらしかし泥水が跳ねるのを気にも留めずルリは走る。濃霧が追いかけてくるようでなかなか足がとめられない。
未来にはウィンドランド領主となる自分が、なぜサンドランドのただの人間に指図されなければならないのだ。十六、七といえばもう大人の域で、自分で判断できない子供ではない。
「どうしてあたしが……」
木の根につまづいたのをきっかけに、感情のままに走っていたルリは足を動かすのをやめた。透明な壁があるかのように、この場所だけ霧が晴れている。前方に、倒木に腰かけたあの男がいる。コクフウがその協力を欲した薄気味悪い男だ。回れ右して引き返そうとしたとき、彼はルリの存在に気づいた。
「また会ったな。仲間はどうした」
声をかけられてぎょっとした。五馬身ほど離れたところの腐りかけていた木に座っていたはずの男が目の前にいる。彼が立ったのも、移動したのもわからなかった。少なくとも頭一つぶんは背の高い男をルリは見上げ、それから視線を下に落とす。
「少しもめて……」
それを聞くと、男はあからさまに眉をひそめた。愚かな、と唇が動く。
「あまり離れないうちに戻ったほうがいい。会えなくなるぞ」
経験したことのあるような口ぶりに、熱かった身体が急激に冷えていくような気がした。己の短慮が恨めしい。そうだ、コクフウは正論を述べていた。彼は召し使いでもなんでもない、旅の仲間だ。どちらかが上に立っているなどということはないのだ。それに考えが及ばなかったとは、知らず知らずのうちに感情が昂っていたようだった。
「でも、この霧じゃもう戻れないわ」
「霧。そんなもの、どこにある」
「どこに、って……」
ルリは言葉を失った。すぐそこで渦巻いていた白い霧はなにかに払われたかのように目にすることができない。まさか、この男が霧を払ったのではあるまい。強い風でもない限りあれほどの霧を払うのは不可能に近い。
「仲間ところへの戻るのだろう。来い」
男はルリに背を向けゆったりした歩調で歩きだす。木が意思を持ってその男に道を譲ろうとしているように感じられた。霧すら晴れていき、彼のために新たな歩きやすい道が作られている。
いくらか歩いたところで、唐突に男が口を開いた。
「おまえ、どうしてこんなところにいる」
「そんなの死んだからに決まってるじゃない」
そう口にしてから、男が求める答えはこのようなものではないと気づいた。これでは誰に訊こうと、死んだからゴーストランドにいるとしか返ってこない。
「えっと、この国の領主とちょっとした取り引きをしたからよ。森に用事があって」
「口のきき方には気をつけたほうがいい。ここではおまえがどのような地位にあったかなど関係ないのだ。この国にはこの国の順位がある。……にしても、今の世ではおまえのように若くこぎれいな娘も死ぬのか」
「たぶん、それはあたしだけ。いつの間にか魔王の敵になってて、気がついたらゴーストランド城にいたわ」
味方だと思っていた魔王が突然手のひらを返したのだ。まったく理不尽ではないか。不興を買うようなことなどしていない。いったいなにをしたいのか、その目的がわからない。
「魔王の敵……待て、おまえは生きていたときのことを覚えているのか」
「まあ、そういうことになるかしら」
なにが不思議なのだろうと首をかしげると、賊長のレアズがルリのことを覚えていなかったことを思いだした。生きているあいだのことを覚えているのはなにか特別なことなのだろうか。しかし、クロウもコクフウもすべて覚えていた。特別が同時に三人もいるとは考えられない。
「あなたはどうなの? 覚えてないの?」
「こちらへ来たときは記憶があったが、もうほとんど忘れてしまった。ここでの生活は長くなる」
「出国許可は?」
「すでにもらっている。が、約束があってな。なにも言わず出国はできない」
許可が出ていても好き好んでずっとゴーストランドにいる者もいるという話だが、彼はその部類だろうか。出国すれば新しい命と姿を与えられる。それが嫌でゴーストランドで暮らす者は少なくない。ゴーストランドは戦のない平和な国だという理由もある。
「覚えていることを聞かせてくれないか。きっと向こうには、俺の知らないことがたくさんあるのだろう」
「それはいいけど、あなた、名前は?」
「名前など、とうの昔に忘れた。おまえはどうなんだ」
「あたしはルリ。そう珍しくもない名前よ」
男が息をのんだかと思うと、周囲の空気が凍りついた。そして彼は真っ直ぐにルリを見る。珍しくはないが、かといってありふれているわけでもないルリという名前のどこに男の関心を引く要素があったのだろう。
右頬の斑点を隠すようにして伸ばされた黒い髪の奥に、同じく黒い瞳が清とも濁ともつかない光を帯びている。その目で注意深く何度もルリの頭からつま先までを観察して、ようやく彼は言葉を発した。
「……思いだした。俺はホウキンという」
ただ単に名乗りたくなかったのではないかと疑問に思うほどにあっさりと彼は言った。
男が、ホウキンが一歩踏み出すごとに新しく道ができていく。しかし歩いてきた平たんな道を振り返っても、そこには道などなく、盛り上がった地面やそこらじゅうに張られた根ででこぼこしている。
行く手を阻むように前方にもやもやと漂っていた霧が道をあけるかのように晴れた。すると、ルリの目に見慣れた影が二つ飛び込んでくる。小さい影と、それよりももっと小さい影。
「あの二人か」
ルリは頷いた。ホウキンが行くように目で言うので、ルリは一度礼をしてから彼らに駆け寄った。
「コクフウ君! その、さっきは……」
「謝らないでください。僕の言いかたが悪かったんです」
突然現れたルリに肩をはねあがらせつつ、コクフウはほほえんで言った。それから彼はルリの背後へと視線を送る。
「ところで、そのかたは……あのときの?」
「そう。彼に迷ったところを助けてもらったの」
「生け捕りに協力してくれることになったんですか? 心強いですね」
「待て、待て。そんな話は聞いていない」
悠然と近づいてきたホウキンが口を開く。心底嫌そうというわけではないにしても、その表情は険しい。
「あたしたち、領主と約束をしていて。それで……」
「まさか、『秘宝』を集めているのではあるまいな」
背筋が寒くなったような気がした。ごく一部の者しか秘宝の存在を知らない。それなのに、なぜこの男はその秘宝のことを知っているのだ。ルリは秘宝のことなど口に出していないのに、だ。
「まあ、いいだろう。俺も退屈していたところだ」
これから愉快なことがはじまるとばかりにホウキンの口元が歪んだ。
読了感謝。