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時を刻む紅  作者: 榊原
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6-3.森に棲む獣

 その森の木は、半分が枯れていた。かろうじて生きている木の枝には逆さまになって三つの足を引っかけた見たことのない生き物が、その大きな目をぎょろぎょろさせて侵入者であるルリたちを見つめている。湿った地面には白い塊が点々と散らばっていて、それを踏むと小枝でも折れたかのような音がした。

「なに、この森。霧の森って名前なのに霧なんて少しもないじゃない」

「領主様の言っていたとおり、穏やかな感じじゃないですねぇ」

 気分の悪くなる異臭がするものだから、それぞれが服の袖で鼻を覆っている。少しでも早くこの場を去らなければ気絶してしまいそうだ。しかし立ち去るといってもどこへ行けば森から出られるかわからない。今歩いている場所もわからない。ゴーストランドの地図など見たこともないのだ。

「このにおい、どうにかならないかしら」

 森の中心部の思われる場所から生温かい風が流れてくると、クロウはなにも言わずますます顔をしかめた。息もしたくないといった表情だ。

 幸いなことに、ゴーストランド領主アルドラが霧の森まで転移術で送ってくれた。帰りの道も、彼が渡してくれた赤い珠玉にこめられた力で転移術が使えるのだ。日輪を取り返すだとか獣と戦うことになれば生け捕りにするだとか、これから難しいことをしなくてはならないとはいえ、これほど楽な道のりはない。

「ルリさん、領主様と話していたとき気にあてられたとかありませんでした?」

「別に、そんなことはなかったけど。なにか?」

「あのかた、なんだかルリさんを見ていたときだけ目が鋭かったといいますか。なんとなく見定められてるような感じだったので、少し気になって」

 ああ、と赤色の珠玉を眺めていたルリは頷いた。

「仕方ないわ。部屋に入ったときは最悪だったもの。まさか、この国がゴーストランドだったなんて思わなかったし。あたしたち、死んだってことでしょう?」

「ゴーストランドにいるんですから、そういうことになるでしょうねぇ」

「いつ死んだんだと思う?」

「わかりませんよ、そんなこと。フォレストランドに着いてすぐだったかもしれませんし、もしかしたらアイスランドを出たときだったのかも」

 死んだことにすら気づかせないとなると、自分たちの命を奪った者は相当な実力を持っているのだろう。苦痛もなにも感じなかった。それがいいことだったのかはよくわからない。

 そこでルリは、自分が死んだということをそれほど悲観していない自分を見つけた。領主の頼みを果たすことができれば元いた場所に帰ることができると知っているからだ。アルドラと話すことができなかったら今ごろどうなっていたことだろう。自身の強運にルリは感謝した。

「……カロンがいないとなにか物足りないものですね」

 唐突に思い出したようにコクフウが呟く。それはルリも薄っすらと感じていたものだ。

 まだ人語を操ることができない幼いスフィンクス、カロンは病を持っているとのことだったが、大丈夫だろうか。カロンの病にもっとも心を痛めているのは、不快そうな表情を消して一歩後ろを歩くクロウに違いない。

 気がついたころには、あの奇妙な三つ足の生き物は姿を消していた。



「……待て」

 いつも以上に潜められた声とともに、ルリの袖をクロウがつかんだ。なぜかと問おうとしたところでルリは毛の逆立つような緊迫した空気を感じ取る。わずかだが、血のにおいがする。

 本能ともいえる領域にあるなにかがルリに身をその場に伏せさせた。伏せていなければ巻き添えを食う。

 茂みの向こうで、空から落ちてきた黒い巨体が地に叩きつけられるのをルリは目撃した。巨木と並ぶほどのとても大きな獣だ。まだ唸り声が聞こえることから死んだわけではなさそうだ。そこへ女が赤い髪を振り乱して駆けつける。あの女、どこかで見たことがある。

 たった今落ちてきたそれを追ってきた風情の女は跳躍し、珠玉を放つ。一瞬のうちにあたり一面が凍りついた。獣の四肢を地面に縫いつけることに成功したが、いくらもしないうちに薄っすらと表面に亀裂が入り、やがて獣は自由の身となる。割れた氷の破片が飛び散って女を傷つけた。

「なんなんだ、こいつはっ」

 獣が自身の体長ほどにも長い尾を振りおろすと、女は身軽に飛び退ってそれを避ける。尾はやわらかな体毛に覆われているが地面は沈み込んでいた。女のほうがあきらかに動きが速い。力の差は歴然としているものの、そのおかげで彼女は生きていられたのだとルリは判じた。

「あの人は……」

 見覚えがあると思ったら、やはりアイスランドで出会った女だ。赤花賊の長、レアズ。しかし、どうして死者の住まうこの国にいるのか。赤花賊の居場所をしつこく尋ねてきた盲目の領主の手についに落ち、処刑されてしまったのだろうか。

「あっ、ルリさん!」

 伸ばされたコクフウの手を振り払ってルリは飛び出す。無謀だとはわかっているが、知人が襲われているのになにもせず眺めていることなどできない。ほんの数回しか言葉を交わしたことはなかったが、彼女は無償でルリの探している秘宝を渡してくれた。

「追うな、コクフウ」

 走り出そうとしたコクフウの裾をクロウがつかみ身体を伏せさせた。彼らが出ていったところで力にはなれない。

 駆け寄るルリに気づいたレアズがルリの後ろに氷の盾を作りだした。黒い獣の一撃を受けたそれはあっという間に砕け散る。ルリの背後を襲う牙からルリを守ったのだ。

「なんでこんなところに子供が……邪魔だから引っこんでな!」

 レアズはルリのことを忘れているかのような口調だった。出会った者の顔など全員覚えていられるはずもないが、数少ない混血児に出会ったということくらい覚えていてもおかしくないはずなのに。それほど昔に顔をあわせたわけではない。

「その獣を殺さないで!」

「あいつはあたしを狙ってる。生き延びるには殺すしかない」

 レアズはルリを突き飛ばす。赤花賊の首領の位にいただけあってそれなりに力も強い。いつの間にやら、彼女の手には腰にあったはずの短剣が握られていた。対峙する獣は会話を聞いているかのようにその耳をぴんと立てている。

「お願い、領主が殺すなって!」

「じゃあなんだ、あたしは死んでもいいってことかい」

「そういうわけじゃ……」

 獣が死ねば、ルリたちはゴーストランド領主の怒りを受けることになる。しかし獣を殺すことを妨げた自分のせいで誰かが死んでいくのは見たくない。

 レアズがルリに背を向けて目の前にいる獣に短剣を向けたときだ。ルリの視界が白いものに覆われたかと思うと、今までにないほどの血のにおいが漂いはじめた。

 黒毛と白毛、獣は二頭いた。ルリとレアズのあいだに白いほうが割って入ってきたのだ。

 レアズは後ろを振り返って信じられないものでも見るように目を見開いていたが、両足で立っていた。しっかりと彼女の双眸には白い獣の姿が映っている。しかしその背中には、あと少しで胴が断たれると思わざるをえない傷が一つ。地味な色合いの衣服がどす黒い赤に染められていく。すでに傷口がどこなのかはわからない。

「こ、のっ……」

 足元に血溜まりができるほどの出血にもかかわらず、レアズは平然と飛びあがってみせた。己を傷つけた白い獣、その血走った目に向けて短剣を放つ。が、なにかの守りがあるかのようにあと少しというところで短剣は弾かれた。

「ルリさん、ゴーストランドでは痛みを感じないんです! あのまま動き続けたりしたら……」

 茂みに身を伏せたままコクフウが声を張りあげる。彼の言葉は、死んでしまう、と続くのだろうか。だがここは死者の国。すでに死んでいる者が死ぬ、ということが果たしてありえるのだろうか。ここゴーストランドには未知の部分があまりにも多すぎる。他国に一切関与しないからだ。

 舌打ちしながら獣に突っこんでいくレアズの動きは、痛みを感じないのだとしても先ほどより確実に鈍っている。その状態で獣二頭を相手にするのは難しい。素早く動けたからこそ獣と渡りあえたのだろうに。

「僕らがいても彼女の邪魔になるだけですから、とにかく一度逃げましょう!」

「でも、どうやって……」

 茂みの中にいるコクフウの提案はもっともだ。しかしながら、どのようにしたら怪我人をつれて二頭もいる獣から逃げられるのか。痛みを感じないのはわかっているが、これ以上動かしたら危険だ。まさか、レアズのことは置いていけというのではあるまい。

 そのとき、一つの黒い影が現れた。ルリとレアズ、そして二頭の獣のあいだに入ったそれは一気にレアズに傷を負わせた白いほうの獣との距離を詰める。

 見事な剣さばき。この時代は戦場にでも行かなければ剣を使う場面など見ることはできない。面倒なことは力をこめた珠玉ですませてしまうからだ。帯剣しているということはどこか国の兵士だろうか。

 濃厚なにおいの中に薄っすらとした血のにおいを感じ取ったころには、白い獣はすでに背を向け、黒いほうはそれを守るようにして逃げているところだった。よかった、まだあの獣たちは生きている。

 ようやく危機が去ったことを確認したレアズは脱力して座りこむ。それをルリが後ろから支えた。もともと赤い髪がさらに赤く染められているのを近くで目にし、ルリは唇を震わせる。

 どろどろした血を払って剣をおさめた男は、振り返ってやっとルリとレアズを認識した。どうやら助けに来てくれたというわけではないらしい。

「子供が、こんな場所で何をしている。迷いこんだだけなら外に送ってやらんでもないが」

 気味の悪い男だった。黒髪の奥にある目は隈に彩られ落ち窪んでいるよう、さらに彼の向かって左の頬には親指の爪ほどもある黒い斑点がいくつも浮かんでいる。あごや首にも見て取れるそれはきっと全身に及んでいるのだろう。元が端整な顔立ちであるだけに、黒斑がそれを禍々しいものにしている。

「おぞましいか。これでも以前よりはよくなっているのだが」

 男は視線を下げて言葉を発した。ひたすらに暗い闇色をした目だったが、かすかにルリを気遣う優しげな色がある。

 頬に張りついた長めの黒髪を背中のほうに流しながら周囲を見ていた男は一方向で目をとめた。わずかな優しい色も一瞬のうちに心を読むことのできない闇色に塗りつぶされる。

「斬られたくなければ、出て来い。そこにもう二人ほどいるのだろう」

 茂みを直視し、剣の柄に手をかけながら男は言う。そこに隠れているコクフウとクロウの姿が見えているのではと思ってしまうほど彼の見ている場所は正確だった。身を潜めていた二人が長髪の男に従って姿を見せた。どういうわけか、クロウはコクフウの背に半ば隠れるようにしている。

「……あの女たちの仲間か」

 感情のない静かな男の問いかけにコクフウが黙って頷いた。

「では、早く行って手当てしてやるといい」

 そう言われた二人は男の放つ重圧から逃れるようにこちらへ小走りで近づいてきた。

「ルリさん、その人は?」

「アイスランドで赤花賊の長をやってたレアズさん。一応会ったことはあるんだけど、どうもあたしのことは忘れてるみたい。クロウ、あの術は使える?」

 そう言われることを予想していたかのように、クロウはすでにレアズの背中のあたりに手を添えていた。心の救われるような、温かく淡い安心できる光がクロウの小さな手から発せられる。傷口が閉じていく、とルリは思った。

「おまえ……俺のこれは治せないのか」

 突然、レアズが癒されていくのを見ていた男は他者を圧倒させる気迫を発しながらクロウにつかみかかった。声を荒げずとも詰問する調子で言う男によって宙に持ちあげられたクロウが身体をこわばらせながら首を横に振ると、男は無力で小さな子供の様子を憐れに思ったのか肩の力を抜いてゆっくりとクロウをおろした。

「悪かった。……邪魔をした」

 くしゃりとクロウの頭を撫でると、ルリが引きとめるのも聞かずに男は長い黒衣を翻して去っていった。この森の中をどこへ行こうとしているのだろう。

 血のにおいが濃すぎるせいか、それとも鼻が慣れたのか、あの異臭はしなくなっていた。

読了感謝。

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