5-2.北の気候
その後もときおり襲いかかってくる魔物と戦いながら、ルリたちは確実に進んでいた。吐く息は白く、武器を握り締める手はその状態で固まってしまっている。指が寒さで動かない。
ほぼ夜明けとともに村へたどりついた。先ほどの廃墟のような村よりも大きいそこは町と称してもいいくらいで、朝も早いというのに何人かが外に出て雪かきをしている。
町ともなれば必ずといってもいいほど宿がある。一睡もせずに歩き続けていたルリたちは、とにかく暖かい場所で眠りたくて宿を探しはじめた。クロウはすでに半分寝ている。むやみに歩き回っても疲れるだけだと言って、コクフウはすみませんと近くにいる人に宿の場所を尋ねる。人の機嫌を損ねずに声をかける姿は手馴れたものだ。
「この村に宿はありますか? 場所を教えてもらいたいのですけど」
「宿? 残念だけどこの村にはありませんよ。隣町のスエジに行かなきゃ」
「スエジですか。そこにはどうやって行けば?」
コクフウと女のやり取りを後ろで見守っていたルリは、突然前から衝撃を受けて後ろにさがった。クロウよりもやや幼いかといった少年がぶつかってきたのだ。
「あ、ごめん姉ちゃん!」
年下はそう悪びれる様子もなく走り去った。なにやら相当急いでいるように見える。ルリも一応謝罪を受けたので気にせずそれを見送った。
ルリがそうしているうちにコクフウは話を終えた。
「隣のスエジ町の宿は、寝るだけなら一人三百ロントらしいですよ。九百ロント、ありますか?」
コクフウの言葉を受けてルリは所持金を確認するために小さな袋を、続いて衣服や外套の隠しをあさった。祖国を出立する際に母に持たされている。しかしそこにあるべきものはなく、ルリは手で顔を覆った。
「どうかしましたか?」
「さっき男の子とぶつかったんだけど、そのとき盗られたみたい。九百ロントどころか一ロントだって持ってないわ」
「そんな……じゃあ、これから?」
「ごめんなさい」
不安を隠さずに言われ、詰問されるほうが楽だったと思いながらルリは素直に頭を下げた。少し気をつけていればこうはならなかったものを、盗まれたのはこちらの不注意だ。旅をするのに金銭はいくらあっても足りないのにそれが一ロントもない。
「普通、わけてしまっておかないか」
「本当にごめんなさい」
冷たい視線を送ってくるクロウの言葉はもっともで、ルリはただただ頭を下げるほかなかった。
必然的に朝食はなくなった。もともと宿を取ろうという考えであったし、そうでなくても食べ物に関してはどこかの町で購入しようと思っていたのだ。食事の一食や二食、抜いたとしてもルリにとってはたいしたことではなく空腹を感じるだけのことであるが、コクフウはどうだろう。
「大丈夫ですよ。あの人は機嫌が悪かったときはご飯をくれないことだってありましたから」
サンドランドでの主を例に出すコクフウの身体はあまりにも細い。手を握ってみればまるで骨を持っている心地がしそうだ。ルリが恐る恐るコクフウの顔色をうかがっていると、彼はそう言った。
「でもほら、男の子だし食べ盛りだし、人間だし……」
「ああ、ルリさんは混血児でしたっけ。人間と混血児にそう違いはありませんよ。本当に大丈夫ですから、気にしないでください。幸いこの国にはサンドランドと違って川もありますし、食べられる野草もあります。いざとなればそれで命は繋げるでしょう」
ちゃんとした食事を摂らなければならないと誰が決めたのだとばかりにコクフウは穏やかな笑みとともに言ってのける。遠慮深い彼のことだ、ルリが持っていた金を盗られたせいで無理をしている。
「とりあえず、隣町っていうスエジに行ってみましょう。日雇いの仕事でも見つけられるかもしれません」
「そうね。……ごめんね」
「よしてください。僕がいなければもっと旅も進んだのに」
コクフウと話しているルリは、自然と微笑がこぼれた。先ほどよりもいくらか軽くなった足は村の出入り口に向かっている。
カロンと一緒に二人の半歩後ろを歩いていたクロウが、突然ルリの袖をつかんで言った。
「腕に自信のある者は、スエジ町、テーリアソンの屋敷に集え。賊の捕獲に成功したら褒賞金として百レイル」
ぼそりと呟かれたクロウの言葉にルリが勢いよく振り返ると、クロウは民家の壁の貼り紙を読んでいた。まだ新しい。
「今、なんて?」
「褒賞金として百レイル」
百レイル。その言葉を聞いたコクフウは不思議そうな顔をしていた。限られた範囲でしか生活していなかった彼にとってレイルという単位は未知のものなのかもしれなかった。
「あの、百レイルってどれくらいですか?」
「一万ロントが一レイルだから、百万ロントで百レイルよ」
「……いまいち、よく」
今にも頭を抱えて本気で悩みだしそうな雰囲気だ。たしかにこれだけの単位となると実感が伴わない。なんとかわかりやすい説明を、とルリは考える。
「この村の家くらいの大きさなら百レイルで充分材木は集められるわ。少しお釣りがくるくらい。あとは、この小刀が八十レイルくらいかしら」
言いながらルリは己の短剣を取り出す。だたの短剣ではなくコクフウの持つものと同じように細かい文字が彫られている。母から渡されたものだがそれよりも炎術に頼ってしまい、そうそう機会もなく、刃物はあまり好きではないこともあってまだ使ったことがなかった。
「八十レイル? こんな、たった一つで?」
コクフウは血相を変えた。単位の大きさを理解したというより、たかだか短剣一本がそれほどするということに驚いている様子だ。
「コクフウ君の持ってるやつも、街でよく見かけるとはいえ結構な値段だと思うんだけど。普通の短剣じゃないでしょう?」
「そんな高価なものだったんですか、これ」
「知らなかったの?」
「街に行く機会なんてそうそうなかったですし、これは物心ついたときからずっと持っていたので」
くい、とクロウがルリの袖を引っ張った。
「どうする」
いつの間にかクロウは貼り紙を剥がして手に持っている。勝手に剥がしてしまったことに焦ったが、村人は貼り紙など見ていないようであったし、多少悪いような気はしてもルリは咎めなかった。
「百レイルもあればしばらくのあいだは楽ができるわ。もちろん、行くしかないでしょう」
「言葉が通じるだけ魔物より賊を相手にしていたほうが楽そうですしね」
スエジ町へ行くという決定は誰にも反対されなかった。眠れなかったのはつらいが場所がないのでは仕方がない。
陽が沈みかけている。スエジ町まであと少しのところだった。朝から歩いているというのに村から隣の町に行くだけでこれほど時間がかかるものなのだろうかと思ったが、その疑問は解消された。だんだんとコクフウの足取りが重く、ゆっくりとしたものに変わってきていたのだ。
「すみません、僕、もう……」
コクフウの顔色は優れない。唇は青く、アイスランドの乾燥した冷たい風にさらされて顔は蒼白だった。南と北、サンドランドとアイスランドでは気候の差が激しい。うっかりしていた。
「コクフウ君、あと少し、もう少しだから」
膝をついてしまった彼にルリは手を、肩を貨す。一歩、また一歩と進んではいるのだがなかなか町は近くならなかった。コクフウの身体はとても熱かった。
「もしかして、やっぱり熱が出てる?」
あのとき所持金をすべて盗られなければ、という後悔の念がどっとルリに押し寄せる。人間が休みなしに寒冷地を歩くのは無理があったのだ。朝食を摂っていれば、今と状況も違っていたかもしれない。
「クロウ、サンドランドで使ったあの力、使えないの?」
「できない」
思っていたとおりにクロウは即答した。癒しの力は使い手の消耗が激しくやすやすと使えない。加えて、クロウのような子供が癒しの力を使えるというのがありえないといっても過言でない。簡単に頼るのは今後は控えたほうがよさそうだ。
「すみません、また僕のせいで……」
「具合が悪いんだったら、ぎりぎりまで我慢しないで」
それにコクフウは答えなかった。答える気力もなくなったのかとコクフウをちらと見やった途端、ルリが支えていた彼の身体が一気に重くなる。重心が定まらなくなり雪に足をとられ転びそうになったが、なんとか抑えた。
「コクフウ君……?」
気を失っている。息は荒く、うつむき加減の蒼白だった顔は赤みを帯びていた。
彼の様子に困り果ててルリはその半歩後ろを歩むクロウを振り返った。ルリの視線に気づいたのか、彼女を見上げて問う。
「休むのか」
「もう町はすぐそこなのよ? あたしが背負っていけばなんとかなるかもしれない」
休むかと訊かれれば、そう答えるしかなかった。このような場所で野営をすれば翌朝には死んでしまう。
夜が来てから戸を叩くのはよく思われないことだとわかっている。しかしこの状態のコクフウをそのままにしておくこともできない。目と鼻の先に町があるにもかかわらず極寒の地アイスランドで野営をするのは馬鹿げている。宿は金がないから無理かもしれないが、暖かい民家の一室でも借りられればそれでいい。コクフウはサンドランドから来ているのだ、外はつらすぎる。
混血のルリは、多少暑かろうが寒かろうがそれほど不快には感じない。ある日、人間の母親が気候により体調を崩して初めて感じかたが違うのだと知った。正直なところ、ルリには人間にとってどこまでが大丈夫でどこからが危険かはよくわかっていない。
ルリは気を失ったコクフウをなるべく負荷をかけないように背負った。年齢はルリのほうが上だが背丈はコクフウのほうがやや低く、その身体はおそろしく軽かったためルリはなんの問題もなく彼を背負って歩くことができた。コクフウが自主的に歩いていたときよりもこちらのほうが早いようだった。
町はすぐそこだといっても、魔物が出てきてはおかしいというような距離でもない。だが運良くルリたちは野に生きる魔物に一体も遭遇せず、陽が完全に沈んで少ししたころに町にたどりつくことができた。サンドランドからこの国に来たときはかなりの魔物に襲われたものだが、それを思うと不思議なくらい静かだった。
家畜小屋の戸のような門の前に軽く武装した一人の男が立っていた。見張り役といったところか。小さな門の左右に松明があり、そのあいだに男は目を閉じ腕を組んで佇んでいる。ルリが一つ踏み出すと、男は閉じていた目を開いた。
「この町になんの用だ」
「連れが熱を出してしまって」
背負っているコクフウを示す。男はコクフウに目もくれず、それでと冷ややかに続きを促した。
「民家でも宿でもいいのでどこか部屋を貸してくれないかと。でも、お金は持ってないんです」
盗られちゃって、とルリはささやくように言った。
「金がないんじゃ話にならないな。野宿でもしていろ」
「でも、連れが」
「こっちもぎりぎりなんだ。悪いな」
「別に一室くらい……」
「子供だけってのは金以前の問題だ。最近、うまく子供に化けた魔物が村や町を荒らしまわってる。朝ならともかく、夜にここへ入れるわけにはな」
子供の魔物ならたしかにクロウがいるが男の言う件とは関係がない。背格好など詳細は知らされていないようだ。
この町にも魔物の子はいるだろうに、町の子がその一件に関わっているとは考えないのだろうか。よそ者に敏感になるのはやむをえないが子供だからといちいち呼びとめていてはいざというとき仕事にならない。
魔王直紋を利用して町に入ろうかと思ったがルリは踏みとどまった。直紋を使うということは自ら素性を明かすことに等しい。ルリと面識のない者でも直紋を持っていることを知ればルリが手配されている人物だと気づくかもしれない。それだけは避けなければならない。
「それじゃ、テー……テーリアソンって人に会いたいんですけど」
屋敷に住んでいる人物の名前を忘れてしまったルリは下のほうからそっと差し出された貼り紙に書かれた名を読んだ。権力者だろう、長い名前だ。
「町長様がどうかしたのか?」
「あたしたち、隣の村からこの貼り紙を見てここまで来たんです」
コクフウを背負っているため手の空かないルリに代わりクロウが貼り紙を男に渡す。男はそれを眺めてなにやら納得した様子だった。
「なるほどな。町に入るのを許そう。町長様の屋敷は大通りをずっと進んだところだ」
「ありがとうございます」
貼り紙を見せることですんなりと通せてもらえたならはじめからそうしていればよかった。クロウが貼り紙を剥がして持ってきてくれていたことにルリは目礼して感謝の意を示す。
「町の奴らに襲われないよう、気をつけろ」
男からそのようなわけのわからない言葉をかけられながら、町へと通された。
途中から石畳があって、出店がいくつか並んでいる。等間隔に松明がある。家の大きさや木材の質もそこらのものより上のようだ。先ほどの村が四つや五つはすっぽりと入るほどの大きさの町。複雑に入り組んだ造りになっているわけでもなく、大通りから離れなければ、あるいは離れてもそれを見つけられれば迷うことはなさそうだ。
大通りには遊技場や酒場、宿などが面しており華やかで活気がある。それは町の者が裕福な証か、それとも旅人の懐をあてにしているということか。なにかあれば一晩で寂れてしまいそうな町だった。町はいくつかの村の集合で形成されることが多いがここはどうもそうではないという印象を与えられた。
その大通りの明るい喧騒の向こうに、目的地とする屋敷はあった。
「例の屋敷って、あそこよね?」
確認するルリにクロウはうなずいた。
町にある、町長の屋敷。報奨金として百レイルを出すくらいだからそれなりに大きなものを想像していたが、ルリの想像を上回っていた。なにしろここからでも屋敷だということがよくわかる。たいていの町長の住まいはこの広さの半分だ。門から奥にある扉まで結構な距離があるように見える。
見える範囲に目的の場所があって気が楽になり、行きましょうと声をかけてルリは再び歩きだす。コクフウをおぶる腕もそろそろ痺れてきたところだ。