4-6.滴る錆色
クロウは一人、燃える太陽の下で砂漠を歩いていた。
この旅に誰かを加えるなどと、それが何者であろうと反対だった。現段階で、幼いとはいえ一応魔物である自分ですら足手まといなのだ。それがただの一般人、それも人間をどうして旅に連れて行けるのか。
クロウは歩みを止めて振り返った。
「待ちなさいよ、クロウ。あんな言いかたはないんじゃない?」
「一緒に行きたかったのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
ルリも彼を連れて行くのは賛成ではなかったようだ。少々強引で傷つけるような言いかただったが、歯切れの悪い言葉はコクフウを突き放してくれたクロウに感謝しているように聞こえる。
コクフウには妹がいる。それを知っていながら危険を伴う旅に同行させることはできなかった。旅の過程で彼がゴーストランドへ行くことになったら妹がかわいそうだ。
「でも、もう少し丁寧に断ってもよかったじゃない」
「強く言わないと効果がない」
「そうかもしれないけど」
もう後がない、というような今までにないコクフウの顔つき。もう少し天幕の中が広ければ土下座でもしそうな勢いだった。一度追い払えばすむと踏んでいたのに彼は何度か食いついてきた。小さな牢の中で見たコクフウはすぐ諦めの早そうな表情だったのだが。
「でも、コクフウ君には妹がいるはずなのに、どうして一緒に行きたがったと思う?」
「なにか事情があったんだろう」
事情、とルリはクロウの言葉を繰り返して後ろを振り返った。
コクフウはかわいがっていたたった一人の妹すら置いていくつもりだったのだ。よほどの事情があったのだろう。そうしたいからというだけの理由で妹を捨てていくような性格には思えない。
ルリたち二人はスフィンクスを伴って領主の城に向かって歩く。第六感がこの方向だと示すのだ。初日よりも暑さに慣れ、昨日の泉で水分も確保した。もう二、三日くらいならどうにかなりそうだった。
「あてもなく歩いて大丈夫なのか?」
「あたしたちのことは勅命も出てるし、リューズエニア領主も話をつけとくって言ってたから、あたしたちがここに来ていることをサンドランド領主が知れば迎えが来るわ。……きっと」
沈黙の後にとってつけられた推測の言葉に、クロウは沈黙で返すしかなかった。
しばらく砂漠をふらふらと彷徨っていた二人だったが、ルリが口を開いた。
「あれって幻だと思う?」
サンドランドでは遠くで揺らめく影をよく見る。ルリが示したのは黄色い砂の上に一点の茶色だった。馬のように見える。だんだんと聞こえてくるのは車輪の回る音。よくこのやわらかい砂に沈まないものだ。徐々にそれは近づいてきた。
やがてそれはルリの目の前で止まり、馬車の戸が開かれる。
「このような場所においででしたか、紅の混血児様」
出てきたのはひげを生やした小柄な男と、細く背の高い女。対照的だ。
「お許しください。領主が先ほど遠征から戻り、またある事件があり馬車をすべて使ってしまったので探すのに手間取ってしまいました」
「さあ、参りましょう」
先日の屋敷の件だろうことを理由にした二人はルリたちに深々と礼をした。そしてルリ、クロウ、カロンは馬車に乗り、今までの苦労を疑問に思ってしまうほどあっさり城へついてしまった。
黄金の光を受けて輝く正四面体の砂でできた城はまた壮大であった。入り口がないように思われたが、門番が後ろを向いてなにかするとたちどころに人の通れる穴ができる。砂が上から落ちてくることはない。
使者の導きで中に入ると、すぐに領主の間へと案内される。白い床の上に一直線に敷かれた赤い絨毯の先には、すでに恰幅のいい領主があごひげをいじりながら鎮座していた。
「迎えが遅くなってすまなかった。私がサンドランド領主、イシズミアだ」
平均よりもわずかばかり高い男の声だ。彼のまとう衣はなにもかも上等で、上着の止め具や指輪などを中心とした装飾具も、目深にかぶる大きな帽子も一目見ただけでわかる一級品。七大国の中で序列最下位にあたるサンドランドでも、さすがにそこらの村長などとは格が違う。
上の者は支配下の者たちに格の違いを見せつけ、恐れや尊敬といった感情を抱かせなければならない。そうすることで暴動を未然に防ぐ効果があるのだ。また、この人がいれば大丈夫、といった安心感を抱かせることができれば上々だ。
優しそうだがどこか人を見下したような、帽子のつばから時おり見える彼の目。それがルリの周りをうろちょろするカロンを映し出した。
「おや……いいスフィンクスを連れている」
ひげを撫でながらイシズミアは言った。癖なのだろうか。
スフィンクスはサンドランドにおいて神聖視される魔物である。ルリたちの連れているカロンは白羽黒紋と呼ばれる類の、その名のとおり白い翼と額に黒い紋章を持つ珍しいスフィンクスだ。サンドランド領主が目をつけるのは当然だろう。
カロンは不思議そうに首をかしげた。自分のことを話題にされている、と思ったに違いない。大きくてまん丸の海色の瞳がきらきらと輝いた。二歩、三歩と近づき、再び首をかしげる。やがてルリの足元に戻り、その紅の裾をくいと引いた。
「ずいぶんとかわいらしいな」
「まだ幼いですから」
ルリは素っ気なく答えた。
「それで、用件はなんだろうか。悪いが手短に頼む。なにぶん忙しい身なのだ」
ルリらが入室したときはそれほど忙しそうには見えなかった。だが遠征後ということで少し休んでいたのかもしれないと無理やり結論づけた。
ふと今まで気にもならなかった彼の肥えた身体が目に入った。領主という立場のためか、剣を握ることもなく鍬を振り下ろすこともない、衣に隠れた腕。帯で締め付けられてもなお出張った腹部。飢えや渇きに苦しむ民とは正反対だ。中には骨と皮だけのような者もいるのに。
クロウがルリの袖を軽く引いて小声で名を呼ぶ。クロウの含んだ物言いにルリはその意を理解した。
イシズミアは稀に見る才人だという。これは魔界に住む者すべてが知ることだ。
「失礼ですがイシズミア様。いつ代替わりをされたのですか?」
普通、領主が替われば各国に通達が行く。それは戦時下でも変わらない。しかしそのような話は耳にしたことがなかった。ルリの母国であるウィンドランドだけ除け者にされていたということはありえまい。
「代替わり? そんなことはしていないが」
「そうなのですか? しかし、サンドランドの領主は」
魔界の者すべてが知っている。魔界に大きな波紋を呼んだからだ。ルリの生まれる前のことだとはいえ、次期領主だったのだから父や師にたくさんのことを教わっている。それは前代未聞だったからこそ、記憶に色濃く残っていた。
「前例のない女領主のイシズミアだと聞いているのですが?」
領主として今ここにいるのは男だ。
着任当時は女などという反対の声が多かった。だが領主の座についてからは数々の手柄を立て、己の治める国、民衆のために尽くした。その結果才人の名を冠したのだ。彼女の才は生まれついてのものだった。だが、その能力は発揮されてこそのもの。発揮されなければ不要な物と同じだ。彼女は与えられた能力を最大限に発揮したに過ぎない。
ルリの目の前にいるイシズミアは、やがて肩の力を抜いた。
「まさか、ここまできて気づかれるとは」
彼はさっと左手を上げる。同時に聞こえてくる複数の足音。どこからともなくわいて出た兵士たちに、ルリたちは囲まれた。
「そのスフィンクスが口を利けなくて助かった。一度イシズミアの代理、兄として会っていたからな。姿はいくらでも変えられるが、においだけはどうにもならん」
カロンがしきりに首をかしげ、ルリの裾を引っ張っていたのはそういうことだった。ある屋敷の主に捕らわれたルリたちを助けるためにカロンはこの城で彼と会ったことがあるのだ。姿は違うようだが、においでわかる。それを伝えたかったに違いない。
カロンの言いたいことに気づかず、またクロウやルリがサンドランドを治めているのが女だと知らなかったらどうなっていただろう。殺される可能性もなくはない。大事になる前に気づけてよかった。
「生きていれば手段は問わない、と言われたものでな。……離宮へ連れて行け」
領主の言葉を聞くや否や、兵は腰の剣を抜いた。
「大人しくしてもらおう」
ここまできて捕らわれるわけにはいかない。ルリは小刀をすっと取り出した。ウィンドランドを出るとき母に持たされた小刀だ。美しい細工が施された金の小刀。装飾用にしか見えないが、角度を変えれば刃の輝きが増す。
カロンは誇り高く獰猛なスフィンクスの本能をルリの隣でむき出しにしている。クロウは幼獣ほどやる気はなさそうだが、いつでも戦闘に入ることができるようにとまとう気を変える。幼い外見なのにこのような状況に慣れていそうなのが奇妙だった。
ルリはクロウの力を見たことがない。だが、所詮子供だと侮ってはいけないことくらい彼の深い紫の瞳を見ればわかる。紫は人外の証であり、高位を表す色なのだ。見る者が見れば、相当な力を持っていることがわかる。
戦いの準備は整った。それぞれが地を蹴りだそうとする、そのときだった。
「そこまでだ。これを見ろ」
響く偽りの領主の声。彼の手には鈍く光る長い剣が握られている。それは妙に細い首筋に当てられていた。
「みなさん、僕のことは構わないで……」
コクフウであった。手は後ろで縄によって縛られ、抵抗もままならない。
「なぜ、という顔をしているな。迎えの者がいただろう? おまえたちがこいつと話しているのを見たといってな。利用できると踏んだのだ」
不意をついて背後から襲ってくる兵を、ルリは反射的に小刀で薙ぎ払った。その途端、コクフウの首筋からは赤いものが流れる。それはゆっくりと領主の持つ剣を伝い、白い床に滴り落ちた。
ルリは息を呑んだ。
一滴、二滴と緩やかに落ちるそれ。甘い甘い、どのような物にも勝る極上の味とされる人間の子供の血。視覚的にも嗅覚的にも訴えかけてくるそれは、ルリの中に眠る魔物としての本能を揺さぶる。魔物と人間という枠組みでは彼と同族であるオサードに対して、このようなことは感じなかった。
甘いにおいにめまいがした。遥か昔は人間など忌むべき存在だったと書かれていたのに。
「ルリ」
クロウの冷めた声が、ルリを急速に現実へと引き戻す。血に魅了されたのはほんの一瞬。ぐらついたルリの瞳がその一瞬の中にあったことを見抜いたクロウが彼女に声をかけたのだ。
今まで自分はなにを考えていたのだろう。
コクフウが構うなと言っても、これを見てしまえば抵抗できるはずがなかった。甘い考えかもしれない。それでも、誰かが死ぬのは嫌だった。
ルリは小刀を放り投げた。その行為により、クロウとカロンは戦意を喪失する。
「そうだ、それでいい」
領主を名乗っていた男は満足げに口元を歪め、血の付着した剣を軽く払って鞘に収めた。宛がわれる剣から開放されたコクフウは安堵のため息をついた。しかし、未だ彼は領主の手の中にあり緊張を解くことはできない。魔物と人間、大人と子供。力の差は歴然だ。
自分たちの勝ちを悟った兵たちは、乱暴な手つきであっという間にルリたちを捕縛する。
「動くな」
手首に太い縄が食い込んだ。跡になったらどうしてくれると睨みつけたが与えられたのは叱責だった。なぜ彼らは領主が偽者だと知っていながら従っているのだろう。真の領主に従う兵士はどこへ行ったのだ。
「ちょうどいい、こいつも一緒に連れていけ」
先ほどまでコクフウの命を握っていた男は、少年を兵のほうへ突き飛ばした。うまく体勢を整えることができないコクフウはその兵の前で転倒した。細い身体が悲鳴をあげている。折れていないことを祈るしかない。
「立て」
コクフウの手は縄によって元々縛られている。しかし兵はそれを気にするわけもなく強引にコクフウの腕を引っ張った。引き摺られていくよりはましとばかりにコクフウはなにも言わない。慣れている、と自分に言い聞かせているのかもしれない。
こうして、拘束されたルリたちは砂の離宮へ連れていかれた。