4-4.その手を取って
薄暗い井戸をそろそろと降りていくと横穴があり、大きな通路が続いていた。そこをさらに進んでいく。通路の壁は乾ききっていて、もう何年も水が流れていないということがよくわかる。
「今まであの仮面の言いなりだったのに、どうしてあたしに協力してくれるの?」
「本音を言うと、うんざりしてたんです。遅かれ早かれこのままじゃ確実に僕たちは死にますから。そうなるなら、なにか行動を起こしたほうがいいと思って」
いよいよ本格的に暗くなってきた。ルリにとってたいした苦ではないが、コクフウはただの人間だ。なにも見えないだろうと思い、ルリは指先に炎を灯した。大きなものではないがこれで十分だろう。
コクフウはやはりたいして見えていなかったらしく、短く礼を述べた。
それから両者無言で進んでいくと、その先には小さな扉があった。熱気を感じる。
「行きましょう」
取っ手は熱くなっており、ルリは堪らず手を離した。今度は外套の端で手を覆い、再び手を伸ばす。
扉を開け放つと熱気が吹きつけてきた。
向こう側で待ち受けていたその巨体に、ルリとコクフウは後退った。井戸の奥の熱源の正体は、予想どおり炎の魔物だった。赤い鱗を持つ長い胴体をくねらせ、上から覗くようにしてルリをまっすぐに見ている。魔物が守るようにしている背後にはもう一つの通路が見えた。
「コクフウ君、ちょっと隠れてて」
ルリの指示でコクフウは近くの瓦礫に身を潜めた。彼が隠れたのを確認して、ルリは高揚する気分を落ち着かせようとゆっくり呼吸をした。半分だけとはいえ魔物の血が流れているのだと実感する。
睨みあいが続く。その均衡を破ったのはルリだ。
相手の技量を測るために珠玉を魔物に投げつける。しかし尾で弾かれた。少しは傷がついているようだが、炎に炎では効果は薄い。
「どうしよう」
手強い。だが、ここで退くわけにはいかない。
攻撃を仕掛けては逃げ、逃げては仕掛け。そのやり取りが何度も続いていたが、どう贔屓目に見てもルリのほうが押されていた。一時しのぎにと隠れた瓦礫の陰で、ルリは荒い息を吐く。落ちつかなければ。
この瓦礫の山も、いつまでももつまい。ルリは機会を見計らいその陰から出る。
途端、待ち構えていたかのように蛇の数十倍ある魔物の口から炎が放たれた。内心悲鳴をあげながらルリはその火の球を紙一重で避ける。なるほど、こちら側へ流れてきた水も蒸発してしまうわけだ。水はすべて魔物の向こう側の通路に流れている。
他の魔物とは違う。一歩間違えれば死ぬ。その事実はルリの身体の動きを鈍くした。こういうときこそ素早く動けなければならないのに。すでに気迫の面であの魔物に負けているのだ。
もう駄目かもしれない。そう思ったとき、相手の長い身体の動きが遅くなった。
「なにをしている」
男と判断するのに少しばかり時間のかかる、どこかで聞き覚えのある声。最後に耳にしたのはいつだったろう。何度か遭遇している。
「たしか、青の混血児の」
「呼ぶな」
彼は指の先まで揃えた手を静かに一振りする。どこからともなく大量の水が現れ、それが魔物の真っ赤な鱗に降り注いだ。白い煙の中からあがる悲痛な咆哮が耳にいつまでも残る。
一面を支配する真っ白な水蒸気。銀色の髪がそこへうまく紛れて彼は姿を消した。
「なんだったの、今の……」
今までになく力の差を感じさせられた。
自分とは対極の秘宝である絶望を集めている、青の混血児。サンドランドへ向かったという推測は当たっていたが、彼より先に希望を集めることができるのか、ルリにはわからない。いや、不可能に思えた。差がありすぎるのだ。
水蒸気がやっと薄くなってきたころ、魔物の姿が浮き彫りになる。硬い鱗で覆われていた胴はところどころ朽ちていて、骨が見え隠れしていた。
これを見て、ルリは青の混血児の実力を思い知った。水と炎では当然水のほうに利がある。それを考慮したとしてもありえない。術の一つ、手の一振り。その結果がこれだ。
「ルリさん、大丈夫ですか?」
なんとか、と答えるものの声に気が入らない。無理もなかった。
「……なにか聞こえませんか?」
コクフウが言うのを受け、ルリは耳を澄ませる。かすかに水のはねる音がする。
規則正しく響くその音がだんだんと近くなってくる。青の混血児が消えたほうから仮面をした屋敷の主が悠然と歩いてきたのだ。彼は魔物を目にすると息を呑み、もう命の無いそれに駆け寄った。触れると同時に骨まで粉々になった魔物を見て、男は膝をつく。
「きさま、よくも」
「そんな、あたしはやってないわ」
仮面の奥にある目がルリを認めると、仮面に隠れて見えなくとも途端に憎悪の表情になったことがわかる声を絞り出す。怒りの声だった。ルリが弁解しようとしても彼の耳は聞き入れない。
「そこまでだ! 大人しくしろ」
別の男の張りのある声。
サンドランド軍の兵士が瞬時に男を取り囲んで剣を構える。わいて出たように現れたが、いつからいたのだろう。ルリもコクフウもあの男だってまったく気づかなかった。
「さあ、その手に持っているものを捨ててもらおうか」
兵の一人が前に出る。差し出される珠玉を受け取ろうと彼が男に向かって手を伸ばしたそのとき、男は声の限りで叫ぶ。
「くっ……よくも、よくも!」
まずい、と本能的にルリは障壁を張った。
次の瞬間、爆音が鳴り響き、この場は目も眩む閃光に覆いつくされた。
地下からの衝撃が屋敷を崩しはじめた。井戸と屋敷はつながっていると聞いた。ルリがなにかしたのだ。
天井から小さな石がぱらぱらと落ちてきて、クロウとアンリは伏せることで衝撃をやり過ごしていた。振動が静まってくると他の子供たちも頭を上げ、なにがあったのだろうと口々に言う。
「大丈夫か」
「アンリは、平気」
「走り抜ける」
「でも、まだお姉ちゃんが!」
立ち止まるアンリに言われて、クロウは先ほどのことを思い出した。彼女がお父さまとやらの命令で部屋を出ていったときのことだ。
『彼女は今、弟と同じ場所にいます。ここへ来る前に鍵をはずしておきました。おそらく、あなたを助けようと動いているでしょう』
ルリは簡単に死ぬような女ではない、きっとなにかしでかすに違いないとは思っていたが、ルリは無事というコクフウがくれた情報しか知らなかったクロウはほっとした。
『彼女が成功したら、わたしたちには構わず逃げてください』
『悪いが言われなくてもそうするつもりでいる』
たとえ一緒に逃げたとしても、ここにいる子供たちはどうだか知らないが、この女は助からない。見れば誰でもわかる。病のにおいがするのだ。放っておいても、ここで生き埋めにならなくても、近いうちに命は尽きる。
『巻き込んでしまって申し訳ありませんでした』
淡々と言って、彼女は去った。それからほんの少したってからアンリが戻ってきた。ということは、どこかですれ違っているはずだ。
「あの痩せたのが姉なら、もう死んでいる。今は自分のことだけ考えろ」
「そんな……お姉ちゃん!」
クロウはこの場に留まろうとするアンリの手を強く引いた。彼女の人生は姉のように終わるものではない。ここで終わらせてはいけない。
泣きわめく少女をなだめすかしながら外部へ向かう。外へ通じる道にはある程度流れができていて迷う心配はなかった。光を浴びるころにはアンリの抵抗もなくなった。やっと姉のことを諦めたと見える。
屋敷の門前には兵士や医療に携わる者が何人もいた。何十、何百という子供たちもまたそこにいた。
「どうしてお家が崩れたの?」
「ねえ、お父さまはどうなっちゃったの?」
がやがやと子供たちが騒いでいたのはほんの少し前のことだ。
彼らの言うお父さまが死んだということは、すぐに子供たちのあいだに広がった。酷いことをするが親代わりでもある彼を失い泣く子供も数人いたが、もう暴力はなくなったということで他の多くの子供たちを安心させた。そのためか屋敷が崩壊したことによる混乱は比較的早く収まった。
クロウの助けもあり崩れていく屋敷を脱出することができたアンリは、クロウに肩車をされ兄を探した。身体はクロウのほうがアンリよりまだ大きいが、その足元は震えている。
「どうだ、いるか?」
「えーっと……わかんないや」
なかなか見つからない。ここにはいないのか、それとも見落としただけなのか。
「あれは……ルリ、か?」
砂漠の中の一点の紅はとてもよく目立った。ルリがいるなら近くにコクフウもいるはずである。たとえコクフウがいなくても、そこらの子供たちより背の高いルリがいれば彼を探すのが楽になる。ルリの隣に浮かんでいるのはカロンだろう。
「クロウ、こんなところにいたの? 探すの大変なんだから、うろちょろしないでって言ったでしょう」
「お兄ちゃん!」
ルリの声とともに頭上で子供特有の高い声がした。次の瞬間、アンリが身を乗り出したのかクロウは頭をぐいと押される。うまく重心を定めることができず、クロウは顔から地面に激突した。下がやわらかい砂だったのが不幸中の幸いか。
「アンリ! 無事だったのかい?」
コクフウはしゃがんで、駆けてきたアンリを抱きとめた。
「うん、クロウお兄ちゃんが助けてくれた。けど、お姉ちゃんが……」
「いいんだよ、わかってる。一度会って話したんだ。『お姉ちゃんはもう無理だけど、あなたたちは生きなさい』って」
「ほんと?」
「本当だよ」
今にも泣き出しそうなアンリの小さな頭を、コクフウは優しい手つきで撫でていた。
「子供を集めて奴隷にして、なにがしたかったのかしら」
「……寂しかったのかもしれない」
子供たちは兵の誘導で馬車に乗りはじめる。今までどこにいたのだろう、何百といる子供たち。その数はさすがに予想の範疇を超えていたようで、三回の往復をして大都のほうへ送るようだった。
「僕たちをどうして拾ったかなんてわかりません。そのときのあの人の顔はとても優しくて……」
それがどうして、このようなことになったのだろう。本当に子供に食べさせる余裕がなかったのか、私利私欲のためだったのか。真実はわからない。事の発端は二十年前で、そのときからここにいる者は誰もいない。
「あの人は慈善で僕らを拾ったわけじゃない。都合のいいように生を与え、自由を奪っていただけです。でも、僕たちは彼がいなければ確実に死んでいた」
コクフウの金色の瞳はどこか遠い過去を見ていた。彼はルリが知りもしなかったことをたくさん知っている。
二往復目の馬車が進みはじめる。
「彼に仕えているときは、もちろんつらかった。あの人のせいで姉は病気になったんです。でも、僕は恨むことができない。どうしてでしょうね」
拾ってからの仕打ちは酷いものでも、自らの子供を捨てた親よりも愛情があったのだろうか。親の愛情を受けて育ち、捨てられる子供が大勢いることを今日まで知らなかったルリには推測すらできない。
何台もの馬車が連なって、広大な砂漠を駆けていく。馬車の中のどれか一台にあの男の亡骸が乗っているのだろう。死体と子供とを一緒にはできない。それ以外の馬車には兵士と子供たちが乗っている。ルリたちは見えなくなるまでずっとそれを見つめていた。
「これからどうする?」
コクフウに目を向けようともせずにクロウが口を開く。コクフウはそのことに関してはなにも言わず、ただ問いにだけ答えた。
「ここから歩いていけるところに親戚がいるんです。掃除なんかはあの屋敷にいたおかげでなんとかなりますから、追い出されることはないと思います。……さ、行こうか、アンリ」
コクフウは妹のアンリに悟られないよう汗を拭いている振りをして、袖で顔を、涙を拭う。アンリはやはり気づかない。
「ちょっと待って」
手をつないで背を向けようとする二人をルリは引き止めた。外套を脱いでかさばらない程度に畳んで差し出す。
「これ、持っていって。少しは役に立つと思うの」
「いいんですか? だってこれ、あの魔物の攻撃も防いでいたのに」
「いいのよ。サンドランドは暑くて」
「それでは、ありがたく」
なにそれ、と手を伸ばす妹にコクフウは外套を折って丈をうまくあわせてかぶせてやった。アンリは不思議そうにしっかりした布地を触る。ぼろしか目にしたことがなければ珍しくもなるだろう。
「じゃ、またね、お姉ちゃんたち」
「元気でね」
「本当に、ありがとうございました。さようなら」
手を大きく振っている小さな影と一回り大きな影が砂の上に落ちる。二つはだんだん小さくなり、消えていく。今度こそ幸せな日々を送れるといい。
「……どうせ領主のところに行くんだ。あの馬車に乗せてもらえばよかったな」
馬車が見えなくなり追いかけても追いつかない距離になってから、クロウは言う。ルリは言葉を失った。
あれほど子供たちの声で騒然としていた砂漠には、カロンの羽ばたく音しか聞こえなくなっていた。