4-3.生きるために
広い砂漠に、空気が擦れあうようにして一陣の風が吹く。その風は砂を舞い上がらせ、街のにおいを運ぶ。
風の正体はカロンであった。クロウに逃げるように言われ、カロンは光のごとく街を飛び去った。助けを呼ぶためにそこから民家のあるところへ向かっている。
カロンはふと下を向き、思わず下降する。どうやら気づかないうちにのどが渇いていたようだった。井戸を見つけたのだ。だが、あの街のように枯れ井戸という可能性もある。井戸のそばに四肢を地面につけ、カロンは一歩、二歩と井戸に歩み寄った。
まぶたが重かった。民家を見つけるまで飛び続けなければならないのに。
「あれはスフィンクスか?」
「スフィンクス? まさか、神獣のサンドランドでの姿……」
遠いところで男二人の声が聞こえる。助けてと言いたかった。人語を理解することはできても、この舌では話すことができない。そのことを今まで生きてきた中で悔いたことはないが、今回、初めてそれを悔いた。
「どうだ?」
「意識は朦朧としてる。でも傷もないし、ちゃんと生きてる」
ぼそぼそという話し声が聞こえた後、抱きかかえられたような気がした。
その後、一度意識を失ったらしい。目を開けるとふかふかの藁の上だった。横ではひげ面の男と妙に顔の整った男が話している。
「にしても、このスフィンクス、まだ小さい。どうしてあんなところにいたんだ?」
「普通は大都の城に招かれるはずだしな。親とはぐれた、とか?」
男は首をかしげた。ちらとカロンのほうを見て、お、と声を上げる。
「目、覚ましたみたいだ」
「本当か?」
ひげ面の男が立ち上がり、小さな杯を持って瓶の水を汲む。彼はそれをカロンの目の前に差し出した。
カロンは警戒して水をにおいを嗅いだ。カロンにとってこの国は見知らぬ世界だ。十分に警戒してもまだ足りない。ここで死んではルリやクロウを助けられない。
「平気だって。ただの水だ」
入れるなら気づかれない種類のものを入れるだろう。すると入っていたとしてもわからないだろうが、人間の反応を見る。それが嘘か真かくらいカロンにはわかる。成獣ではないが五十年近く生きているのだ。
「そんなに警戒することないだろう」
カロンに水を差し出している男とは別の男が言った。
「井戸のそばにいたんだぞ。水が飲みたかったんだろう? 安心しろ、ただの水だから」
その言葉を信じていいか、カロンは迷った。だが、嘘をついているようにも見えない。
結局、カロンは水を飲みたいという欲求に負けた。水が舌に触れた瞬間、身体が水分を求めていたことを改めて実感する。
「いい飲みっぷりだな」
なにか聞こえたが、無視することにした。水がなくなるたびに男が瓶から水を注ぐ。それを何度か繰り返した。質素な服を着ているが、水が少ないこのサンドランドで無償でカロンに水を与えるところを見ると、それなりに裕福らしい。
「ところで」
満足いくまで水を飲んだカロンは、声をかけられたほうを向いた。
「スフィンクスが、どうしてあんなところに倒れてたんだ?」
主人が連れ去られたから助けて欲しい、と言いたくて、カロンは声を発する。だがそれは獣の声で、人間には到底伝わらない。
「やっぱり話せないか」
「……領主様のところに行けばわかるんじゃないか? この魔界一の才人だ、きっとスフィンクスの言葉もわかるに違いない」
「名案だ。城下大都はここから……近いな。よし、行こう」
その才人の領主がどんな者かはわからないが、言葉が伝わればそれでいい。様子を観察するに、スフィンクスは神獣がサンドランドで取る姿と信じられているようだ。無下にはされないだろう。そう思い、カロンは男たちと同行した。
牢のような暗い場所で、はっとルリは目覚めた。翡翠色の瞳が、かすかな光を受けて輝く。
「よかった、気がつきましたか」
牢に響くような声に反応し、ルリは驚いて振り返った。
「結構硬いですけど、食べますか?」
やっと焦点があう。食べ物の乗った汚れた皿が、それを持つ骨と皮だけのような細い手が、そして本人の身体が見えた。そこでルリは声を漏らす。あの男に酒を運び、足を引っ掛けられて暴力を振るわれた少年だった。
「いらないわ。そっちが食べて。ちゃんと食べてないんでしょう?」
「え……あ、すみません、なんだか気を使わせてしまって」
ルリの目が少年の細すぎる手に向けられているのを知って、彼は恥じるように手を引っ込めた。肩に触れるくらいの一つに結わえた髪が揺れる。その髪も手入れなどされているはずもなく、ぼさぼさであちこちにはねていた。
目を凝らせばもう一枚の皿が床に置いてある。皿というより木の皮だ。その汚れた平たい皿には水が入っていた。
いくら彼が食料や水をルリにくれようとしても、痩せている彼の食事を取り上げるような真似はしたくなかった。半分魔物の血が入っている自分なら、飲まず食わずでも一月くらいなら生きていける。だが、この少年は一日でもそのようなことをしたら危ないだろう。
いや、本心は違う。見るからに汚い皿に乗せられた食べ物など、口にしたくなかった。城にいたころはいつも清潔な皿に豪華な食べ物が乗っていた。旅をはじめてからもできる限り宿を取っていた。どうしても、というときは木に実った果物を丁寧に洗って食べた。
ここの住人は食べられるだけで満足しているというのに、ルリは汚いからといって食べない。それだからルリは気づけなかった。この部屋がいかに他と比べて広く、異臭もせず清潔であるかを。
「ねえ、あなた名前は?」
「コクフウ、といいます」
ルリははっとした。あの少女は、コクフウという人物を頼れと言っていなかったか。この善良そうで薄汚れた、お世辞にも役に立つとは言い難い少年を頼れ、と。
「先ほどの給仕で失敗したの、見ていたでしょう? あなたはルリさんですよね。別室のクロウという人から聞きました。連れだと」
「クロウ……生きてたんだ」
「ええ。ルリさんのことを気にかけていましたよ」
クロウの無事を聞いてルリは安心した。こちらのことを気にかけるのもいいが、少しはクロウ自身のことも気にしたほうがいい。
「あの、コクフウ君。ここはどういうところなのか教えてもらえる?」
尋ねてはいけないという警鐘を無視してルリは言った。
「おそらく、ルリさんの思っているような場所ですよ」
ルリの脳裏に描かれたのは、使用人よりも酷い扱いを受けている子供たちと、それを満足気に眺めている仮面の男の姿だった。
二十年ほど前の聞いた話ですが、と前置きしてコクフウは話しはじめる。
「あの人は、この街に住んでいた人に子供以外は全員退去させました。そしてそれ以降も新たに捨てられた子供を拾い、死なない程度に食料を与え、従わせる。ここにいる子供たちはみんなそうです。かく言う僕も捨て子ですから」
「そんなことって……」
「僕の扱いはこれでもいいほうですよ。どんな基準かはわかりませんが、他より賢いことがわかるとあの人の側仕えにされます。友人がそれで、けれどその人が衰弱死して役目が僕に回ってきたんです」
側仕えになると当然待遇もややよくなる。狭いが一人部屋に移され、かなり少ないが食事も日に二度必ず与えられる。コクフウはそう説明した。ゆえに他の子供たちの助けは得られない。しかも仮面の主の機嫌を損ねれば暴行はあたりまえ。あまりいいことなどなかった、と。
「ああ、すみません。話すような内容でもありませんでしたね。ついいらないことまで話してしまって」
「別に気にしないで」
そういった世界があることを、ルリは知らなかった。知りたくなかった。そしてどれだけ自分が温室で育てられてきたか実感した。
「ここから本気で逃げようと思えばみんな逃げられます。入り組んだ地下通路を作ったのも僕らです。なのに、どうしてそうしないと思いますか? 井戸に魔物を放ち、この屋敷からしか水を汲めないようにしたからです」
街にあった枯れた井戸。街からそう離れていないというこの屋敷で差し出された、水の入った杯。井戸に引いている水源と屋敷に引いている水源は同じだろう。井戸が枯れているのにどうして水が出るのかと、どこかおかしいとは思っていたのだ。なのに、気づかなかった。
「子供の足では……ただでさえ飢えているんです。飲まず食わずで他の村や街に辿りつけるわけがありません」
逃げられるのに逃げずにこの屋敷にいる理由は、死なないため。
「みんな知っているんです。脱走して砂漠を彷徨っていた友人の行く末を、途中で失敗してあの人に連れ戻された友人の行く末を。……酷い仕打ちと、これまでより過酷な労働が待っていることを」
死よりももっと恐ろしい恐怖。脱走者を増やさないよう、わざと子供たちの前で数々のことを行ったのかもしれない。見せしめだ。たしかにそれが一番効果的な方法である。
コクフウは暗く光る目をルリに向けないように俯いた。やはり尋ねてはいけなかった。
「子供は全員奴隷にするって言ってたわよね?」
「ええ」
「それじゃ、クロウは……」
言いよどむルリに、コクフウははっきりと告げた。
「早くしないと、間にあわないかもしれません」
それだけは聞きたくなかった。どれだけ発言が子供らしくなくともクロウはまだ子供の域を出ない。
どのような仕事をさせられるだろう。飢えを知らなさそうな子供だ、きっとつらい。あの男とすでに対面済みならば、妙なことを言って怒らせていなければいいのだが。
照りつける太陽。あちこちにできる蜃気楼。あるはずのない街に惑わされることなく、男たちとカロンはただただ砂漠を歩き、ついに城下大都に到着した。だが、城はもう少し南に進んだところにあるという。
太陽が真南に差し掛かる。もう昼時だった。こうしているあいだにも、ルリやクロウは。それを思うと、カロンは今すぐにでもこの男の腕を抜け出して領主の部屋に直接向かいたい気分になる。
「城ってのはここか?」
この近辺に住んでいるにもかかわらず初めて城を見た彼らは右往左往していた。
砂で造られた、四面ある三角形の城。脆そうに見えて石のように硬い。不思議だ。感触や色からして材質は砂漠の砂とまったく同じはずなのに。
「入り口、どこにもないぞ?」
「大変なときだっていうのに」
壁を伝い、たまに壁の一部を叩いて進んでいるのだが、ついに一周してしまった。どうなっているのだろう。領主の城だけあってさすがに宿屋の扉を叩くようにはいかない。なにか仕掛けがある。
「そこの者、なにをしている」
厳しい男の声が背後から聞こえてきた。体格がよくあごにひげを蓄え、まるで大将軍のような格好をしている。かなりの地位に就いている者だろう。目があうと、取り繕うことなく彼らは正直に答えた。
「このスフィンクスが、領主様に会いたいって」
「スフィンクス? 領主は遠征中だ。私でよければ話を聞こう」
神獣の仮の姿だというスフィンクスの名が効いたのだろうか。そう咎められることなく、壁の彫りをひと撫でしたその男の導きによって彼らは入城した。
絨毯の敷かれたきれいな道を右に左にと曲がり、小部屋に通された。男はカロンたちに椅子を勧め、自らも椅子に座る。
「私は領主イシズミアの兄だ。今は代理を務めている。それで、なんの用件だ?」
「このスフィンクス、人語を話せません。だから領主様ならわかると思ってここまで来たのです」
「どうも、仲間が大変みたいで」
「なるほど……誰か、地図を」
彼はひげを弄りながらも従者に指示を出した。さすがは領主に近い者だけあった。瞬時にさまざまなことを考え、どうすれば意思の疎通ができるかを判断する。
やがて従者はサンドランド全域の地図をもってきた。その地図のある地点を、カロンは前足で指し示した。中央部よりやや南。
「この地区はたしか……二十年ほど前に疫病があった」
少し考えをめぐらす様子を見せると、彼は隣に控えている従者に告げる。
「通達。目的は屋敷の主の捕縛と、子供たちの保護。私もその街に行く」
わかりましたと男が言って部屋を出ていく。見送るカロンの翼はせわしなく動いていた。
「おまえたち、ご苦労であったな。あとはこちらでなんとかする。スフィンクスは……仲間が心配なのだろう? 先に行っているといい」
その言葉を聞くやいなや、カロンは逃げてきたときと同じ速さで街へ向かった。
空気が動いた。生き物の気配がした。続いて金属音、錠前の落ちる音。
「カロン……?」
「まさか、鍵が」
コクフウが信じられないといった口調で言った。彼は立ち上がり、出入り口まで寄って鍵がかけられていないか確認する。戸が開いていた。
「やっぱりカロンね? どこにいるの?」
「ルリさん、静かにしないと、鍵がないことを知ったあの人が来るかもしれません」
言われてルリは声を飲み込んだ。あの男に気づかれなかったとしても、ここにいるほかの子供たちが騒ぐかもしれない。クロウのように物わかりのいい子たちばかりというわけにはいかないだろう。
脱出の糸口はつかめた。これからどこかにいるクロウを拾って、なるべく早くこの屋敷を出る。
「カロン、隠れてないで出てきてちょうだい」
先ほど受けた注意を思い出し、ルリは小声でカロンを呼ぶ。主に忠実で、ルリよりも優れた聴力を持っているスフィンクスなら、その一言でルリの前に出てくるはずだ。しかし、いくらたっても姿を現そうとしない。この短いあいだにどこへ行ってしまったのだろう。
「コクフウ君」
「まず井戸に行きましょう。井戸の魔物をどうにかしないと、水も満足に飲めません」
ルリの思考を読んだかのように、コクフウはその顔に微笑をたたえてこれからの行き先を示した。
それからしばらくして、屋敷の庭の隅、目立たない場所にある枯れ井戸へ二つの影が消えていった。