4-1.地図に載らぬ街
砂にまみれた砂漠の国、サンドランド。
雨が降ったのはいつだったか。乾燥し、痩せた土地に水はない。民は乾き飢えに苦しむが、一番安全なのはこの国。七大国での序列は最下位、弱小国といわれるサンドランドは大戦の不参加を決め込んだのだ。
魔界で才人と名高い領主イシズミアが各国と不可侵条約を結んだがゆえに。
雨が降っているわけでもないのに足元の砂が濡れる。一点、二点と砂の色が濃くなった。紅の衣が砂で汚れるのもいとわず、ルリは砂の地に膝をつき、手をついた。
「オサードさん……」
死んだとは思いもしなかった。死んだ、というのなら旅のはじめに国境村で出会ったヨルジュンもそうだろう。アイスランド軍に襲われた村を見ては生きている確信を持てなかった。しかし、その時はなにも感じなかった。
ヨルジュンは戦地で死んだ。どのように死んだかはわからない。だがオサードは自分を庇って死んだとわかっているから、今までになく悲しいのだろうか。死というものにたいした差はない。それでも、割り切ろうと努力してもどうにもならない。
昔の魔物は死を淡々と受け入れ、身内が死んでも涙すら流さなかったという。現在もそうだったらどれだけ楽だったろう。
自分のせいで、と言っては彼への侮辱になるかもしれない。オサードはルリではなく宿を守っていた可能性も捨てきれないのだ。
たくさんの罪なき兵士が今もなお戦場でその命を絶たれている。自国も敵国も、失った命の数はほぼ同じだ。人間も魔物もみんな死んでいく。黒い煙に覆われた空をウィンドランド城から一人で眺めていても、なにも感じなかった。
少し関わった一人が死んだだけ。なのにこの喪失感はなんだろう。
「……泣くな」
顔を上げるも視界は霞んでいて、そう言ってくれるクロウの顔などろくに見えなかった。きっとクロウも、この顔は母譲りの金髪に隠れていてあまり見えないだろう。そう願いたい。
今まで大のために小を捨て、国のために村を犠牲にしてきた。それができなくなっている。父ならそんなことはないだろう。切ると決めたら迷わず実行する。心は微塵も揺れ動くことなく、表情も変えずに。
ルリはふと思った。父にはこのように言ってくれる者がいたのだろうか。領主としての父は冷酷だった。その父に信頼できる者がいるのだろうか。
これが最善だった、と装飾された椅子に一人で座る、父の虚空を映す瞳。苦悩の表情。小さかったルリは柱に隠れてそれを見た。その表情はほんの一瞬だけだったがよく覚えている。
まばたき一つでいつもの顔に戻ったのだ。けれども悪いことをしてしまった気がした。とてもいけないことをしてしまった気がした。そのときはどうしても父に会って話がしたかったのだが、父の元へ行ってはならないと感じた。
「泣いてないわ。そんな、みっともない」
リューズエニアの領主を通じて王から贈られた、まだ名のないスフィンクスが慰めるかのようにルリの頬を舐める。
ルリは自身を落ちつかせようと深く息をした。そうすることでいくらか楽になってくる。そして父と同じようにまばたきを一つ。これでいつもどおり、とまではいかなくとも見られる顔にはなっただろう。
幼獣に見つめられて、そういえば、とルリは思った。まだもらったスフィンクスに名前をつけていない。
「ねえクロウ。この子に名前、つけてくれない?」
「どうして私が」
「名前がないと不便だし……クロウに頼みたいから」
ルリは袖で顔を拭いながら言った。
「なんでもいいとか言わないで、ちゃんと考えて」
クロウは複雑そうな顔をした。それはルリの発言に対するものだったのかもしれないし、無理矢理に取り繕った彼女の顔を見てのものだったのかもしれない。ルリの言葉に大人しく従ったのは、少しはルリのことを案じているからと思ってもいいのだろうか。
クロウの腕でも間にあうほどの小さいスフィンクスを彼は抱え、ふらふらと歩きはじめる。
「ちょっと、どこ行くの?」
「立ち止まったままどうするつもりだ」
いつまでもこの場所、砂漠の真ん中にいても仕方がない。前後左右、どの方向を向いても砂しか見えないのだ。街の存在など夢のまた夢だった。ならば少しでも進んだほうがいいというクロウの意見は誤ってはいない。
彼はしばし考え込み、そして命名する。
「……カロン、というのは」
「いいんじゃない? おいで、カロン」
ルリが手を伸ばすと、カロンと名づけられた幼獣はその手に収まった。どことなく、カロンもルリのことが心配そうな顔をしている。スフィンクスにも気を遣われるとは情けない。
「カロン、近くに街は見えない? 人のいそうなところ」
人語を解すカロンは早速頼りにされ、任せておけとばかりに上空へ飛び立つ。ぐるりと周囲を見回し、やがて残念そうな顔で地上に降りてくる。ルリのほうに向き直り、カロンは首を横に振った。
「そう……」
風が吹く。暖かいというよりむしろ熱く、汗は身体を湿らせても体温を奪うことはしなかった。
「街が見えないなら仕方ないわ。とにかく歩かないと」
あれからどれほど歩いただろう。砂漠を歩いていると時々見つける木陰で休み、そこに生っている木の実を口にし。そうやって十日を過ごしている。想像以上に過酷だった。馬車での移動が懐かしい。
いくら歩いても見渡す限りの砂。サンドランドとは一滴の雨も降らないような国だっただろうか。直視することのできない陽が容赦なく砂の大地を照りつけている。日差しを遮ってくれるはずの外套も意味を成さなかった。
「暑いわ」
「余計に暑くなる」
湿気がまったくなく乾燥しているというのは救いなのか否か。サンドランドとファイアーランドとでは、どちらが過ごしやすいだろう。
目指すは街。目的は食料と水と寝床の確保。旅人のための水くらいあってもいいはずだ。高価でもそれだけは手に入れなければ。
「リューズエニアの領主はどうしてサンドランド城に送ってくれなかったのかしら。城でなくても、せめて人のいる場所を選んでくれたらよかったのに」
「息子のことを根に持っていたのかもしれない」
サンドランド領主には話をつけておく、と彼は言っていた。あれは嘘だったというのか。
この暑さにだれたカロンは襟巻きのごとくルリの首にまとわりついていた。リューズエニアから来ては気候の差に身体が追いつかないのだろう。この上なく暑い。
一方でクロウは涼しそうな顔をしている。なぜ涼しそうなのかと彼を見ていたルリは、文句でもあるのかと睨まれた。だがそれも一瞬のことで、睨んでいる気力もないらしい。かなり疲れているようだ。
視線を前に戻したクロウが目を細めながら砂漠の向こうを指差す。
「あれは」
街が見える。揺らめくさまはまるで幻のようだ。ルリはそれを疑った。この気候で無駄足だけは避けたい。
「……声が聞こえる」
ゆっくりとクロウは幻であることを否定した。とりあえずそこへ向かうルリの耳にも届いてくる。間違いない、たしかに街の賑わい、声が聞こえる。
わずかな希望を見出し、その街へと走りだした。ここまで歩いてきた距離を思えばたいしたことはない。
街はあることにはあった。しかし誰もいなかった。砂に埋もれたような街だった。
人の子どころかねずみ一匹存在しない。あるのは水気のない足元に散らばるなんらかの骨、塗装がはがれ半壊状態の白い建物だけ。建物には何者かがつい最近まで住んでいた形跡が見受けられるのだが、誰も住んではいない。たしかに生き物の気配がするのに。
「ねえ、クロウ。声を聞いたんじゃないの?」
「たしかに聞いたはずだが……」
その自信がなくなっていくのに比例して、クロウの声も小さくなる。
「どうして誰もいないのかしら」
うろたえたクロウは視線をあちこちにやった。中途半端に気位の高い彼は間違いを認めたくないようだ。街が本当にあったことは間違いではないが。
どうなっているのかと思いつつ、二人はその街の中心部へ足を運んだ。黄土色のさらさらした砂、崩れかけた白い家。歩くたびに足元で小さな骨が砕ける。いくら進もうとも変わらない景色には飽き飽きした。ところどころ家の中を覗いてはみるが、やはり誰もいないし、これといったものはなにもない。
おかしい、とクロウが呟いた。
「いくらサンドランドとはいえ、生活するのに最低限の水はあるはずだ。なのにこの街には水場が一つも見当たらない」
「そういえば……」
ルリはあたりを見回した。通ってきた一本の道だけでも両手両足の指の数では足りないほどの民家があるのだから、街の大きさはかなりのものだと考えていい。ならば、このあたりで井戸の一つや二つ見つかってもいいはずなのだ。
「水不足にしても、この街には干上がった跡も枯れ井戸もない」
クロウが民家を割れた窓から覗き込みながら言った。
「生き物が水なしで生きていけるなんて、聞いたことがない」
「もともと誰も住んでいなかった、ってことは?」
これだけの家を造っておいて誰も住まないというのはありえないだろうとは思いつつルリは意見を述べた。そうだとしたら無駄がすぎる。
クロウはこれには答えず淡々と続ける。
「出て行った、というほうが可能性はある。誰かが住んでいて、水不足かなにかで死んだというなら骨があるはずだ。でも、骨がない」
「……骨? それなら足元にたくさんあるわ」
「違う。人間くらいのそれなりに厚くて大きな骨だ」
足元にあるのは大きくても小指ほどしかない薄い骨だった。割れたのだと推測してもうまい具合に薄く割れるとは考えられない。
「死んだら骨が残る」
人間だろうが魔物だろうが関係ない。骨は必ず残る。風化はまだありえない。それならば家がもう少し脆くなっているはずだからだ。
と、そのとき。ルリの肩に力なく横たわっていたカロンが跳ね起き、鋭い声をあげた。
「カロン? いったいどうし……」
「静かに」
そうクロウに言われ、ルリは口を閉じた。途端に聞こえてくる声。ルリとクロウとカロンしかいないはずの街で、なぜ声がするのだ。
「こどもがいる……」
高く無邪気な子供の声だった。姿は見えない。四方八方から同じ言葉が聞こえる。こども、こども、と。これが砂漠で聞いた声の正体ならばクロウは間違っていなかったということだ。
カロンがルリの肩から降り、全身の毛を逆立てて警戒する。その気迫は凄まじく、今にも飛びかかりそうな雰囲気だ。けれども対象が見つからなければ唸ることしかできない。
「ぼくらと同じこどもだ」
身体というより意識が引っ張られるような感覚だった。背を合わせるようにしていたクロウがルリを見上げる。
「聞くな」
「無理よ、そんなこと言われても」
耳を塞いでいるにもかかわらず幼い声が聞こえてくる。引き摺られる。
「連れていかなきゃ」
それを耳にした瞬間、ルリは地に崩れ落ちた。意識はまだあるもののリューズエニアで倒れたときのように身体だけが動かない。もどかしい。
「こどもは連れていかないと」
ルリに気を取られていたクロウも同様に身体の力が抜けたようだった。魔物だから耐性があった、しかし子供であるだけにその言葉にかかりやすかったと考えるのが妥当か。もしくはルリが倒れたせいで血の契約がはたらいたのか。
「……行け、カロン」
クロウが命じルリも目でそれに同意すると、カロンは戸惑った。主人と認めた者が動けず危機的状況にあるというのに、自分だけ逃げることはできないという様子だ。
「行け」
ルリとクロウとに交互に視線を合わせながらも動こうとしないカロンを見て、クロウはさらに追い討ちをかける。クロウの紫の瞳が苛烈な光を帯びている。
あからさまに恐れをなしたカロンは後退り、純白の翼を広げて飛び去った。
黄金の獣が空を走るのを認識すると、クロウはルリよりも先に完全に意識を失った。同調するようにルリの意識も朦朧としてくる。
「連れていかなきゃ」
「こどもはみんな、お父さまのところに」
少なくとも五人以上の子供がいる。彼らのお父さまとは誰だ。
父は今ごろどうしているだろうと現実から遠いことを考え、ルリの視界は暗くなった。
リューズエニアから休みなしでサンドランドまで飛んでくれた彼女のために水が必要だった。東側は過疎地域で人影も見つからない。リューズエニアから一番近くにあるやっと見つけたサンドランドの町は暑さに倒れる者ばかりで、部外者が水をとは頼みづらい。そうして中部まで来てしまった。
「ヴェル、大丈夫か?」
木陰に横たわる黒いグリフォンは青年の問いかけに対して片目を開けるだけだった。
「無理をさせてすまない。もう少しだけ飛んでくれ」
彼の請願に弱い獣は四肢に力を入れた。