1-1.幕明け
けたたましい金属音。剣が交差する。火花が散る。低く唸る砂嵐が剣を持つ者の自由を奪う。
思わずむせてしまうような、吐き気を催すような、鼻につくにおいがする。死体のにおいだ。
吹きすさぶ風の中からは、戦にかりだされた若者たちの叫びが聞こえる。戦いに明け暮れる獣たちの雄たけび。嫌だという声のない悲鳴。死の間際に母親を求める涙。
兵士たちに守られた陣営の奥には、目の下に隈を作りながらも地図と駒とを睨む領主の姿がある。平時の優しい顔はとうに消え失せていた。
もう、あのころには戻れないのだ。
ルリは風を切る勢いで身体を起こした。額の汗が目に入って、頬へと流れる。それが本当に汗なのか、それとも涙なのかわからず、ルリは膝を抱えて顔を伏せた。
世界の東、ウィンドランド。近年はどこの国も戦続きで、ウィンドランドも例外ではなかった。先日十六歳を迎えたルリも、もし男児であったなら、領主の第一子として華々しく初陣を飾っていたかもしれない。
戦争の夢。近ごろよく見る悪夢だった。戦場など本と伝令の報告でしか知らず、ただ想像するしかないはずなのに、生々しいものだった。
ルリは自らの体温の残る寝台を名残惜しみながら離れる。そして母譲りの金髪を梳かす。夢を頭の隅に追いやって、無心になって梳かした。その長い髪を後ろで高く束ねれば、いつもの朝だ。
いつものように着替えをすませ、真紅の長い上衣に身を包む。
ルリは紅色が好きだ。幼いころ、父親からとてもよく似合っている、と言われたからだ。たしかに、金の髪に紅色は映えるし、血色もよく見える。しかし、父は嘘を言ったわけではなかっただろうが、長じてからはその言葉がルリに紅色を身につけさせるためのものだったことを悟った。
ルリは身なりを整えると、北方にいるだろう父の無事に祈りを捧げ、自室を後にした。
ウィンドランド城の長い回廊を渡った離れに、手入れを怠ったせいで荒れ果てた庭が見える。以前ならば、この時期になると真っ赤な花が小さいながらも誇らしげに咲いていたものだが、今ではその蕾さえ見つからない。
ルリはいつものように庭を見渡す。やはり枯れ木の向こうにいた。石を切り崩して造った椅子に腰掛けているのは、ルリの母セリナしかない。母は不在の領主の代理に立つとき以外、たいていここでぼんやりしている。その手にある書簡は、また戦死者名簿だろうか。
「この世界は、どうなるんだと思う?」
ひっそりとセリナに近づいて、ルリは言った。足音もなく近づいたせいだろう、彼女は驚いて肩を跳ねあげ、おずおずと振り向いた。
本来の性格なのか、それともルリが次期領主であるからか、母はルリに遠慮している節がある。母は下流貴族ですらなかったが、だからといってそのように接してほしいわけがない。たった一人の母親だ。
「ルリ……」
声は弱々しい。輝いていたはずの金色の髪は色褪せ、その顔はやつれているように見えた。精彩を欠いているのもいつもどおりだ。
それがいつもどおりになってしまった。自分の夫が戦場の最前線に出て剣を振るっていることを思えば、無理もない。戦況はルリよりも詳しく知っているだろうから、なおさら。
「また、『終わる』のかな」
「終わるだなんて、そんなこと……」
戦乱の世の再来。今の世界はそのように呼ばれていた。このまま殺戮が続き、それをとめようとする者が現れなかったとき、神獣が世界を終わらせるのだという。
北方の国境付近では、ウィンドランドとアイスランドが激戦を繰り広げている。不可侵のはずだったものを、アイスランドはその協定を破って侵攻してきた。それがすべてのはじまりだった。
この戦がはじまるまでは、両国ともに戦を嫌う温和な性格だった。それが今では事あるごとに衝突し、いつの間にかこの二国の戦が世界全土に広がっていた。
労働力、税、気候の良い土地。争うからには狙っているものがあるはずだった。しかし今となっては戦うことこそが目的となっている。敵の領民に甘い言葉をささやいて寝返るようそそのかすようなことはせず、あるのはただ蹂躙ばかりだ。
「神獣がいてくれたら、この戦乱は終結するのかしら」
「神獣がいてこのありさまなのだとしたら、ずいぶんとひどい話ね」
母の静かな言葉にルリは驚いた。声にはうっすら、恨みと諦めの色がある。このような声を聞いたのは初めてだった。
永遠の命を持ち、新しい世界をつくりだす神獣。当時、ただの青年でしかなかった初代魔王に首を垂れ、ともに戦乱の中を駆け抜け、世界に安寧をもたらした。その後、彼に死が訪れると、神獣は去った。そのときに落とされた涙が結晶となり、結晶に宿る強大な力が神獣にかわって世界を支えている。
世界のはじまりを伝えるその神話を、ルリはよく母にせがんで聞かせてもらった。そうしているうちに、いつからか、母が神獣を語るときは、なにか激しい感情を声に乗せまいとするかのように一点を見つめることに気づいた。
母の隣に座って、ルリはその視線の先を見ようとした。王宮の方角だろうか。
「ルリ」
「なに、母様?」
呼ばれてルリは振り返る。
そちらから声をかけたにもかかわらず、セリナは少しためらっているように見えた。名前こそきちんと呼んでくれるが、越えられない一線があるような気がするのは否めない。
母は迷いに迷って、やがて決心したようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「これを。夜が明ける前に届けられて」
セリナは、手に持っている巻かれた厚紙をルリに渡した。ルリはすぐにその紙を広げる。それは当初思っていた戦死者名簿ではなかった。
金の縁取りに仰々しい文字、署名欄には御名と王印。その印章は光のあたりかたによって虹色に輝く。まぎれもない勅書であった。
――ウィンドランド領主が娘、紅の混血児、ルリへ申し渡す。世界に散るすべての「希望」を持ち、セントラルランドへ参れ。
「希望、って……」
「秘宝が実在する、ということでしょう」
神話で語られる、甚大な力を持つという秘宝。神獣の涙。王がすべてを所持しているとも、世界の支柱となるべく各地に分散しているとも。
秘宝の真実は王と七大国領主が知るのみ、ウィンドランド領主を父とするルリさえまだ知らない。それが、その秘密の一部を明らかにしてまで、ルリに秘宝を集めさせようとしている。そこまでしなくてはならない事態になっている。
「ねえ、母様、あたし……」
勅書を持つ手が震えた。
「ルリの好きなようにしなさい」
「でも」
無理、という言葉が口をついて出そうになった。
とんでもない大任だった。好きなように、どころの話ではない。断れば反逆、失敗すればそこまで。父母がそばにいない状況で城外に出たことなど一度もないルリが、一人で旅などできるわけがない。出立すればウィンドランド城に帰ってくることなど不可能だろう。
だが、夢、といえばたしかに夢だった。本と旅人の話でしか知らない場所を、この目で見ることができる。窓から遠く眺めるだけでなく、触れてたしかめることができる。
「行ってみたいのでしょう?」
母はルリの考えを見透かしていた。
「わたしのことは気にしないで、行ってきなさい。あなたはただ、大義名分を振りかざせばいいの。これは陛下のご意志である、と」
「母様……」
「ほら、早く準備しなさいな」
やはり母にはかなわない。背中を押されたルリは足取り軽く自室に戻った。
ウィンドランド城以外の場所を見てみたかった。たとえどんな場所でも、父母がいないという点を除けば、きっと城にいるより楽しめるはずだ。
実際、城にいるのは苦痛だった。侍女はルリとけっして目をあわせることはないし、師はルリにだけつらく当たる。混血とはそれほどまでに疎ましいらしい。
自室に戻ったルリは、寝台横の小卓に荷袋と外套が準備されているのを見つけた。母にはすべてわかっていたのだろう。ルリが庭に現れることも予定どおりで、そのうちに侍女に手配させたのだ。
混血ゆえの命数の尽きようとするルリの望みを、母は優先してくれた。それがなによりもうれしい。
外套を着て、荷を背負って、ルリは城の地下へ潜った。そこで母が転移術を施してくれる。ついにルリは唯一の生活の場であった城を出るのだ。
幼いころ、父に連れられ他の領主たちに顔を見せに他国へ足を運んで、国を出たのはそれきりだ。領主たちの顔などほとんど記憶に残っていなかった。基本的に彼らは他国に無関心だ。あちらのほうもルリのことを忘れているかもしれない。
地下への一歩は、旅の第一歩だった。旅路で命運が尽きても、もちろん命を惜しむことはあるだろうが、外に出たことへの後悔はないだろう。