3-7.氷上に立ち
立ち位置によってはリューズエニアどころか他国すら一望できるのではないかという城が、銀色の平野よりも数段高い場所からさらに奥へ向かったところにある。七大国の領主が住まう城ほど巨大ではないものの、領地のわりに大きいことはたしかだ。
使用人が寝る部屋よりも下層にある暗い部屋。氷の張った床に二つの影が映る。
「百代ルーディアス区長……百二十二代リューズエニア領主……」
下層の奥まった部屋はまるで押しやられるようだ。かつてのルーディアス区長たちの肖像画が直接床に積み重ねられ、埃をかぶっていた。額縁にすら入っていないそれは劣化が激しく、ところどころ破け、数代飛んでいる。もちろん初代の肖像画などない。
「やっぱり七大国の領主とは違って、寿命も短ければ代替わりも激しいですわね。人間もいますし。まあ、ただの一区でしかなかったのですから当然ですけれど」
「私を連れてきてどうするつもりだ」
ルリの金髪とこの少女の金髪はまったく似ていないと思いながら、クロウはティーナの言葉を遮るようにして言った。息苦しくていらいらしていた。鼓動も呼吸も自然と速くなる。
「別にどうもしませんわ。いけませんの? リューズエニア領主の城の、肖像の間へお招きしては」
「……なぜ引き離した」
ティーナは沈黙を守った。彼女が一歩踏み出すと氷の床にひびが入った。一歩一歩とクロウに近づいて腰を少しばかりかがめる。やがて、クロウの顔に指を、手を這わせる。見かけによらず冷たい手だった。それでも目を合わせようとしなかったクロウに、ティーナは上を向かせる。
「クロウ様、わたくしの目を見て」
上方にある赤い瞳が妙な光を宿した。誘惑するかのような色がある。
あれは見てはいけないものだ。直感した彼がどうにかして目をそらそうと顔を動かせば、ティーナのほうを向かせられる。目だけを動かせば、その動きに合わせて彼女はクロウの視界に入るように半歩横に動く。目を閉じても目蓋の裏に赤色が透けて見える。
「クロウ様、どうしてわたくしを見てくだならないのですか?」
ティーナが切なげに睫毛を震わせた。男を誘うような目だった。
「わたくしはこんなにも、あなたのことが好きですのに」
体格的に抵抗できないのもあって、クロウは諦め混じりにティーナの禍々しい赤目を直視した。その瞬間、鎖よりの強固なもので縛られたように指一本動かせなくなる。
動けなくなった途端に沈みこんでいく意識の隅で、クロウは彼女の歪んだ口元を見た。
女の勘か、それとも混血の中に眠る魔物の本能だろうか。無意識に複数もの暗い分岐路を右へ左へと進み、小さな戸をくぐった先は、樹木の多い平原に繋がっていた。奥に行くにつれて傾斜がかかり雪が深くなっている。やっと外に出られたのだ。
にしても、ここはどこだろう。このような場所は見たことがない。
雪をかぶった木々、人のいた形跡のない平原。独立前はここも若草色に溢れていたに違いない。大国の支配を逃れて八年、それだけでこうも変わってしまうのか。
「クロウは……探さないと……」
ルリは意図せずに言葉を紡ぐ。
紫色になった爪をちらと見て、軽くため息をついた。リューズエニアでこの寒さとなると、アイスランドには行きたくないものだ。外套もないよりはましという程度で、一歩進むごとに寒さが増してくるようだった。
あたりに気を配って歩いているうちに、ルリは兵士の数がだんだん多くなっきていることに気がついた。だが、気づかれているようでもなく、後をつけられているわけでもない。
まさか、と内心焦った。オサードの言うとおりうまく逃げられていると思ってたが、もしや自分から城のほうへ向かっているのではないだろうか。城に近づくにつれて警備兵が多くなるのは当然のことだ。
ルリは眉をひそめた。兵が動きはじめている。
このままではまずい。クロウがいない分自由に動けるはずなのだが、彼は今ごろどうしているだろう。
「そこまでだ!」
平原に威圧的な声が響く。大失態だ。目くらましの術でもかけておけばよかった。
「領主のご子息に無礼を働いたとして、紅の混血児、お前を捕縛する!」
「待ってください、あたしは……」
続きは喉で引っかかった。なにを言えばいいのだろう。
序列三位のウィンドランドからすれば八年前に独立したばかりのリューズエニアなど格下。しかし格下だったらなにをしてもいいわけがない。懐には王の冷たい紋印がある。これを振りかざさないようにしていきたいと思ったのは最近のことだ。
少し無理をすればこの場から逃げられるが、どうする。それにしてもクロウはどこにいるのだろう。まだ気品漂う彼女のそばにいるのだろうか。ルリが生きているのだから彼も生きていることはわかっているのだが。
そのときだ。武具を持っていない一人の兵が前へ踏み出す。
「抵抗しようなどという愚かな考えはおこすな。城にはおまえの連れの子供がいる」
それを聞いた瞬間、無意識にこめられていた力が霧散した。クロウがいないおかげで楽に一人で動けると思っていたのに、こうなるとは思いもしなかった。生死をもともにする血の契約。クロウに手を出されてはこちらの身も危ない。
縄で軽く縛られて急かされることなく歩き、大きな門の前でとまった。左右には雪をかぶった彫像が佇んでいた。
ゆっくりと門が内側から開かれる。門をくぐった後にもいくらか距離がある。しかしながら、やはりウィンドランド城と比べると小規模なもので、独立してもさまざまな面で七大国には及ばないようだ。まだ八年しかたっていないのだから、仕方がないといえば仕方がない。
捕縛というからにはウィンドランド内で牢に入れられたことがよみがえってきたが、今回はそのような手荒い扱いを受けなかった。敷地を進み、アイスランドを模しているのかと思わせる、床が氷でできた城内に入って階段を二つ三つあがれば、正面がもう領主が待つという部屋だった。
生国の城に慣れているルリにとって本当に狭い。ため息をつくと、目の前にある銀色の扉が開いた。
「来られたか、紅の混血児」
ルリに声をかけた男は数段上がったところの椅子に腰掛けていて、権威を誇示するかのように近くに侍っている者は皆頭を下げていた。さすがに特有の威圧感がある。彼が身につけている物、上着から履き物まですべてが一級品だ。頭頂の髪紐にも玉飾りがじゃらじゃらついている。だが、そこから虚勢が見えた。
「私がリューズエニア領主、ヘルだ」
「ルリ、と申します」
こちらに椅子はない。一礼した後も立ったままだ。領主ヘルの顔色が僅かに変わった。目を伏せてなにか呟いたようだったが、ルリには聞こえなかった。顔色の変わったことだけがわかる。
「なぜここへ連れてこられたかわかるか?」
「いいえ。不敬罪かなにかでしょうか」
表面上では無表情を装い礼儀正しくしてとりあえず頭を下げておく。この国に入る前、司令部で拘束されたときと同じだ。成り上がりの領主め、と内心で罵った。オサードは彼を良く評価していたのが思い出される。
「我が息子に無礼を、ということで拘束したのだが……別件で少しばかり用事があってな」
「それより、連れがここにいると聞いたのですが」
ヘルの言葉を遮るようにルリは言った。
「ああ、あれか。連れて来い」
ヘルは顔を左に向け、身体を包む外套から両の手を出してそれを打ち鳴らした。
ややあって、意識のない子供を横抱きにして連れてきたのはティーナだった。細腕でも抱き上げることができるとは、どれほど身の軽い子供なのだろう。だらりと下がったクロウの腕は嫌なものを連想させて、思わずルリはクロウが息をしているのか疑った。
「クロウ……?」
「ご安心なさい。ちゃんと生きていますわよ」
ティーナはルリを一瞥して、ルリの心を読んだかのように言った。
「ヘル、駄目でしたわ。わたくしの術が全然効かなくて……つい気絶させてしまったの」
「そうか。苦労をかけたな」
「いいえ。お父様があなたに肩入れしているんですもの、わたくしがなにもしないはずないでしょう? 不本意ですけれど」
今度は目の前で行われる会話を疑った。彼女は領主と対等であるという自信に溢れている。領主同士でも一線引いて話すのが普通だが、まさか。
「ねえ、あの……ティーナ、さん?」
その瞬間、ティーナはルリへ明らかに侮蔑を含んだ視線を向けてきた。冷たい視線だ。
「あなた、ウィンドランドの娘のくせに、どういう教育を受けてきたんですの? 王女様と呼んでくださらない?」
ルリは表情を失った。王女の意味はもちろん一つしかない。
「陛下の……ご息女?」
「ご名答。今は大目に見て差しあげますけれど、発言を許した覚えはなくてよ」
彼女は気分の悪くなるような笑みを浮かべた。どう好意的に見ても十代の少女が浮かべるようなものではない。二十は超えているだろう。老婆になって当然の歳で若い姿をとる者もいないわけではないが、これは。
王女だというティーナと領主ヘルがつながっているのは明らかだ。だからか、とルリは思った。魔王が背後にいたからこそ、リューズエニアは独立できたのだ。それならば、ファイアーランドにとってヘルが取るに足りない存在でっても魔王が後ろに控えていてはどうもできない。
「この子、お返ししますわ。わたくしの術にかからない者なんて傍に置いておいても邪魔ですもの」
もう用はない、勝手にしろとばかりに手荒い扱いで氷の床に放られたクロウに、ルリは駆け寄った。抱き起こした身体は冷たく、生きているとわかっていてもぞっとしてしまった。
「それで、ヘルの言いかけたことなんですけれど。先日、お父様が襲われたことを知っていて?」
「いいえ、『王女様』」
クロウを抱き寄せながらルリがそう呼んでやると、ティーナは満足げににっこりと笑った。ティーナの指すお父様とは魔王のことだ。
「紅の混血児、おまえの父はウィンドランド領主だったな」
「今は戦地にいますが」
「……そうか。ならば知らぬのも無理はない」
ヘルは一拍置いて話しだした。
「先日、青の混血児が魔王を暗殺しようとしたらしい。だが返り討ちにされ、失踪した」
「よく覚えています、夜のできごとでしたわ。わたくしは、お父様と、あの……あの忌々しい青の混血児の剣戟の音で目が覚めたのです! 寝首をかこうなどと、なんて卑怯な」
ルリの中で引っかかる単語があった。己の記憶が正しければ、青、とは。
「それって銀髪の……?」
「誰があなたの発言を許して?」
ルリが口を開くと、ティーナが間髪を入れず鋭く言った。以前の、鈴を転がしたような可愛らしい声の面影などどこにもない。
「いや、いい。にしても、よく知っているな」
ヘルは眉をひそめるティーナを穏やかにいさめた。
やはり。あの青い目を持つ青年のことだったのだ。その実力は目の前で見たことがある。燃えさかる炎を消し去り、魔物を腕の一振りで倒し、一人で司令部も難なく攻略する実力。しかし、まさかルリと同じ混血だったとは。信じられない。なんという力だろう。
「しかもあの混血児、あろうことか失踪する前に……お父様の所持していた秘宝の一つ、『絶望』を奪っていったのです。このことは民の混乱を防ぐために領主にしか伝えられていないと聞きますが、そうでしょう?」
ヘルは頷いた。
その青の混血児が奪った「絶望」とは、「希望」に勝るとも劣らない秘宝だという。神獣の涙とも呼ばれるそれはそれぞれ七つあり、どちらかの秘宝七つが集まれば、この魔界の命運はその秘宝の所有者に委ねられる。破壊も創造もすべてが思うまま。だが、秘宝は限られた者にしか扱えない代物だった。
その絶望を奪った青の混血児はなにを望んでいるのだろうか。権力か、それとも魔界の運命か。
「そこで、紅の混血児に陛下より命が下った。唯一絶望に対抗できる希望を、奴の集める絶望よりも先にすべてそろえろ、とのことだ」
「お父様が!? そんなこと……わたくしには」
「君は黙っていたまえ。父と言えど、これは魔王陛下の言葉だ」
ルリに与えられた最初の勅命は、希望をそろえて大戦を終結させよ、というものだった。だが、この分では大戦は終わらないかもしれない。希望と絶望は対の存在であり、もともとは一つだったもの。絶望の力を打ち消すために希望を使え、と王は告げているのだろう。
「引き受けてくれるな?」
「もちろん、陛下のお望みとあらば」
ルリはまっすぐにヘルを見つめた。ヘルのほうは、ルリを品定めするかのように見つめている。ややあって、彼はわずかに頷いた。
さっとルリは氷の床に映った己の顔を見る。無表情でなんの感情も読み取れない、人形のように思えた。
「引き受けると返事をもらったら、陛下はこれを渡すようおっしゃられた」
ヘルがその手を打ち鳴らす。すると、鎧の兵が黄金色の獣を連れてきた。見た目は仔猫ほどの大きさで愛らしいのに、じゃらりと戒めの音をたてる鎖がその獣の行動を制限している。重装備の兵士と害のなさそうな獣との組み合わせはおかしかったが、ヘルの言葉でその理由がわかる。
「スフィンクスを供につけてやるように、とのことだ。名はまだないとか」
――スフィンクス。人語こそは話せないが、それを理解する高い知能を持ち合わせている。平たく言えば大きな翼を持った逞しい獅子といったところか。しかし、まだ身体も小さく幼いため、獅子どころか羽の生えた仔猫にしか見えない。だが、成長すればさぞ頼りがいのあるスフィンクスになるだろう。
スフィンクスは王紋に使われているグリフォンと並んで非常に矜持が高く獰猛な生き物として知られている。たとえ容姿がいかに可愛らしくまだ子供であっても、手を出してはいけない。羽ばたけばを嵐を起こし、大人の腕すら引き裂き、食い千切るほどの力を持っているのだ。
その獣を見て、ティーナは叫んだ。
「白羽黒紋のスフィンクス! どうしてお父様はこの生き物を……」
まだ名のない幼獣はティーナに牙を剥いた。それは彼女を怯ませるのに充分であった。
「白羽黒紋は普通のスフィンクスより秀でているという。おまえには扱えないと陛下は判断されたのだろう」
「そんなはずはありませんわ」
反論しながらも彼女は向けられた牙にびくついていた。
そのスフィンクスにはどこかで見覚えがある。リューズエニアに入ったときだ。商人がこの幼獣を檻に入れて売りとばそうとしていた。そしてクロウが傷だらけになりながらも必死に守っていたスフィンクス。あのときは魔王のものだったとは思いもしなかった。
翼を広げた獣は一度小さく羽ばたく。その翼はスフィンクスにしては珍しいという純白。黄金の毛で覆われた額には、人為的ではない黒い紋が入っている。白羽黒紋と呼ばれる由縁だ。
「鎖をはずすぞ。いいな」
ルリはまっすぐにスフィンクスを見つめた。知性に溢れた深い海色の目が合う。
「ほお、警戒しないのか」
面識があるのであたりまえのことだったが、それを知らないヘルは感心したように呟く。もし知っていても、魔王からの預かりものを盗まれたことなど、彼自身の口から掘りおこすことはないだろう。
ヘルは重装備の兵士に目で促した。
邪魔な鎖をはずされ大人しくルリの傍らに収まったスフィンクスはこちらの話を聞いている素振りをして腰をおろした。意識を失ったままのクロウを見て小さな前肢でつついている。
「おまえは下がっていろ。これから先は内密に、とのことだ」
上方から声があったがルリに対するものではない。不服そうにルリの傍らに座るスフィンクスを見ていたティーナは、うっとうしげに彼のほうを向き、水色の裾を翻して渋々と現れたほうへ歩いていった。