3-6.歓喜の後に
クロウとティーナは、先ほどまでルリが操っていた黒毛の馬に跨った。彼女は水をせきとめている二人の水術師に一言二言告げ、小雨の中を走らせる。地面はぬかるんでいたが、どうやら行きほどひどくはないようだ。
「クロウ様、どうかなさいましたの? それほどあの紅のかたが気になるのですか? だって、混血なのに」
クロウはなにも答えなかった。もともと寡黙なほうだ、彼にとってはいつものこと。だが、ティーナにクロウのことはわからない。思うところがないわけではないが、わざわざ言うまでには至らない。
「お気に障りましたか?」
困惑したように声をかけられても、クロウはなにも答えない。そうしていると、諦めたのか、彼女はため息一つの後には口を開かなくなった。
一足早くリューズエニアに到着した二人は、街の門前で馬をとめた。門番がいたのだ。
「何者だ」
ルリとクロウがリューズエニアに初めて来たときの門番とは違う人物だった。身体を動かすのも億劫そうに見える老人だ。なぜそんな人物が門番をやっているのか理解に苦しむ。いざというとき、この門番では抵抗できず侵入を許すだろう。
「これを。門を開けてくださいませ」
先ほどの、鈴を転がしたような可愛らしい声とは違う。自分自身に自信を持った覇気のある声だ。
言いながらティーナはその老門番に手に持った装飾具を示した。細い金の鎖に水晶の柱が通されている。角度を変えるとその水晶の中になにかが描かれているのが見えた。老人は目を細め、注意深く手にとって観察する。
「ああ、こりゃ……どうぞお入りください、姫様」
「ありがとう」
門番はその飾りをゆっくりした動作でティーナに返した。そのままちらとクロウに向けられた視線は怪しんでいるものだ。老いても役割を果たしている。
「わたくしの連れですわ」
視線の意味を理解したティーナはそう言って逃げるように馬を駆った。雪のあいだから顔を覗かせる石畳を蹄が蹴る。門番の姿は一気に見えなくなった。
「どこに連れて行く気だ」
「さあ。どこだと思います?」
顔をしかめながらクロウが尋ねると、案の定の返答だ。
ふふ、とティーナは光を帯びた赤い目を細め、子供のものとも女のものともつかない笑みを浮かべる。子供というには少し妖しげで、女というにはまだ幼稚な、どこか危うい光が灯っている。
「わたくしのお願いを叶えてくださるのなら、お教えしますわ」
雪に覆われたリューズエニアの街が一望できる高台にたどりつくと、休みなしに走り続けた馬は手綱を引かれて足をとめた。さらに奥に行けばリューズエニア領主の城がある。
「きれいな場所だと思いませんこと? この土地は『春の丘』と呼ばれていましたの。それなのに、今では雪に覆いつくされてしまって」
楽園。花々が咲き乱れ、そよ風が吹く。ささくれていた心だって穏やかになっていくような、そんな場所だったのだとティーナは語る。
「ヘルというここの領主がファイアーランドから独立しようなんて考えなければ、ずっと暖かいままでしたのに。どうしてファイアーランド領主も独立を認めてしまったのかしらね」
遥か遠くを見つめる彼女の瞳。独立から八年がたち、冷たくなってしまった風がティーナの金の髪を撫ぜた。
クロウは違和感を覚えた。たしか、リューズエニアが独立したのは八年前。十代前半と見えるティーナが以前のリューズエニアを覚えているのはおかしく思えた。普通、幼児期の記憶をそんなに鮮明に覚えているだろうか。
そこまで考えて妙に納得がいった。人間じみた混血児と一緒にいたせいだろうか、考えかたが人間基準になっていた。魔物は成長が遅い。己と同じように、外見が子供であろうとも、二、三十年はゆうに生きているのだろう。成年を超えたか超えないかは一目見ればわかるものだが、超えた者については自分を未成年であるとごまかすことはできる。
「では行きましょうか」
再び馬が走りだす。奥へ奥へと高いところへ進んでいる。
クロウには彼女の真意がわからなかった。
水に沈んだサラム村から子供を抱え、人々が帰ってきた。
門番にはこのことが伝わっていたようで、特に引きとめられずに人を乗せた馬が次々と門を駆け抜けていく。一直線に宿へ戻ると、助けてきた子供たちのうち数人が老婆と若い男に泣きながら駆け寄った。
「おばあちゃん、怖かったよー!」
「もうお泣きでないよ、おばあちゃんも泣きたくなっちゃうからねぇ」
「皆さん、本当にありがとうございます」
老婆は子供たちを抱きしめ、涙を流して喜ぶ。今にも泣き出しそうな男は深々と礼をした。いくら感謝してもまだ足りない、そういった様子だ。
「気にするなって。困ったときはお互いさまだろう?」
宿が再会の喜びに溢れた。待機していた女たちは手拭いや毛布を配ってまわる。
そこへ、遅れて男が子供を抱えて飛びこんできた。周囲が優しく迎え、火のそばに寄るよう勧める。いち早く女が隣に立ち、この大部屋の中心の暖かい場所まで腕を引く。
「どうしたのよタザフ、遅かったじゃない。一番先に出ておいて、帰りは一番遅いだなんて」
「……トーリュウに会った」
搾り出すように今しがた到着した男が言った。村に残された子供を救った英雄は沈んだ表情をしている。抱えている小さな子が足をばたつかせたため、彼は床に下ろしてやる。大人は言葉を失い、硬質な空気に無頓着な子供の無邪気な声だけが響いた。
「オサードだ、まずはオサードを呼べ。家に入れていたのは奴だろう。保護者だったか」
真っ先に我に返った者が声をあげる。一拍の静寂の後に膨れあがった批判を含んだ声を聞きつけ、宿の奥にいた渦中の男が人をよけながら騒ぎの中心に立った。
なにか、と短くオサードは言った。リューズエニア中で自身のことが噂されているのは知っている。遠方からこの街に逃れてきた者でも声を潜めて噂するほどだ。オサードのところの混血は、と。
「みんな集まれ。タザフがあの混血に会ったんだと」
話す場を整えられて、全身がぐっしょり濡れたままの男はぽつりぽつりと話しだす。乾いた布が手渡されても受け取って握り締めただけで水滴を拭おうとはしなかった。
「サラムから子供たちを助け出した後、俺は逃げ遅れて、濁流に飲まれかけた。そこにあいつが現れたんだ……あの、トーリュウが」
名を口にすることすら恐れ嫌うように男は身震いした。周りも息を呑む。
帰っていたのか、とそれを聞いたオサードは思った。
混血のトーリュウは昔、姉から引き取った混血児だ。姉がこの宿屋で使っていたのだが、問題を起こしてオサードが引き取ることになった。幼いころから水をうまく扱えた彼は村を沈めた張本人だと疑われていて、半年ほど前に姿を消した。
「ほら見ろ、あいつが村を沈めてる証拠じゃないか。シル村が嫌になってたんだろう、村ではあんまり見かけなくなってたな。オサードに逃げるように言って、それからついにシル村を水に沈めて自分も逃げ出した。辻褄だってあう」
「半分魔物だからってあたしら人間を見下して、自分のお楽しみのためにあっちこっち沈めて……ベルシャの旦那の言うとおり、混血なんかとっとと殺しておくべきだったんだよ!」
四方八方からの非難の声。黙っていられなくなったオサードは抗弁する。
「魔物だからって人間より偉いわけじゃないはずだ。トーリュウが村を沈めてる証拠? 誰かやってるところを見た奴がいるのか?」
それでもざわめく周囲をにらみつけ、オサードは話の続きを促した。手拭いを握る男の手が小刻みに震えている。彼が口を開くと、なじる言葉はなんとか収まった。
「……助けてくれたんだ」
「なんだって?」
「面と向かって話したことなんてないし、あいつは俺が陰でいろいろ言ってるのが聞こえてたはずだ。なのに、助けてくれた」
「嘘だろう? タザフさん、あんた混血は嫌いだって公言してただろうが。奴は今まで村を沈めてきた、親もわからない混血で……」
「助けてくれたんだよ。俺が子供抱えて逃げてたからなのかもしれない。けど、水に押し流されそうになってたところを助けてくれたんだよ」
「人違いってことは」
「間違いない。銀髪で青目、水を操る。年格好だって、ありゃトーリュウに違いない」
疑ってかかった男は口をつぐんだ。強い口調で断定する彼の目はまっすぐだ。
「すまない、オサード。俺はひどい勘違いをしてたみたいだ。領主のいるリューズエニア近くの町村しか生きてるところはないのに、どうしてそこから離れたシル村が沈まないのか。あいつ自身が住んでるからだと思ってた。いなくなって、このざまだろう? ……だが、違ったみたいだ」
男はなにかに苦しむようにやっと息を吸う。
「シルが今まで沈まなかったのは、なにを言われようが、あいつが……トーリュウが村に留まって防いでくれてたからなんだな」
彼はオサードを見上げ、膝と手を床についた。もういいんだとオサードが言っても、男は床に頭をつける勢いで何度もすまない、すまない、と繰り返した。
これを見て、周りは視線をさまよわせはじめた。非難の声はもう出てこない。
「やめてくれ、そんなに謝ってくれなくていい。トーリュウは生きてる、そして誰も殺してない。それだけわかれば十分だよ」
サラム村で気を失ったルリは、宿を取ったときにあてがわれた部屋で目を覚ました。
「無事に帰ってこられたの……?」
ぼそっと呟いただけの声が、部屋に響いたように感じられた。
クロウはどうしているだろう、とルリはざわついている下の階へ向かった。まだ回復しきっていないために、身体がずいぶんと重い。
「どこに行ったの? クロウー?」
やけに騒がしい、と思いながら目線を下にやり、あの珍しい淡金銀の頭を探す。
毛布に包まれた子供たちが一箇所にまとまって火にあたっている。少し離れた場所では大人たちが丸く輪を作って話し合い、なにやら湿っぽい空気が流れている。奇妙な光景だ。
そのときだった。
「リューズエニア領主の命だ。かくまっている女と子供を出せ」
外のほうから男の声が聞こえた。騒がしくてもよく通る低めの声だ。
「女と子供というのは誰のことでしょう? この宿にそのような者はたくさんいるのですが」
人の輪の中心から出てきたオサードが動揺を感じさせない態度でそれに対応した。たしかに、ここは助けてきた子供でいっぱいだった。もともと泊まっている女たちもいる。
「金髪の混血女と、その連れの子供だ。ここまで言えばわかるだろう、早く連れて来い!」
こう言われると名指しされたも同然だ。ルリはさっとその身を柱の影に隠した。
領主の命となると、考えられるのは一つしかない。ただ、クロウをなぶっていた領主の子を持っていた荷物で軽く、軽く殴っただけだ。別段悪いことでもないはずだ。
外からは野蛮な声が聞こえてくる。早くしろ、さもないと貴様の首が飛ぶぞ、と脅しをかけてくる兵の声だ。荒くれ者ならまだしも、領主の兵がこれほどに野蛮でいいのだろうか。
ルリは見つからないよう慎重に部屋へ戻った。
「確認を取ってまいります。少々お待ちください」
従業員の中から歩み出した。彼はその女と子供というのがルリとクロウだということを知っている。わざわざ確認などしなくてもいいはずなのだ。
オサードが廊下へ出ると、ルリはひっそりと階段をのぼって部屋に戻ろうとするところを見つかった。彼はこのようなところにいるルリに驚いた様子を見せ、ため息をつく。
「申しわけありませんが、裏口から出ていただけますか?」
「でも、それじゃ……」
あなたはどうするの、という問いはオサードに遮られた。
「大丈夫ですよ。私にはこの宿を守る義務があります」
にっこりと、彼は笑った。以前オサードの住んでいた村はもう湖と化しているだろう今、彼の居場所は姉が経営しているというこの宿しかない。働く場所のある彼はまだいいほうだ。流されてしまった村で農耕をしていた者には仕事がない。
「もと来た道を戻ってください。厨房まで行ったらあとは厨師たちがなんとかしてくれます」
ルリは苦悩したが、一拍置いて力強くうなずいた。急いで部屋に戻り、いつでも出立できるようにまとめておいた荷物を手につかむ。準備ができたことを確認したオサードの案内で、ルリは物陰に身を潜めながら動いた。
下では兵士の一人が、人質として今まで宿の前に立っていた従業員の一人を拘束し、耳の下あたりに刃物を押し当てていた。また、窓の外からは怒号が聞こえた。
「早く連れてこないとこの宿に珠玉を放つぞ!」
小隊の長であろう男はそう言って黒い珠玉を取り出した。どのような術がこめられているかはまだわからない。これだから人間は、と人間を蔑む昔の魔物の気持ちが理解できたような気がした。
「お客様、外は気にせず先へ」
ルリはオサードに一礼し、兵が珠玉を放ったと同時に清潔を保たれた厨房へ足を踏み入れた。爆音の後、ルリの耳に複数人の足音が聞こえてくる。音からすると厨房方面には来ていないようだ。
「強行突破するなら面倒なことはしないで最初からそうすればいいのに」
ルリは思わずそう呟いた。それならどれほど気が楽だったか。緊迫した空気は苦手だ。
厨房へは無事に行けたが、混乱状態にあるためにオサードの言う厨師は一人としていなかった。
ここから先はどこへ行けばいいのかわからない。なにしろ、色も形もそっくり同じ戸が七つあるからだ。厨師に道を訊けとのことだったが、誰もいない今、それは不可能だった。
「どこから逃げれば……?」
悩んだ挙句、ルリは中央の戸へ向かって歩きはじめた。彼女が銀色に光る取っ手にそっと手をかける、そのときであった。
「お待ちください、お客様!」
切羽詰った静止の声。オサードがばたばたと足音をさせながら慌てて厨房に駆けこんできたのだ。
ルリはそろそろと取っ手に伸ばしていた手を反射的に引っこめた。そして厨房の入り口の方を見やる。
「その戸はいけません、右から三番目の戸を」
右から三番目というと、ちょうど右隣だ。
オサードはルリの頭を優しく撫でる。なにかに包まれ守られるような感覚。ルリは一瞬生ぬるさに顔を歪めたが、軽く会釈をして今度こそ取っ手を引く。
兵士たちがこの場にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。すぐに数名分の軍靴の音が響いてくる。
「大丈夫、目くらましは先ほどかけてあります。……大切なお客様に傷など負わせませんよ」
「オサードさん?」
「私が食い止めますから、早く行って。軟弱兵士なんかに殺されるわけがないでしょう?」
得意げに笑うオサードの表情は、初めて会ったときクロウを突き飛ばした大男のものだった。
兵が扉を破るとともにルリは戸を閉めた。この宿に来た道とは似ているようで、明らかに違う。道を間違えたかと思ったが、それでもルリは必死に駆けた。
背に庇う戸に消えていったルリを目の端で見送って、なにごともなかったかのようにオサードは言う。
「あいにくですが、ここにあなたがたのお探しの者はおりません」
皆に疑われて姿を消したトーリュウのことを思うと、彼女には少しでも遠くへ逃げてほしかった。混血というだけで追われているのでは、あまりにもいたたまれない。
「嘘はためにならんぞ」
「私がそのようなことをして、いったいなにになりましょう」
獣のような唸り声も聞こえることから、魔物の兵士も紛れているようだった。リューズエニアでは肉体労働は人間の仕事だというのに珍しい。
オサードが相対していた者の後ろには、一人の青年がいた。いかにも入軍したばかりといった風貌の若者の手には鈍い光を放つ長剣が握られている。
「前も嘘をついていただろう。混血児をかくまっていた。あの外れ者がセントラルランドで先日なにをしたか知っているか?」
「あれは、ほんの数年のあいだ姉から従業員を預かっただけです」
オサードの主張を兵士たちは黙殺した。上官の指示で若者が武器を振りあげて飛びかってくる。他にも息を潜めている兵士がいることにオサードは気づいていたが、どうやら彼らは手を出す気はないようだった。気配は微動だにしない。
オサードは右に飛び退って避ける。動きは滑らかだ。
「いないと言っているでしょうに!」
「我々が求めているのは真実の言葉だ」
青年は懐に手を突っこんだ。珠玉かと思い、オサードは素早く対術用の壁を張る。しかし、青年が投げつけてきたのは数本の短剣。オサードの読み違いであった。術に対する壁では防げない。
うまく身体をひねってかわすが、最後の一本だけを避け損ねてそれが左腕に深々と突き刺さる。短剣のもたらす痛みにオサードは小さく声を漏らした。痛みに気を取られたのがいけなかった。背後から声。
「領主より命を受けた我々に逆らうからだ。約束の地では嘘をつかないことだ」
息が詰まる。崩れ落ちる身体を他人のもののようにオサードは感じた。