3-2.街の表裏
やっとのことで部屋を取れた宿で朝を迎え、目を覚ましたルリは隣の寝台を見た。昨夜はそこで眠っていたはずのクロウがいない。下にいるかもしれない、とルリは一応荷物を持って下階に足を伸ばす。
下の大部屋には小さな円卓がいくつもあって、椅子はすべて埋めつくされている。人々の足元には昨日のうちに見慣れてしまった大荷物があった。両手両足の指の数を足しても足りないほどの人がいるというのに、それにしては驚くほど静かだった。時おり、感情を失った声がぽつり、ぽつりと静かな水面を揺らす程度だ。
クロウの姿がないかざっと見渡してみるが、やはり彼の姿はない。外に行ったのかもしれない。人のいるところは苦手そうだ。もしくは、知らないうちに部屋に戻ったか。
「シル村、一昨日沈んだんだってな」
ふと男の声が耳についた。沈んだ、と。
声の主は大部屋の隅で円卓を囲む男たちのうちの一人だった。うつむきながら男が声を押し殺しておもむろに言う。ちらと見えた目は鋭い。
「やっぱりあいつがやってるんだ。げんに、オサードは助かってる。こっちには姉の宿屋があるって話だ、村で暮らすより楽になるだろうよ。つまり、最後の恩返しってわけだ」
その言葉は響いたわけでもないのに、さぁっ、と部屋は一気に静かになった。先ほどまではたしかにあった小さな話し声もなくなった。耳を澄まさずとも会話を聞き取ることは容易だったのだから、誰も彼もが聞き耳を立てていたのだろう。
「死んだ奴が一人もいないのが幸いだったな」
冷たい空気を払おうとして、同席していた男が口を開く。これによって、また各所で声を潜めた会話がはじまった。どんよりとした空気はそのままだが、少なくとも冷たいものよりは居心地がよくなる。
「おまえ、水術師なんだろう? なんとかできなかったのか?」
「やろうとしたさ。でも無理だった。『沈む』だなんて話に聞くぐらいだったし、まさか、あんな……」
受け答えた彼は己の無力さを痛感したように笑った。
ルリはその疲れきった表情にぞっとした。リューズエニアが独立してそれほどの年数は経っていない。それなのにこの小さな国は疲弊している。
「前はどこだった?」
「……アリール町だ。稼ぐにはちょうどいい町だったんだが」
「くそっ、なんで領主は対策を立ててくれねえんだ!」
別の方向から、だん、と拳を円卓に叩きつける音がした。強い衝撃に卓が軋む。彼らは一種の運命共同体だ。その言葉には全員がうなずくことだろう。宿主である小太りの女がようやく奥から出てきてそれをいさめるように言う。
「朝から酒なんて飲んでるんじゃないよ」
「うるせえ。ここもいつ沈むかわからねえんだ。こないだなんてな、俺の親父が巻きこまれたんだぞ!」
「わかった、わかった。それはさっき聞いたから。それより、静かにしてくれないかい? 他のお客の迷惑になる。領主様のいるこのリューズエニアが沈むわけないんだから、ほら」
声を荒げていた彼は唇に力を入れて、己が目立っていたことを知る。それから席について隣に座っていた女の肩を抱いた。大部屋は水の滴るような静けさを取り戻した。
ため息をついた宿主はルリの方に向き直り、笑いかける。
「どうしたんだい? さっきから立ったまま」
「いえ、なんでも……。朝起きたら連れがいなくなってて」
「あのこぎれいな子? だったらさっき外に行ったよ」
「そうなんですか? もう、クロウったらなにも言わないで。すみません、ありがとうございます。これ、宿代です」
ルリはもたつきながらも小袋を取り出して二人分の宿泊代金をつりのないよう渡した。いつもは気にしない自分の声がこの場にそぐわないと感じるほどいやに明るい。
クロウがいないようだったら一度宿を出ると決めていたルリは、荷物を持ってきておいて正解だった、と外へ出た。
雑踏の中をルリは目を走らせながら歩く。衣類や食料をまとめて背負った人々が多くを占めている。
「まったく、どこ行ったのよ」
身体の小さいクロウをこの人ごみから見つけるのは昨日の宿探し以上に難しいだろう。背中に流した日差しのような髪は寒色の衣に合っていて目立つ。しかもこちらは上から探している。だというのになかなか見つからないのだ。それとは反対にクロウはルリを見つけやすい。上から覗きこむようにしている少女を、金髪と枯草色の外套からのぞく紅を見つければいいのだから。
ごった返してる街道を抜け、ルリは一息ついた。混んでいるのは沈む町や村から逃げてきた人々のせいだと朝の話でわかった。溢れるのではないかという人数が帰る場所をなくしているのだ。
この先氷の平原、と矢印つきで書かれた看板を見て彼女は苦笑いする。もう断片的にしか覚えていないが、母と来たときのこの看板にはたしか、菜の平原と書かれていた。名を変えなければならないほど変わってしまったというのか。
そのとき。かすかに、やわらかいものを蹴るような音がルリの耳に届いた。氷の平原から聞こえてくる。続いて、生意気そうな子供の声。断じてクロウではない。声色はどうにもならないが、クロウはもっと大人びた話しかたをする。しかし、そんな生意気そうな声に混じって彼の声も聞こえてきた。
ルリは急いで看板の指し示すほうへ向かった。近づくにつれ、その声もはっきりしてくる。
「へぇ、おれに逆らうとは、ずいぶんいい根性してるな」
「そうだぞ、下衆が。リューズエニア領主がご子息、ジャッキー様に逆らうとはなにごとだ!」
雪の積もった坂の下に子供が四人。三人がかりで一人を蹴り飛ばしている。やられているほうの一人はされるがままに丸くなっていた。一番身体の大きな子供がジャッキーだろう。餓えることのない生活を送っていることがうかがえる。
身体を丸めているのはクロウだ。どうして一人であのようなところに。
「うるさい、下衆はおまえたちだろう。リューズエニアはまだ七大国に正式に認められていないはずだ。そのご子息とやらもどうせ……」
「このっ、ジャッキー様は下衆じゃない!」
「いや、話させてやれ。おれはどうせ、なんだっていうんだ?」
「取り巻きは選んだほうがいい、ということだ」
あのクロウがやられっぱなしのわけがないのに、抵抗する気配が見えないとはなにごとだ。いや、言葉ではしっかり抵抗している。普段より口数も多い。だが効果はあまりないだろう。
ルリはクロウに駆け寄ろうとしたが、なかなか彼に近づけない。足止めの術が施されているわけではないのに。慣れていないと雪の上は歩きにくい。足は埋もれるし、滑りやすくなっているところもある。
クロウは必死になって身体を丸めている。なにかを抱え守っているようだ。そのせいで反撃に移れないらしい。
「ほら、さっさと返せよ。おまえの親は、他人のものを盗るのはいけないことだって教えてくれなかったのか?」
やわらかな身体は、もっとも肉づきのいい少年に蹴り飛ばされた。地面に叩きつけられ、クロウの息が詰まる。それでもまだ大切そうになにかを抱えていた。
ルリはやっと一歩進んだような気がした。今まで動かなかった足が急に動くようになったという錯覚。
坂を一気に駆け抜け、そしてルリは荷袋を振り回すようにして少年たちの頭を殴った。鈍く濁った音が連続して三回。
「そこの三人、なにしてるの!?」
ルリはクロウを背に庇うように息を荒げながら立った。目の前には、生意気盛りといった子供たちが頭やら頬やらを押さえ、なにがおこったのかわからないという様子で座りこんでいる。
「おまえ、これを知れば父上がなんて言うか!」
さすがに領主の子と言おうか、最初に我を取り戻したのはジャッキーだった。ルリに向かって荒々しくそう告げるものの、不利を悟って逃げるように走り出した。他の二人もそれに続く。
誰が先の状況を見ても、悪いのはきっと彼らのほうだと言うだろう。たとえ相手が領主の子だとしても自分は悪くないと思いながら、ルリは倒れているクロウに向き直って腰をかがめた。
「あれだけされても抵抗しないなんて、なにかあったの?」
クロウは黙って抱えていたものを放した。黄金色が雪の上を走る。
「……昨日のスフィンクス?」
見かけ同世代が相手だと饒舌だったクロウは、ルリに助けられたのだということを知ると口の動きが鈍くなった。彼は腕や背中を痛そうにさするのに夢中でルリと目を合わせない。
「こいつで遊んでるのを見て、それで」
「ずっと気にしてたものね」
今まで抵抗していなかったのは、抱えたスフィンクスを守るためだったようだ。そのかいあって、クロウは雪に濡れた衣がところどころうっすら血に染まってぼろぼろなのに対し、黄金色の幼獣のほうは傷一つない。どこかの国では神獣に準ずる扱いだそうだから、きっといいことがあるだろう。
小さな生き物は一度だけ礼を言うように跳んで、背を向けて走りだす。助走をつけ、白い翼で飛び上がって姿を消した。
街に戻った二人はその空気に、眉間にしわを刻みこむことになった。街の人々がちらちらと冷たい目でこちらを見てくるのだ。目の前でひそひそと繰り広げられる会話はいい内容のものではない。
「他所の子がジャッキー様に逆らったって」
「しかも、女がジャッキー様に危害を」
幼く自分の責任もわからないような子供だったとはいえ、その領主の息子は結構な影響力を持つようだった。少年は品性のかけらもない様子なのでわからなかったが、自分の身に置き換えてみればよくわかる。ルリもウィンドランド領主の娘だ。実子に危害を加えられたと領主が知ればどうなるかなど、わかりきったことではないか。
誰が見ても悪いのは少年のほうだった。しかし、誰もその現場を見ていない。見ていたとしても、民というものは余所者の側より領主の側につくものだ。少し金を落としていくだけの余所者と、庇護してくれる領主の差。
冷ややかな視線はクロウのために立ち寄った薬屋でも変化はない。それどころか、どうも荒っぽい接しかただ。
薬を求めて店に入るまではどの店でも追い返されることはない。だが、ルリがクロウのことを示して怪我をしたのだと言った途端、厄介者が来たとばかりに顔をしかめられ、相手にしてもらえない。広い街にあるどの薬屋に行っても同じことが起こる。
「傷薬?」
「はい。連れが怪我をして……」
薬屋の老女はルリとクロウを見るなり顔を背けた。どうやらこの店でも反応は変わらないようだ。他の客も冷たい視線を送ってくる。
「うちにそんな物はないよ。とっとと帰んな」
どう考えても後ろの棚に傷薬があるだろうに、今までと同じように薬すら売ってくれない。いや、ここはまだいい。他店では目の前で求めていた薬を隠された。
そういうわけで、二人の荷物は増えることなく、ただ街をうろうろしていた。
「なんなのあの人! 傷薬もない薬屋ってなによ」
「……落ちついたらどうだ。怪我してるのはおまえじゃないし、ほうっておけば治る」
「魔物だから治りも早い、だから薬なんていらない、って? そういう問題じゃないわ。ああ、思い出すだけでも腹が立つ」
リューズエニアの広い街を歩くのに一日近くを費やしてしまった。もう夕暮れ時だ。
「これじゃ、宿探すのも苦労しそう」
昨晩の宿はいいところだったので今晩も世話になろうと戻ったら、門前払いされた。沈んだという村や町から逃げ延びた人たちで満室になっていた、というのが面と向かって言われた理由だったが、それは表向きのことのようだった。奥まっていて目立たなそうなところにもルリたちのことは知られているらしい。
誰かが吹聴して回っている。なにしろ道行く人にすら避けられる始末だ。しばしば迷惑そうに見られるので、二人は勇ましく翼を広げた鳥の像に寄りかかった。嫌われ者になった気分だ。
少しのあいだぼんやりとしていると、二人の心を反映するかのように足元に影が落ちる。
「へぇ、あのくそ生意気な子供を引っぱたいたお嬢さんがいるって?」
「あなたは……昨日の?」
見上げれば、声をかけてきたのはクロウにぶつかった大男だ。二人がこの街にいるのは彼のおかげと言える。男は口を開けて豪快に笑った。山男という印象が拭えない。
「ただの家出娘かと思ったら、度胸あるなぁ! どうせ宿は決まってないんだろ? だったらうちに来いよ。この街じゃちょっと有名な宿屋をやってるんでね」
大男は立てた親指を後ろに向け、そちらに宿があることを示した。
「でも、有名なのにあたしたちを泊めたってことが知られたら……」
「平気だって、そんなことで看板が傷つくような宿じゃない。それとも野宿でもするのか? リューズエニアの夜は寒いぞ。なにせウィンドランドの風がある」
「……お願いします」
クロウもルリも地面が硬くても文句など言わない。しかし、傷はたいしたことないとクロウは言うが、百歩譲って気にするほどではないとしても疲れているだろう。なによりルリは寒い中で眠るのだけは嫌だった。
二人は大男の案内でその宿に向かった。表から入って平気だと彼は豪語していたが、それでもルリたちは裏口から入ると言って聞かなかったため、結局、裏口から入ることになった。
案内されたのは裏すら上品に塗装されたかなり大きな宿屋だった。貴族の城の一部を改修したのではと思うほどだ。客の目の届かないところにまで丁寧に装飾されている。ルリは今ごろになって本当に泊まってもよかったのかと自問しはじめた。
小さめな戸の前で大男は重そうな分厚い外套を脱いだ。その下にも暖かそうな服を何枚か重ねている。帽子を頭から取ると、黒に近い灰色の髪が現れた。
戸が開かれれば、どこよりも清潔だろう調理場が見える。厨房を通り道として使うつもりのようだ。普通は部外者には見せたがらない。料理人からすれば通ることによって埃がたつのを嫌う。
中にいる厨師たちが声をかけた。火力調整をしたり野菜を刻んでいたりで両手がせわしなく動いているのに、そのうえ口まで動かしているさまを見てルリは感心した。よく失敗しないものだ。
「や、オサードじゃないか。もう帰ってきたのか?」
「昨日な。今日あいさつしようと思ってたんだ。帰ってそのまま寝たからな」
「やっぱりな。あんたがいなきゃ看板なしの宿と同じだ。帰ってきてくれて助かるよ」
「おいおい、看板なしってなんだよ。俺がいなくたってここは平気だろうが」
「いいや、オサードがここを出て以来注文が減った」
オサードと呼ばれた大男はにやりと笑った。
「その子らが例の?」
「今晩うちに泊めることになったんだ。この宿ももっと有名になるぞ。じゃ、案内してくる」
厨房を抜けると、広い廊下に出た。彼に従ってまっすぐ歩き、赤い絨毯の敷かれた階段をのぼる。ここまでくれば宿屋と呼べるような域ではない。どこかウィンドランド城を思い出させる。
「こっちだ……とと、今は客だな。こちらです、お二方。先ほど厨房をご覧になられたでしょうが、当宿場では食事所も兼ねておりますので、どうぞご利用ください」
ルリは小さく首をひねった。大男という印象とその口調には違和感がある。
二人は三階の小部屋に通された。訪れを予期していたのか、その小部屋にすでに入っていた暖かい火がルリたちの冷えた身体を温めてくれた。心底ありがたい。暖炉の装飾も見事なものだ。
「私はオサードと申します。なにかありましたらお呼びください」
先ほどまでの大胆さとは打って変わって繊細なものになった。態度と言葉遣いが変わり柔らかい物腰となったが、相手を安心させる笑顔は変わらない。もともとがそうなのだろうが、こうして見ると彼が長身の優男に見えてしまうのだから不思議だ。着膨れしていたのだろうか。初対面の印象が強すぎる。
退室しようとしていた彼をルリは引き止めた。
「ちょっと待ってください。薬がほしいんですけど……」
「それならそこの棚の中に薬箱が入っていますよ、お嬢さん。では」
寝台の脇にある背の低い棚を示してから、大男――オサードは優雅に退室した。