0.序
石畳の上に真っ赤な絨毯が敷かれた城の廊下を、二人の男が走っていた。先を行く男は包みを抱えて疾走する。そのすぐ後ろを駆ける男は、何度も後ろを振り返りながらも、その足を緩めることはない。
彼らの背後には火と崩落が迫っていた。喉の焼けるような熱風が吹きつける。
もう後にはひけなかった。蔵書も、贅を凝らした調度品もすべて飲み込まれた。炎に照らされ、髪も顔も朱色を帯びた。それほどの業火だった。
長い廊下を駆ける。しかし、そこまでだった。行く手を阻むように窓が割れた。なお進もうと一歩踏み出すと、その先の窓に亀裂が入った。そのまま行けば砕け散った硝子が二人を襲うだろう。逃げる主を城が見限ったのだ。
気づいてみれば城内は奇妙なほどに閑散としていた。人の気配がまったくない。掃除婦も、老臣も、兵士一人の姿さえなかった。誰もが外に逃げ出した後というよりも、炎さえ無視すれば、まるで深夜の静けさだった。すると、まるで男二人のほうが異物のようにも見えてくる。
割れた窓から小さく見える城下の街には、普段どおりの喧騒があり、それは陥ちようとする城に混乱するものではない。
誰も知らない。城外の者、傘下の民、彼らの誰もがこの城で起きていることを知らない。
「ここまでか」
言って、包みを抱える城主は、布の塊のようなそれをもう一人の男に渡す。押しつけるようでいてひどく気を遣った渡しかただった。布のあいだから赤子の小さな手がのぞくと、やはり離れがたいという顔をしつつ、それでも押しやる。
そんなものを託されたほうはたまらない。首を振って拒否と不可能を示すが、城主はそれを受けつけなかった。
「行け。この子を連れて、行け」
言い放たれた男にとってはわかりきっていた返答だったが、確認せずにはいられなかった。主命に従い、主君を置き去りにする。これほど惨い命令が他にあるだろうか。
「……どうぞ、ご無事で」
男は口ごもりながら、掠れた声で言葉を紡いだ。
託された赤子を大切に両腕で抱える。赤子は驚くほど軽い。日常であれば心地よい重みであるはずのそれはしかし、このときにあっては重すぎた。
一礼して、男はためらいなく割れた窓から飛び降りた。
脱出した男が着地して振り返ると、そこにあったのは、火の気がなければ窓も割れていない、いつもどおりの城だった。どっと押し寄せる人の気配に踊らされそうになりながらも、敷地を駆け抜ける。もう振り返ることはなかった。
彼を見送る城主の目に映ったのは、飛び降りるその後ろ姿が歪み、消えるところまでだった。それでも城主は無意識に詰めていたらしい息を吐き出した。彼ならば無事に逃げおおせるだろう。
じりじりと迫る炎は次々に姿を変える。牙、翼、爪。そして現れた双眸には恨みと妬み。
「来い」
男は口角を上げて笑ってみせた。
「おまえは、我が祖の罪だ」
炎が恐れを抱いたかのように大きく揺れた。だが、次には牙をむいて嘲う。
彼は業火と、そして一点の光もない闇に、一瞬のうちに飲みこまれた。