パリのレモン
洋一はパリ・ジェンヌと気ままな散歩だ。
「セタンブリケ、セタンブリケ(これはライターです、これはライターです)」
本場仕込みのフランス語も軽やかに、パリ・ジェンヌを相手に小粋なジョークさ。ふたりはいつものようにウィットに富む会話をしながらパリの街を行ったり来たり。そうしていつの間にやら、しゃれた果物屋の店先に。
洋一とパリ・ジェンヌはすっぱいであろうレモンを同時に手にした。思わず微笑みあうふたり。
「あたし、このレモンが気に入ったわ」
「僕もさ、アントワネット」
「ほかのは全部腐ってるみたい」
陽気なパリ・ジェンヌのアントワネットは鼻をつまんでしかめっ面をした。果物屋の主人はふたりの会話を聞いてご機嫌ナナメだ。
「ウチの商品にケチをつける気かね」
主人はえらい剣幕だ。
「まあ、怖い、まるでやくざね」
かわいいアントワネットはおびえたウサギのよう。
「おお、アントワネット、やくざを知ってるのかい?」
「ええ。でも、ここの主人はやくざどころじゃない。スーパーやくざよ」
「言い得て妙だね、アントワネット」
洋一はアントワネットの気の利いた言葉に感激気味だ。
「スーパーやくざ、スーパーやくざ」
ふたりは声をそろえて果物屋の主人を囃し立てた。主人もこう赤っ恥をかかされてはたまらない。
「そのレモンはやるからもう出ていってくれ、お願いだ」
果物屋の主人はついに観念した。
「アハハハハ、スーパーやくざをへこました、スーパーやくざをへこました」
ふたりは声をそろえ、軽やかなステップで果物屋の店先からすてきなシャンゼリゼーへ。レモンは洋一の手からアントワネットの手へと放り出され、そしてまた、アントワネットの手から洋一の手へと舞い戻る。レモンの描く曲線はまるでふたりの愛の証のよう。シャンゼリゼーを楽しげに歩く人々も神に導かれ、ふたりを祝福する。
しかし、そんな幸せも長くは続かない。ふたりはレモンをパスしあいながら、いつの間にかエッフェル塔に昇っていたが、そこでふたりが見たものは……。
「おお、アントワネット、こんなところに卓球台があるよ」
「まあ、ヨウイチ、素敵ね、きれいな緑だわ」
洋一は頷くと同時に、無邪気に目を見開いた。
「見てごらんよ、アントワネット、この小汚い壁に張り紙がしてあるよ」
「まあ、意外。気づかなかったわ」
洋一は男らしく読み上げた。
プレイ御希望の方は、係員までお申し付 けください。 店主
「なんてこったい、アントワネット、プレイできるんだってさ」
「まあ、素晴らしいわ。エッフェル塔ならではの趣向の凝らし方ね」
「プレイしない手はないよ、アントワネット」
「まあ、なんてボンなアイデアなんでしょう。ヨウイチってホント切れ者ね」
洋一は照れながらあたりを見回した。売店に澄ました老ムッシュが座っている。
「すみますぅぇ〜ん、すみますぅぇ〜ん」
洋一がおどけた言い方で老ムッシュに呼びかける。アントワネットは大爆笑だ。なんてユーモラスな人なのだ、アントワネットは密かに思う。アントワネットの笑い声に包まれながら、洋一は売店へと小走りで駆け寄った。
「今世界中で最も幸せなカップルが卓球をしようとしているんだけど、道具を貸してくれないかい、ムッシュ」
「ウィ、ウィ。けれど、球はないのさ」
「なんだって、球がないのかい。それじゃあ楽しいゲームができないじゃないか。ひどいよ、ムッシュ」
洋一はひじを曲げて手のひらを肩の高さまでもっていった。得意のお手上げのポーズだ。
「球はないんだけどさ」
曖昧な表情で老ムッシュは下の方から手垢にまみれたラケットを取り出した。
「けど、球がなけりゃ、僕たちのデートがぶち壊しじゃないか」
洋一は大いに嘆いた。
「おーい、アントワネット。困ったことになったよ」
洋一はアントワネットをあふれんばかりのアムールで呼んだ。アントワネットはエッフェル塔の窓からパリの美しいたたずまいをうっとりと眺めているところだった。
「ヨウイチ、パリはやっぱり世界一よ」
アントワネットはパリを褒め讃えながら洋一のところまでやって来た。
「ほとほと困り果てたよ、アントワネット」
「まあ、かわいそうなヨウイチ。一体どうしたの?」
「球がないんだってさ」
「まあ、なんですって!」
「アントワネット、ぼく途方に暮れちゃうよ」
「ヨウイチ、取り乱しちゃダメ。非常時には心を落ち着けて、冷静に対処しなきゃいけないの」
「君はおとなだなあ、アントワネット」
「褒めるのは後回しにして、ヨウイチ。今あたしたちにできることを考えるの。あわてちゃダメ」
ふたりは苦悶の表情を浮かべながら頭をひねった。洋一は球があるようなふりをして卓球をプレイするアイデアを思いつき、小躍りしながらアントワネットに告げたが、アントワネットの表情は暗かった。洋一はしゅんとした。そうして、小一時間が過ぎようとしたとき……。
「そうだわ!」
アントワネットが素っ頓狂な声をあげた。しょんぼりしていた洋一がとたんに晴れやかな表情に戻った。
「レモンよ」
「レモン?」
「そうよレモンよ」
「そうかレモンか」
勘の悪い洋一もこのときばかりはすぐに気づき、手放しで喜んだ。
「そうだ、その手があったね、アントワネット。君は本当に頭がいい」
洋一はいつの間にしまったのであろう、内ポケットにしまってあったレモンを取り出し、小汚いラケットをもってアントワネットを卓球台の方へ促した。幸せを取り戻したふたりが卓球台へ駆け寄る姿はさながら蜜蜂の舞踏のよう。そうして卓球台の両側に分かれたふたりはやる気満々だ。
「さあ、行くよ、アントワネット」
「ええ、いつでも来て、ヨウイチ」
洋一はレモンをラケットで意気揚々と叩いた。レモンは悲しげな曲線を描いてアントワネットの方へ。アントワネットはこの愛の証を打ち返そうとしたが、レモンはふたりの愛を裏切るようにイレギュラー・バウンドだ。努力むなしくアントワネットのラケットは空を切り、アントワネットはずっこけて台の上へ突っ伏した。
「おお、アントワネット、大丈夫かい?」
洋一は心配そうに見つめる。アントワネットは即座に起きあがったものの、憮然とした表情だ。
「ヨウイチ、素人相手に大人げない技を使うわね?」
「なんのことだい、アントワネット?」
「すっとぼけたってお見通しよ。打つときにラケットでレモンをこすったでしょ。そうしてあらぬ方向へバウンドするようにしたんだわ」
「なんだって! 僕にはそんな器用なことできっこないよ」
「言い訳はよして。このすっとこどっこい!」
そう毒づいて、アントワネットはスタスタとどこかへ行ってしまった。取り残された洋一は転がった愛の証であったものを見つめ、失恋のすっぱさを噛みしめた。
一部始終を見物していた売店の老ムッシュは洋一を去勢された動物のようだと思わずにはいられなかった。