9
フィーアの心の準備が整ったとでも見てとったのか、アデレイドは余計なことを言わずにすぐさま扉を叩いた。
実際のところ中からのいらえに彼女が名乗りを上げて入室の許可を得ている間、心の準備完了とは言えない心境だった。実際の王妃さまがどんな方かは知らないが、他国の王族だという程度の知識はある。元々王族ならばさぞや気位が高かろう。幾度考えても温かく迎え入れてくれるとは考え難い。
フィーアはため息を押し殺した。
「お気を楽になさってください」
それに気付いて声をかけてきたのは、アデレイドではなくその兄だ。存外優しい口調にフィーアは目を見張る。
「貴女が緊張なさる必要はどこにもございません」
「えーと、その、ありがと」
そうは言うものの緊張せざるを得ないが、一応は気遣う言葉に反射的にお礼を言って、お姫さまらしくない言葉遣いだったかと恐る恐る男の様子を伺う。と、緊張している娘に追い打ちをかけるつもりはないらしく彼はただ苦笑していた。
毒気を抜かれてフィーアがまばたきしている間に、いつの間にかアデレイドが扉を押し開いていた。
呆けたような状態で覚悟を決める間もなく彼女の促すままに室内に入り込んだフィーアは、扉の閉まる音で我に返る。
そこは窓のない大きな部屋だった。中央に据えられたテーブルに二人の女性が座っているだけで、他に誰も侍女らしき控える人間はいない。
おそらく正面に座るのが王妃なのだろうとフィーアはなんとなく思う。双方金髪の持ち主でどちらも仕立てのよさそうなドレスを身に着けているが、どちらかというと正面の女性のものが豪華に見えたからだ。
「本日はお招きにあずかりまして……」
すっと頭を垂れるアデレイドに続きながら、フィーアはごくりとのどを鳴らした。
王妃であろう女性がなめるように自分を見ている。
「堅苦しいあいさつはそのくらいにしなさいな」
ぱちんと音がしたのは、正面の女性が扇を閉じた音だ。
「今日は気楽な会と伝えたはず。ほら、お座りなさい」
場を取り仕切るところからすると、フィーアの予想はおそらく外れてはいまい。
本当に座ってよいのか戸惑うフィーアを促して席につかせるが、そうしたアデレイド自身は座ろうとはしない。
王妃らしき女性はアデレイドに視線を向け、目を細めた。
「アデレイド」
「座ってしまっては給仕できませんわ。人払いをなさっているのでしょう」
「大丈夫ですよ、アデレイドさん」
咎める声に平然とアデレイドが応じると、それに答えたのは沈黙を守っていたもう一人の女性だ。
「こういう機会でもないと私、お茶の入れ方を忘れてしまいますから」
きつい印象をフィーアに与えた王妃らしき女性よりも柔らかな物腰で微笑み、「お座りなさいな」と促しながら自らが立ち上がる。
「マイラがこう張り切っているのだから、お座りなさい」
アデレイドはなおもためらう様子を見せたが、二人に重ねて促されると椅子に腰を下ろした。それを見てフィーアも後に続く。
大きなテーブルだったがそれを囲む椅子は人数分しかなく、フィーアが腰を落ち着けることができたのは推定王妃の目の前で居心地が悪い。息をすることさえ気を使うありさまだ。
マイラと呼ばれた女性が給仕のために動く気配を感じながら、フィーアは目の前の彼女から注意をそらせないでいた。
フィーアの緊張を知ってか知らずか、王妃らしき女性は唇の端を笑みの形にあげた。
「まあ、ずいぶん大きくなったこと」
そして告げられた言葉が負の感情を一切含まないものだったので、フィーアは「えっ」と間の抜けた声を出してしまう。
「お母さまはお元気かしら」
「――あの人が元気じゃないことは、記憶にないです」
「それもそうね」
反射的に受け答えをしたフィーアは我に返って、魔女の娘に向けるにはあまりに親しみのこもった口ぶりに内心首をひねる。
王妃はすべて知っているとアデレイドは言っていたけれど、これは何も知らないのではないだろうか。だとしたらフィーアのことを一体何だと思っているかまったく想像がつかない。
フィーアは思わずアデレイドに意見を求めるべく視線を向けた。
「サリアナ様」
そしてフィーアの要望に応えるようなタイミングでアデレイドは口を開く。
「まずは姫さまにご紹介してもよろしいでしょうか」
「ああ、そうだったわ。あの頃貴女はあまりに幼かったものね。はっきりとは覚えてないでしょう」
サリアナと呼ばれた女性が鷹揚にうなずく。はっきりもなにも、まったく記憶にない――といってしまうとあまりに失礼だろうか。
「ええ、まあ、はい」
ひきつりそうになる顔をなんとか平然と保ちながらフィーアはおずおずとうなずいた。
うなずきながら記憶の引き出しを開けようとしても、ちっとも思い出せない顔だ。思えば、これまで悪い記憶は頭の奥深くに封印するように努めてきたフィーアだ。あまりよさそうとは思えない過去が思い出せなくともちっとも不思議ではない。
「この方は」と言いかけるアデレイドを押しとどめて、サリアナは凛とした顔をフィーアに向けた。
「私はサリアナ。王妃を務めています。正式な場ではないのだし、長い名は不要でしょう。そちらにいるのはマイラ。王の側室の一人です。公式には第二妃と呼ばれています」
端的な自己紹介に加えて、給仕役を買って出た女性の紹介までサリアナはしてのけた。
「私のことはサリアナ母さま、彼女のことはマイラ母さまとでもお呼びなさい」
そして続く言葉を聞いてフィーアは唖然とした。
「まあ、それは素敵」
そんなフィーアに気付かず手を叩いたのはマイラだ。慣れた手つきで配膳を終えるとすっと元の場所に笑顔で腰をおろす。
「息子たちが可愛くないとは言わないけれど、母上よりは母さまの方が素敵ですよねえ」
どういうことか、明らかに間違いようもないくらい歓迎されている。魔女の娘を疎んじるどころか母と呼べなどとは信じられない。
(もしかして、本物の王女とでも思ってるのかしら?)
すべてを王妃は知っているとアデレイドは言ったけれど、とてもそうは思えない歓迎ぷりにフィーアは疑念を感じないわけにはいかなかった。
そんな彼女の戸惑いを知ってか知らずか、どこか期待するような眼差しを二人の女性は向けてくる。
ごくりとフィーアは息を飲んだ。これは要求されたように呼べという無言の主張だろうか。気軽に口にできるような呼び方ではないし、脱しきれない戸惑いから簡単にフィーアは口を開けない。
誰も口を開かないので沈黙が室内を支配する。
それを破ったのは、もちろんフィーアではなかった。そして、室内にいた他の誰でもない。
フィーアの背後の扉が何の前触れもなく開く音はそう大きくはなかったが、静かな室内にはよく響いた。
早足気味の靴音がそれに続くのを耳にしながら、フィーアは正面の王妃が顔をわずかにしかめるのを目撃する。
そして次の瞬間、いくつかの衝撃が一度にフィーアに襲いかかった。