37
その部屋に入った途端に目に飛び込んできたのは、目的であるボーゲンシュットの皇太子殿下殿だった。
「姉上!」
だけど入室の挨拶をフィーアがする前に嬉々として声をあげたのは、末の弟のバートだ。
くりんとした大きな目を輝かせて立ち上がった彼を上の弟たちが咎めるが、構わず彼はフィーアの元まで駆け寄ってくる。
「おひさしぶりです! ご気分はいかがですか?」
幼い弟がどこまで事実を知っているのかが計りかねて、フィーアは曖昧に微笑んでごまかすしかない。
事実を過たずバートが知っていたとしても、イアンリードがいるのでどの道対処は同じだっただろうが。
「心配してくれてありがとう」
しゃがみ込んで目線を合わせ微笑み付きでそう言ってしまえば、誤魔化すのは簡単なことだった。
「食事中に席を立つとは何事だ」
エセルが近づいてきて、バートを叱りつける。弟がしょんぼり謝るのを見て、エセルは席に戻るように促した。
「お食事中、でしたか」
よくよく室内を見てみれば、イアンリードとフィーアの弟たちが囲む丸いテーブルには食事が載っている。
「はい。早い時間なので軽いものですが、最後に一緒にと。姉上もいかがですか?」
「私はご挨拶に来ただけなので」
エセルの誘いにフィーアは首を振った。
「でしたら、せっかくですのでお茶はいかがですか?」
リックが涼やかな顔で誘いをかけ、断られないうちにと侍従に指示を出す。
「お、お邪魔じゃないかしら」
長居をしたくないので抵抗を試みたが、いいえと一同に首を横に振られてフィーアは観念して弟のエスコートに従った。
空いていた椅子の背を引かれ座ると、すぐさま湯気立つカップが差し出される。
礼を言って視線を前にすると、正面がボーゲンシュットの皇太子殿下殿だった。
「私のためにわざわざ足をお運びいただくなんて光栄です」
イアンリードは眩い笑みで口を開いた。
「しばらく伏せっておいでとお聞きしましたが、もうよろしいのですか?」
「ふ、伏せってって……いえ、あの、そう心配されるようなことではなかったのですけど」
フィーアはしどろもどろで問いかけに応じる。
「てっきり私に二度と会わせまいという誰かの陰謀かと思いました」
笑顔でさらっと告げられた言葉が怖いと感じたのは気のせいだろうか。
「どういう意味だ」
フィーアが何も答えられないうちにエセルが眉間にシワを寄せて吐き出す。
従弟の勘気に気づかなかったかのようにイアンリードは笑みを崩さなかった。
「あれだけ牽制されたらそうも思うってものだよ。バートの言いようでは本当に調子を崩されてたようだけど……お元気になられたようで何よりです」
「は、はあ」
後ろ暗いところがあるだけにフィーアの返答は冴えなかったが、「ご自愛くださいね」と続ける彼に他意はないようでほっと息を吐く。
「あの日の対面がご負担でしたか?」
見る限り青い瞳は心底心配しているように見えて、フィーアの罪悪感は刺激される。慎ましく見えるように願いながら「いいえ」と首を横にした。
「殿下とお会いしたことで体調を崩したというわけではありません」
本当のことはとても言えないので、伝えられる事実だけははっきり告げる。
「それならばよかった」
イアンリードは微笑んで意味ありげに従弟たちを見た。
「この二人ときたら、大層貴女が心配だったようであれからそれはもううるさくて」
「……それは、その……大変ご迷惑をおかけしました」
「姉上がそのようにおっしゃる必要はありません!」
フィーアは思わず謝ってしまったが、リックがそれに反論の声を上げる。
「でも、殿下のせいではないのに責任を押し付けるわけに行かないでしょ?」
「姉上はそうやって因果関係を否定されるが、慣れない場に疲れたことに間違いはないだろう」
エセルにそう断じられると、フィーアにはっきりと否定することはできなかった。
体調を崩すようなことはなかったけれど、気疲れしたのは事実だった。
困り果てて視線を弟たちから逸らしたフィーアの後ろからそっと影が近付いた。
「恐れながら申し上げますが、姫さまがお疲れなのは殿下方にも問題があると存じます」
静かにそう主張したのは、これまで沈黙を守っていたアルトベルンだった。
「エセル様とリック様が姫さまをお守りしたいお気持ちは私にも理解できますが、少々空回りしているのではないでしょうか」
丁寧な口ぶりだが、その言葉にはわずかに非難する響きがある。
フィーアは思わず斜め後ろを振り返りアルトベルンの表情を確認したが、なんということもなく普段通りの平然とした顔つきだ。
「姫さまは、イアンリード殿下が姫さまにお会いしたいというのはただの名目で、殿下方との交流を主目的として来訪されたのだと認識しておいでです。殿下方が過剰に反応されるから、かえってお疲れになるのだと思いますよ?」
振り返った彼女をちらりと見て、彼はほんの僅かに口の端を持ち上げてからそう続けた。
エセルとリックはそれに気色ばんだが、ふふっとイアンリードが笑ったので虚をつかれたようだ。
「兄上たちのせいで、姉上は体調を崩されたのですか?」
バートが驚いたように問いかけてくるので、フィーアは慌てて首を左右に振った。
「アルト! お前は驚かせるようなことを言うなよ」
フィーアの動きを見てほっと息をついた後で、エセルは咎めるようにアルトベルンを睨みつける。
「そうですよ。姉上が私たちのせいで体調を崩されたなどと」
「彼が言ったのは、姫が君たちのせいでお疲れだったってことだろう?」
兄に追従して咎める言葉を口にしたリックに、イアンリードはなだめるように声を掛ける。それからそうだろうとアルトベルンに同意求めるように流し目をくれた。
「そうですね。姫さまの体調不良の原因については私にはわかりかねますが、前回も今回も姫様がお疲れの原因については容易に推察できます」
ははっとイアンリードは楽しそうに笑い声を上げた。
「ほら、彼もこう言ってるだろう。忠言をくれる人間に八つ当たりをするものじゃないよ。困ったものだねえ、君たちは」
なおも不満げな様子を見せる従弟たちを見るイアンリードの眼差しは柔らかい。
エセルとリックを順に見て、なおも納得を得てない様子に苦笑しつつ、イアンリードはフィーアに視線を移した。
「直接会話を交わしたのはほんの僅かだというのに、よくご理解くださったようで嬉しく思います」
満面の笑みを見せられる理由がわからず戸惑うフィーアに、イアンリードはにこにこ顔を崩さない。
「ふふ、ほぼ姫が感じられた通りですよ。従弟たちが大事にしている姫にお会いしたかった気持ちにも嘘はありませんが、それよりは彼らと交流したい気持ちの方が大きかった」
「じゃあ、何故わざわざ姉上を引っ張り出すようにごねたんだ! 外交カードをちらつかせずとも、普通に訪問すればよかっただろう」
「バカだなあ、エセル。普通に来たのでは姫にはお会いできないじゃないか」
「貴方が姉上に会う必要がありますか?」
鋭く問いかけるリックに同意するようにエセルが深々と頷いた。
「理由なく体の弱い方を引っ張り出すようなことはしないつもりだよ?」
棘を増す双子の視線をものともせず、イアンリードは平然とした様子だ。
「どうしても無理だというのなら引くつもりだったけど、叔父上――ツァルト王陛下はしぶしぶであれどうなずいてくれたんだから、私ばかりを咎めるのはやめてほしいなあ。私が姫に手を出すんじゃないかと警戒しすぎじゃない? そりゃあ私は……まあ人に比べて女好きかもしれないけど、大事な従弟の大切にしている姉君に手を出すほど飢えてはいないよ?」
ねっとフィーアに向けて微笑むのは、いきりたつ従弟をからかっているようにしか見えない。
「殿下は、従弟をからかって楽しいんですか?」
「うん、まあわりと」
問いかけにあっさり首肯されて、フィーアは思わず眉間にシワを寄せてしまう。
真意を探るようにじいっとイアンリードを見つめたが、それがわかろうはずもない。だけど茶目っ気を帯びた表情からなんとなく想像できるものはあった。
「お前はなあ……」
苦い顔でぼやき始めるエセルを制するようにフィーアは「待って」と声をかけた。
「姉上?」
不思議そうな声を上げるリックに微笑みかけて、フィーアはイアンリードに向き直った。
「それはもしかして」
間違っているかもしれないと思いながら、フィーアは迷いながら口を開いた。
当たっていなくても否定しないでいてくれたら、少しは弟たちの気が休まるのじゃないかとも予想しながら。
(自惚れた前向きさなんて、ガラじゃないんだけどなあ)
フィーアは内心ごちて、一拍置いた。
「弟たちのため、でしょうか?」
「否定はしないけど、それよりも興味の方が大きいかな」
言葉足らずの問いかけの意図を、イアンリードはおおよそつかんでくれたようでにこやかな答えが返ってきた。
「姫は妾腹の王女だ。その姫が長く伏せって不在であるなんて、表面は取り繕っていても御家騒動の一環かなあと思うじゃないか」
「イアン!」
「そうですねえ」
「ちょっ、姉上は納得しないでくださいよ!」
エセルはイアンリードを怒鳴りつけ、直後に納得してうなずくフィーアに愕然とした顔でリックが声を張り上げる。
「私は一応、君たちとは仲が良いつもりの従兄だからそれはないだろうとは感じていたけれど、だからこそ逆に長く会っていないはずの姫をそれほど慕う理由がわからなくってね」
大いに納得してフィーアは思わず頷いた。
「姫にお会いすればその理由が明確になるかなと予想したんだが……」
「わかりませんでしたか?」
「仮説は幾つか立てたけど、残念ながら決定打には欠ける。その探求は次の機会に譲るとしよう」
イアンリードは晴れやかな顔で言い切ったが、エセルとリックは渋い顔だ。フィーアもそれには苦笑せざるを得ない。
「お前、そんなに暇なのか?」
「暇ではないけど、父上の後を継げばこうは気楽に出歩けないからね。今のうちにこうして友好国との親交を深めておこうかとね」
双子たちは疑わしげに従兄をみやる。イアンリードはにこやかにその視線を受け取った。
「わかりました!」
はじめに怒られてから、口をつぐんで静かに食事を続けていたバートがそこで声を上げた。
「つまりイアン様は、僕たちが姉上に会いたがっているので、それに協力してくれたってことですね!」
無邪気な少年の言葉にその兄であるエセルとリックは疑わしげな顔をしたが、フィーアの問いかけよりも直接的なそれにもイアンリードは否定の声を上げない。
ただにこやかに様子を見守るイアンリードは、正解を口にする気はないらしかった。
しばらく従兄の様子をじいっと見ていたエセルもリックも、とことん問いつめる気はなかったらしくやがて諦めたかのように息を吐いた。
気を取り直したかのように二人が食事を再開すると、和やかな時が戻る。
「身軽なうちに交流を図るというのなら、帰りにもどこかに寄る道するんですか?」
何事もなかったかのようにリックが尋ねると、イアンリードはうなずいた。
「国元を長く不在もできないから、寄るといってもたかがしれているけれど」
「ボーゲンシュットの友好国といえば……」
エセルがしばし考えていくつかの国名をあげる。
「おやよく知ってるねえ。だいたいその辺りだけど、全部訪問する予定はないよ」
「ま、それはそうだろうな」
そこからは三人で仲良くどこの何がどうだとか話はじめたので、やはりフィーアは会話に取り残されることになった。
先ほど口を開いたきり沈黙を守っているアルトベルンにどう話しかけていいものだかわからなかったし、同じように会話に取り残されたように見えるバートとは何を話していいものだか想像がつかなかった。
アルトベルンには一方的に気楽に話しかけることが主だったからボロが出そうだし、弟たちはいつも三人そろって現れるからバートと一対一で会話した記憶がないので、幼い末弟との会話の糸口がつかめる気がしないからだ。
幼さ故の無邪気さで答えがたいことをさらりといわれそうな気がしてたまらない――いや、きっと間違いなく言われるに違いないとフィーアは確信めいて思っていた。
単なる被害妄想かもしれないが、危ない橋を渡らないに越したことはない。
(来るタイミングを間違えたんじゃないかしら)
そんな風に思いつつ、フィーアは優雅な仕草に見せかけながら、間を持たせるようにちびちびとカップのお茶を少しずつ飲む作業をすることにしたのだった。