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「本日、イアンリード殿下がお帰りなのですが」
その日の朝、食事中に遠慮がちに侍女が声をかけてくるまで、フィーアはその人のことをすっかり意識していなかった。
お茶会の翌日に花束に添えた手紙を送られたが、歯の浮くような美辞麗句を冷静に受け止める心の余裕もなく、お気遣いいただきありがとうございますと当たり障りのない返事をしたっきりだった。
ある意味フィーアの転機になった人だったが、だからこそ今後の身の振り方を考えなければならなくなったのだ。
「もし姫さまのご気分がよろしいようでしたら、一言ご挨拶だけでもされてはいかがかと」
「そうね」
ふさぎこんでいたフィーアを数日間気遣ってくれていた侍女の言葉にフィーアはうなずいた。
フィーアを城に呼び寄せられる原因になった人との付き合いをおろそかにする訳にはいくまい。
「いつ頃お立ちになるの?」
ツァルトの王族はまめに食事で顔を合わせているが朝食時はその限りではなく、今もフィーアは自室で食事をしている。申し訳ないとは思うが、最近見知った家族がいる豪勢な食事よりは病弱設定の王女を気遣ったような質素なメニューの一人の食事の方がフィーアにはよほど気楽だった。
「お早めに昼食を召し上がってからのご出立と聞いております」
「そうなの」
「どうなさいますか?」
「ご挨拶はしたいけれど」
フィーアはためらうように口ごもった。
「……他の誰かがご挨拶するタイミングでご一緒できれば嬉しいけど、急にそんなことを言っても大丈夫かしら」
あの厳重な警戒態勢は不要としか思えなかったが、必要なものであったというのが周囲の共通認識のようだ。それに、そうではなくても慣れない人と一対一で向き合えそうにない。
フィーアの問いかけに、もちろんと侍女はうなずいた。
「そのように計らいますわ!」
張り切ったように言うと、その侍女は同僚たちを集めて何やら指示をする。
潜められた声でだけど衣装はとか、先触れをとか、ぽつりぽつりと聞こえ、一人を残して全員がどこかへと動き出す。
「お昼までは慌ただしくなるかもしれませんが、できる限りお身体にご負担なきよう努めます」
「ありがとう」
「何かございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいませ」
「お任せするわ」
付け焼き刃の王女さまに、あれこれ指示をする余裕なんてあるわけがない。笑顔を意識しながら言ってみせたのに侍女は途端に表情を曇らせる。
「お――お任せするばっかりで悪いとは思うけど、その」
田舎育ちなんだからしかたないと諦めているのはフィーアの事情だけど、さぞ仕え甲斐のない主だろうなという自覚がなくはない。
でも暴虐無人に振る舞うバカよりはましよね、と過去に思いを馳せて自分は誤魔化せても、彼女たちには関係ない。
「姫さまが私たちにすべてお任せくださるのは問題ありません。姫さまが快適に過ごせるよう、心砕くのが務めですから」
侍女はためらいがちに口を開いた。
「みな、姫さまが長く伏せっておられたことを存じております。療養先でどのように過ごされていたかは存じ上げませんが、この城のように人に囲まれておられなかったことも想像ができます」
彼女の憂い顔からはそれが真実が裸足で逃げ出すほどの真っ赤な作り話だとは気付いていないように見えたので一応は安堵しながらも、フィーアは続く言葉を緊張して待った。
「慣れない環境には戸惑われていらっしゃるかもしれませんが、ご要望がございましたら何でもお申し付けください。私たちはそのためにお側にいるのですから」
そして聞こえた言葉があまりに暖かく響いたので、フィーアは目をパチクリとさせた。
「ええと、その、それはその……」
つけている猫がポロリと取れかけていることにも気付かず、フィーアはもごもごと口ごもる。
この数日、侍女たちはフィーアを優しく放置してくれていた。悩んでふさぎこむフィーアを気遣ってはくれたけれど、深く入ってこようとはしてこなかった。
期間限定のことだと信じて疑っていなかったから、最初から彼女たちと深く関わるつもりがフィーアにはなかったので、これまで一定の壁がフィーアと彼女たちの間にはあったのだ。
隠さなければならない秘密があるフィーアには彼女たちと親しくなるための心理的壁が大きかったし、彼女たちにとっても扱いにくいぽっと出の王女なんて厄介なんだろうなとすら思っていたのに、予想外に優しい響きの言葉をもらってしまった。
「もしかして、心配かけていたかしら」
動揺を抑えながら問うと、侍女は遠慮がちに頷いた。
「慣れない人間にお心を明かし難い気持ちはわかるのです。少しずつでも、お気を許していただければ私たちは嬉しいのです。些細なことでも結構ですので、何でもお伝えください」
心配事があったら相談して欲しいと言外に言われた気がして、なんだか面映ゆい。
それが彼女の仕事だからということ以上に親身になってもらえているようで、言える悩みだったらつい相談していたかもと思ったくらいだ。
言えることじゃないわよねと内心苦笑して、フィーアは言外の要望には気付かなかったふりをして笑顔でお礼だけ口にした。