32
フィーアが一人で母の元に行こうと思ったのは、母が国王陛下を避けていると知っているからだ。
勝手に娘を呼び寄せられたと母は未だにぶつぶつと言っている。
国王を拒否する側室など常識からすると信じられないが、そこはそれ。側室である以前に長い時を生きている魔女は無理を大体押し通す。
とはいえ、傍若無人な魔女も世間体というものを理解しているし、それなりに取り繕うことも契約事項に含まれているのか事情の知らぬ他人の前ではきちんと応対しているのをフィーアは毎日のように見ている。
あくまでも庶民上がりの側室らしく慎ましくお上品に国王陛下を持ち上げ、他人の目がなくなった途端それをない存在のように扱う。
フィーア以上に巨大な猫を被った母なんて別人過ぎて、素の母を好いているらしい国王陛下は半端に相手をされてやきもきしているようだ。
だからこそ、一人で聞き出すつもりだったのだが――フィーアは途方に暮れながら、取り繕った様子で前を歩く国王陛下の後ろ姿を追った。
フィーアを離すどころか、巧みにその胸のうちを聞き出した彼はようやっと娘を解放して、「では私もともにゆくぞ!」と勢い込んで歩き出した。
素早い方針転換に追いつけなかったフィーアが待ってと声をかける前に部屋を飛び出す早業で、思わず勢いで追ったのはいいものの今途方に暮れている。
そして有効な対策を思いつけないまま、母の居室にたどり着いた。
娘の戸惑いに気づかないらしい国王は侍女に取り次ぎの言葉をかける。一側室として来訪を拒めるものではないらしく、それは拒否されずにあっさりと二人は室内に招き入れられた。
「ようこそいらっしゃいました」
母が母らしからぬ姿と口調で出迎えの挨拶をし、フィーアは国王と並んでそれを受けた。
フィーアが髪色と衣装ですっかり別人になったように、母ファランティアもそうするとまるで別人のように見える。
国王が人払いを要求すると、ファランティアは応じて侍女に命じている。
そうして室内に三人きりになると、途端に母は不機嫌に鼻を鳴らした。
「不用意にここに訪れない程度には反省していると思ったら、先触れもなしにフィーアを連れてくるとはいいご身分じゃないか?」
「私だって君をさらに怒らせることはしたくなかったとも」
ぎろりと魔女に睨まれても、動じず主張する国王はおそらく強い。
フィーアはあれこれ知っているだけにぶるりと身震いした。
母は、何らかの報酬をもって人のために力をふるうことを仕事としているが、気に入らないことがあればその思うままに力をふるうこともある。
気まぐれで人を害することをやめた方がいいとフィーアは思うのだが、異端であるからこそ萎縮すれば狩られるのだと母は主張する。
魔女ならぬフィーアには、魔女の基準などわからない。だけど、気に入らないことがあれば母が何をするかわからないことはわかる。
最近になって魔女は北方で恐れられ、この国を含む南方ではそうではないと他でもない母に教えられて知ったけれど、それはたまたま南方で魔女の気まぐれが起きなかっただけなのではないかとフィーアはかなり疑っている。
そのたまたまが、永遠に続くとも思えない。
現に今にも怒り狂いそうな魔女が目の前にいるので。
そして怒り狂って国王に手を出せば、たちまち「ツァルトの深き森の魔女は悪い魔女だ」と噂が広がるに違いない。
「だけど!」
フィーアが戦々恐々としているというのに、恐れ知らずに国王はぐっと母に近づいた。
「私がおとなしくしている間にフィーアが城を出ていったらどうする?」
「は?」
ファランティアは国王から身を引きながら、ちらとフィーアを見た。
「そうなのかい?」
意外そうな顔をしている母に、フィーアはゆるりとうなずいた。
「だって、そう遠くないうちにボーゲンシュットの皇太子様も帰るんでしょ?」
いる必要ないよねと続ける前に、
「何故だ!」
大声で国王は叫んだ。
一国の主らしからぬ感情に満ち満ちた叫びだったが、フィーアは慣れたものだ。
国王陛下が対外的には威厳ある言動をできると言うことも見知っているが、さほど長くない付き合いで親しい人間の前では感情表現が豊かだと言うことを十分に理解した。
知りたくもなかったが、その感情表現は特に寵妃に位置づけられるファランティアと、その娘であるフィーアの前では顕著だ、ということも。
もっぱらいつまでもまともに相手をしてくれないファランティアのことをぶつぶつ言うときに使われていた「何故」が今回に限っては自分に向けられていたが、だからといって動揺するほどのことでもない。
「何故イアン殿が帰られたら君までいなくなるという話になる?」
「だって、あの方と会うために私は呼び寄せられたんですよね。当人がいなくなったら私はお役ごめんでしょう?」
至って冷静にフィーアが告げれば、国王陛下は言葉もなくショックを受けたご様子だ。
ごく当たり前の事実を伝えたはずなのに、そんな反応だ。フィーアは若干の戸惑いを覚えて、縋るように母に視線を移した。
「ぶはっ」
そんな娘の視線を受けた母は、あろう事か吹き出した。
身につけた衣装にそぐわない、上品さのかけらもない爆笑。無駄に広い室内に笑い声は大きく響いて、うなだれていたはずの国王はキッと顔を上げた。
「ファラ! 何がおかしい!」
「いやー、おまえさんも報われないねえ!」
国王とは常に一定の距離を保とうとしていたファランティアが、自らその距離を詰めてバシバシと国王の肩を叩いているのでフィーアは驚いた。驚いたのは国王陛下も同じようで一瞬目を見開いた後、なにやら複雑そうな顔になる。
「ようやくあたし達を呼び寄せるネタをそれらしくでっち上げたってのに、用事が済んだ途端娘は帰りたがるだなんて!」
あっはっはと遠慮のない笑いの合間に、ファランティアは目尻に浮かんだ涙を拭っている。綺麗に施された化粧がこすれてもお構いなしだ。
「ファラ――いいや、ファランティア! これは契約違反ではないのか?」
ひょいと自らの肩を叩く手をつまみ上げ、国王陛下はじっとりとファランティアを見た。
「契約違反、ねえ」
ファランティアも国王を見つめ返した。
「先に契約を反故にしたあんたに言われたくない話だ」
ぐっと言葉に詰まる男を見て、魔女は唇の端を持ち上げる。
「あんたとの契約は、そもそもイレギュラーなものにおまけにおまけを重ねた代物だってこと、忘れちゃないだろうね」
捕まれた反対の手をすううと国王の首筋に突きつけて、ファランティアは挑戦的に笑った。
「どれもこれも、あんたの立場を慮ってのことだ」
「だが、契約は契約だ。真っ当に君かフィーアが城に必要だという条件を整えれば、君は城に戻ってくれると確かに言った」
「ああ、その通りだとも」
「だったら!」
「私は再び約定が違えられない限り、おまえと共にいると確かに言った。フィーアのことは、そこまでは言っていないはずだ」
国王は驚きで息を飲み、それを見たファランティアは実に悪い顔で笑った。
獲物が引っかかったのを見た魔女の顔で。
真正面からそれを受けた国王は力なくよろけた。
「なん……そんな……せっかく呼び戻せたと思ったのに!」
「フィーアは娘とはいえ、あたしの所有物じゃない。あたしは悪い魔女ではないからねえ。娘の一生を契約のテーブルに載せたりしないのさ」
悪い魔女ではなくともいい魔女ではなさそうなニヤニヤ顔でファランティアは言ってのける。
「これからこれまでの分もかわいがってかわいがってそれはもう可愛がるつもりだったのに……」
「老婆心ながら忠告するが、それで懐柔されるような娘じゃないし、嫌がられて終わるよ?」
うなだれながらぼやく国王を呆れ果てたような顔で見て、ファランティアは肩をすくめる。
「あたし一人じゃ不満かい?」
未だ捕まれたままの手を強引に引き寄せてぎろりと国王を睨み上げての発言に、慌てたように国王は首を横に振った。
「いや、いいや、君がいてくれるだけでも満足だが!」
口早に言いつつも、国王はちらりとフィーアを振り返った。
痴話喧嘩の様相を呈してきた母と国王のやりとりを何ともいえない心地で見守っていたフィーアはびくりとするが、国王陛下は気付かぬそぶりで母に向き直って改めて彼女の両手をそうっと掴みあげる。
「だけど、フィーアは私の大事な大事な大事な大事な一人娘だ。手元に置いて愛でたいじゃないか」
「ばっかだねえ、あんた。フィーアはもう十六だよ。今更父親が出てきたって容易く受け入れられる年じゃないよ」
ファランティアは緩やかな拘束をそっとほどき、冷ややかに指摘する。
思わずその通りとフィーアはうなずいたが、娘を視界に入れている母でさえそれに気付いた様子はなかった。フィーアに背を向ける国王も、当然気付かない。
「そんな! 私だって好きで離れていたわけではないのに」
「離れる羽目になったのは自分が原因だということを忘れられちゃ困るね」
痛いところを突かれたように国王は息を飲み、ファランティアはにやにやとその様子を眺めた。
幾度か口を開こうとする様子を見せたが、分が悪いと見てとったのか国王は結局は何も言わない。
「ふふん」
それを見るファランティアは満足げだ。
「見苦しい言い訳をしない点を評価してやろうじゃないか、エドウィン」
フィーアの知る限り、はじめて母は国王陛下の名前を呼んだ。何しろフィーアが国王陛下の名前を聞いたのは初めてだ。
目の前の国王の肩がびくりと揺れた。
「ファラ……」
「契約違反は腹立たしかったが、お前が為政者としてそうせざるを得なかったという事情はわからんでもない」
そしてファランティアは国王の後ろで居心地悪く経緯を見守っていた娘に視線を移した。
「フィーア、お前も馬鹿じゃないからこれがお前に過剰に愛情を持っているのは理解してるね?」
「うん、まあ、なんとなく?」
真正面から認めるのもシャクなので曖昧に笑うと、振り返って期待に満ちた眼差しをフィーアに向けていた国王は期待外れだった様子だ。
「十年以上も私を納得させる帰還理由をでっち上げられなかった上に、不意打ちでお前を呼び寄せるような男だが、お前の父親だ。環境が変わりすぎて落ち着かないだろうが、居心地は悪くてももう少しくらいいてやったらどうだい?」
すぐには返事が出来ない娘の様子に、ファランティアは口の端を持ち上げる。
「ま、即断はできないだろうね。だけど、あたしがここにいなければならない以上、お前だけ帰っても生活はできないだろ?」
予想外の母の指摘にフィーアは思わず頷いた。
(母さんがいない?)
頭の中で受け取った情報を繰り返して、遅れて呆然とする。
それは、全く予想していなかったことだ。娘の目から見た母は、気まぐれ気ままで一つところに落ち着くことが想像できない人だ。
この国に一応は居を構えているのだって、拠点がなければ依頼を受けるのに不便だと思っているくらいだろう。
居心地が悪くなければすぐに他の地に移るんだろうなあということも、なんとなく理解しているつもりだった。
フィーアはその母の家に、今のところは住んでいる。いつか独り立ちをしなければならないことは理解していたつもりだけど、それはまだ先のはずだった。
買い出しがてら寄った幼馴染の家で、あれこれ想像を巡らせたこともあるがちっとも現実的にならないうちに終わるのが常だった。
後ろ向きなフィーアと前向きな夢想家の幼馴染のマリーは、仲が良いのだがそういう点で思考が全く擦り合わない。
二人で大きな街に働きに出てもいいねえ、なんて話になればフィーアは「でも魔女の娘だとばれたら冷遇されるかも」とことが起こる前から心配を始め、マリーは「お忍びでやってきた王子様が私を見初めてくれるかも!」とありもしないような空想に胸をときめかせるので。
フィーアにとって産み育ててくれた母は大切な人だし唯一の血縁なので――今となると過剰な愛情を注いでくれる父親などがいるわけだが――遠く離れることには抵抗があり、近場で独り立ちをとなると魔女の娘のレッテルがどうしても外れそうにない気がするのもあってズルズルと結論を先延ばしにしてきた。
考える時間はたっぷりとあるはずだった。
気が短いところのある母だが、役に立つフィーアをそれなりに重宝しているようで「いつまでも親のすねをかじって」と言いそうな気配が感じられなかったからだ。
まだあとしばらくは、忙しくあちこちに仕事に出る母を見送って家を守るつもりだったのに。
「行く末を定めるまで、しばらくいてやったらどうだい?」
フィーアの同様につけ込むような母の言葉は、きっと魔女の悪しきささやきだ。自宅に戻っても生活を維持する当てのないフィーアに逃れがたい誘惑を与えてくる。
言葉に詰まったフィーアは母から視線をそらしたが、結果として国王陛下を視界に収めてしまう。
「ちょっと、考えてみる……」
静かに経緯を見守っていた父親であるその人があまりに期待に満ちた顔でいたので、フィーアはとりあえずはそう言って誤魔化すことにした。