22
さて、フィーアが王宮に来る原因となる人物の訪問予定がはっきりしたならば、それなりの準備というものがある。
正式な訪問日が決まるはるか前にフィーアが呼ばれたのは、まずは環境に慣れさせるためだったのだろう。
自分に断りもなく娘を連れて来られたファランティアはおかんむりで、国王陛下とは没交渉らしい。父は政務を放り出して娘と交流しに来てはそのことを嘆いている。対する母と言えば、顔を見せた折りに筋を通さなかったことの代償は必要だとかなんだとか言っていた。
その代償がなんなのかは、とりあえず聞く気はない。会わないことがそれなのかなと思いついて複雑な気持ちにはなったが。
それはさておき。
準備が必要とは言っても、病弱で長く城を離れていた姫君に求められるものが多くないことはフィーアにとって幸いだった。かの王太子殿下は公式には真っ向から王女に会ってみたいなどとは言わずに、名目上は外交の材料を抱えて訪れるそうだ。
歓待のための夜会も開催されるそうだが、出席義務はないと聞いたときは胸をなで下ろした。
そういう貴族さまの集まりにはろくな思い出のないフィーアである。どこかおかしいこの国では心配の必要はないかもしれないが、たとえ歓迎されてもダンスなんぞ踊れる気がしない。病弱な姫は踊る必要もないかもしれないけれど。
ボーゲンシュットの王太子殿下とは、お茶会で顔を合わせる予定だ。
フィーアに課せられたのは、たったの二つだった。
ただでさえ人に世話を焼いてもらうのに慣れない身なのに、よってたかって体を磨かれることがひとつめ。
森から出た直後にアデレイドにされた時よりもなお羞恥心のあおられることを日々こなされ、見慣れない髪色と相まってもはや別人の様相をしてきているのでフィーアは最近恐ろしくて鏡がのぞけないほどだ。
髪色が戻っても果たして自分だとわかってもらえるだろうかと遠い目でつい考え、浮かんだマリーの反応を想像してげんなりする。
(マリーなら、この状況をうらやましがって話にならないだけよね)
すっかり別人に見えようがなんだろうが関係ないであろう幼なじみの反応は救いなのか判断に迷うところが微妙だ。
それはさておき、ふたつめは行儀作法の復習だ。
付け刃の姫さまの振りは、フィーアの予想以上にうまくいっている。それは病弱な王女さまが面会する人間がごくごく限られているというのが一番の理由であって、フィーアの振る舞いに問題がないというわけではないということなのだろう。
アルトベルンが神妙な顔でもって行儀作法の復習の必要性を説いた時、フィーアはすぐさまそう悟った。
「他国の重鎮に対して慎重に期するに越したことはありませんので」
フィーアの心を読んだわけでもないだろうが、彼はすぐに取り繕うように言葉を続ける。
「姫さまの作法については、アデレイドがすでに太鼓判を押しております。それでも、それを知らない一部の者から心配の声が上がったのです。これまで姫さまは社交場にお見えになったことがございませんから」
「まあ実際その不安は当然だと思うわ」
フィーアは素直にうなずいた。実際、自分自身が不安なのだから間違いない。
「姫さまが不安を感じる必要はございません」
一番フィーアの素の振る舞いを知っているはずのアルトベルンがやけに力強く否定してきたのでフィーアは驚いた。
「あーえー、えーと、アルト?」
「なんでしょう?」
「何でそうきっぱり言えるの?」
最初に行儀作法について語った時は、彼は見るからに何か不安か不満かそれに類する何かを感じていそうな顔だと思った、とまではさすがに言えない。大体、アルトベルンは真顔の時が多すぎて多少慣れても判別しがたいのだ。
言葉少ない問いかけに返答は、迷ったのかすぐには返ってこない。だが、気詰まりに思うほどの沈黙もなくアルトベルンはフィーアの疑問に答えた。
「そう、ですね……まず、かの国と我が国は良好な関係にあることがひとつ。王太子殿下と王妃さまは血縁関係にありますので、なおのことです。あちらも、病気がちで社交界に姿を見せることのなかった姫さまをわがままで引っ張り出した負い目を感じているかと思います」
よほど厚顔無恥の方であるなら話は別ですが。ボソリと続く一言が、何か怖い。
「まして、女好きの方ですから、女性の揚げ足を取るようなことはなさらないでしょう。ええ、姫さまの揚げ足を取るような、そんな恥知らずな行いをするようなことは決して」
「そ、そーですか。そうアルトに言ってもらえると安心だわああ」
フィーアが乾いた声で相づちを打つと、アルトベルンは居住まいを正した。
「問題は、姫さまの振る舞いよりもあちらの行動でしょう。いくら口では、一度姫さまの顔を拝見したいだけだと言っていても、実際会ってしまえば何をしてくるか」
「……ええと。そんなにボーゲンシュットの王子さまは、女好きなの?」
いつも通りの真顔で、アルトベルンは重々しくうなずいた。
「そうは言っても、あちらにもお好みがあるでしょー? それにわざわざ他国の王女に手を出すことはないと思うけど」
「なにをおっしゃいますか!」
くわっと目を見開いたアルトベルンが拳を握りしめる勢いで主張したので、フィーアは思わず後ずさった。
日頃表情の動きが少ない人間の感情露出は心臓に悪い。ついうっかり「どうどう」と声をかけたがそれでも収まらない様子で、アルトベルンは何かをこらえるかのように拳を握ったり開いたりしている。
「だ、だってさー。無駄に王族の肩書き持ってるか弱い女に手を出して、何か問題が起きたら国際問題でしょ? いくら現在良好な間柄でもころっと変わっちゃうかもしれないじゃないの」
何となく怖いので少しでもなだめようと、思わずフィーアもらしくなく前向きな発言をしてしまう。
いくら後ろ向きでも男が女に手を出しちゃう何かを想像したくはないフィーアである。男への免疫がほとんどないので、未知の領域なのだ。
母が開けっぴろげな魔女なので知識だけは詰め込まれているのだが、その知識の扉を開きたくないというのがより正しい。
「それはそうなのですが」
一応は落ち着いたらしきアルトベルンが含みのある口ぶりで呟くので、フィーアは顔をひきつらせる。
「なに、そこまで危険な女好きなの? 自分は好きだけどモテないから、体の弱い相手なら思うままにできるぜとか言って暴走しそうなタイプ?」
「いえ、大変容色に優れておられますし、優秀な方ですから相手にお困りではありませんよ。正室はいらっしゃらないものの、すでに十人もの側室がいらっしゃるというのに、一夜限りのお相手も数多いそうです。大国の次期国王としては、後継を残すことも重要なことですから必ずしもそれが悪いとは申せませんが……」
「じゃあ、わざわざ面倒なのに手を出す心配はないじゃない」
安心してフィーアが言うと、何故だかアルトベルンは嘆息した。
「今回の場合、問題は姫さまです」
前言を覆すようなことを口にすると、どういうことかと不審に眉根を寄せるフィーアにアルトベルンは神妙な顔で「よいですか」と切り出す。
「貴女はご自分のことがわかってらっしゃらない」
そしてなにを言うかと思いきや、そんな言葉だ。
「どういうことよ」
フィーアは唇をとがらせてアルトベルンを睨んだ。
「だいたいどういうことか想像はつくけどさ!」
渾身の一睨みも、当然のように彼に痛みを与えないようだった。毛ほども動じずに、アルトベルンはフィーアの言葉を否定するように首を横に振る。
フィーアはむっとして、ふんと彼から顔を逸らした。
「悪かったわね、自分のことがわかってなくて。こっちは記憶もないのにいきなり実は王女だなんて言われて、混乱してるわよ。ええええ、自分の本当の髪の色さえ知りませんでしたし?」
言い募れば我が身の不確かさに泣きたいような気分になった。もちろんそんな弱みを人に見せる真似はしない。フィーアはぐっと唇を噛んでこらえると、感情を抑えるようにふーっと息を吐いた。
「なにを信じていいのかわからないような人間はそりゃあ自分のことがわかってないでしょうよ。で? それが? 何の問題になるわけよ」
悔しいので顔を逸らしたまま促しても、アルトベルンはすぐには反応しなかった。
沈黙に耐えかねて目線だけ向けると、苦虫を噛み潰したような何とも言い難い顔をして固まっている。
(いい気味だわ)
自分のやけっぱちの言葉に少しは痛みを感じたらしいことに溜飲を下げて、フィーアはにんまりとする。
「ほら言ってみてよー。短期間じゃどうにもならないかもしれないけど、私だってよその国の王族の何人めかの妃になるなんてまっぴらだから努力するふりくらいするわよ?」
別に心配いらないわよねというのが本音だが、念には念を入れるとなお良いだろう。そう思ったのだが、無情にもアルトベルンは無理ですとばかりに首を振る。
なおかつ、またしても大げさに嘆息した。