10
まず、ほぼ同時に大きな声が耳を打った。
いくつかは「陛下」という咎めるような声。その中に一つだけ、フィーアの名を呼ぶ声が混じっている。
おそらくは、そのただ一つの声の主が後ろからぎゅうと自分を抱きしめている。
何がなんだかよくわからなくてフィーアは混乱した。
力強い男性の手がぐいぐいと遠慮もなく抱きついてきていて、なんだか呼吸が苦しい。周囲がざわめく声もろくに耳に入らなかった。
「失礼いたします」
フィーアが我に返れたのは、口ぶりだけは丁寧でありながら強引に騎士が男を引っぺがしてくれたあとだった。
「何をするアルトベルン」
呼吸を整えながら振り返ると、上等な衣服に身を包んだ男が彼に抗議をしているところだった。騎士――アルトベルンは眉間にしわを寄せてその男を半ば睨むようにしている。
「それはこちらの言葉です、陛下。執務はどうなさったのですか」
「合間に休憩くらい必要だろう!」
「軽々とこちらにお越しになる理由には足りません。本日なぜ王妃さまが男子禁制のお茶会を催されたか、理由はご存知でしょう」
「だからこそ来たかったのだと何故わからぬ?」
陛下とこの国で呼ばれるのは、国王ただ一人のはずだ。その男に遠慮なく口をきく配下のはずのアルトベルンもどうかと思うが、まるで子供のような態度で駄々をこねる男もどうだろう。
フィーアは国王の年齢を知らないが、いくら若く見積もってもアルトベルンと親子程度には離れていると思われる。若い頃は精悍だったであろう顔にはいくらかのしわが見え、印象を少々やわらげていたが、涼やかな色合いの青い瞳が強い光を宿してアルトベルンを睨んでいた。
国の最高権力者にも動じない騎士は引く気配を見せない。
「一番の問題は年頃の姫さまを軽々しく抱擁なさったことです」
「父が娘にそうして何が悪いのだ」
「突然背後から抱きしめられた姫さまのお気持ちをお察しください」
ようやく国王は何か悟ることがあったらしい。気まずげな視線がゆっくりとフィーアを視界に収める。
同時にフィーアも抱きつかれた時に手がきわどい位置にあったことを思い起こした。そこまで切実な位置ではなかったが、仮に本当に国王がフィーアの父だとしても年頃の娘には十分に恥ずかしい。
国王も続く言葉がないようだが、フィーアとて何を言ってもいいかわからない。
「アルトベルンの言うとおりですね」
「サリアナ」
情けない声で自らの名を呼ぶ夫を冷たく見据えて、王妃はしっしとばかりに手を振った。
「フィーアの顔も見たのですから、すぐに執務に戻ってください。あなたがここに来られたら、何のために複雑な手順を踏んだかわからなくなります」
「だ、だが……」
「まだファラの許可を得たわけじゃないこと、よもやお忘れではないでしょうね?」
再び国王は言葉を失って、ぐっと詰まった。そしてじりじりと後ずさるように後退して、「戻る」と意気消沈したことが丸わかりの声で呟く。
「その、私が軽率だったよフィーア。悪気はなかったのだ。後でこの詫びは十全にするので、許してほしい」
「はあ」
フィーアの生返事に満足そうにうなずいて、国王は来た時よりは静かに去って行った。
それを見送ったアルトベルンがすっと頭を垂れる。
「申し訳ございません、扉を守っておりながら陛下をお通しすることになってしまいまして」
「構いません。きっとノックも忘れる勢いで陛下がやって来られたのでしょう。貴人に対して咄嗟に反応が遅れても仕方がありません――が、次はありませんよ」
「承知しております」
神妙な声色でアルトベルンは王妃に答えた。