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三話目

開いてくれてありがとうございます。蓮翠です。

今回も都合上、8500字程度とかなり長くなりましたが、通勤や通学中、暇な時にでも最後まで読んでいってくれると嬉しいです。

よろしくお願いします。

 放課後の図書室は、世界から切り離された静寂の海に似ている。

 分厚い防音扉の向こう側では、運動部員たちの活気に満ちた叫び声や、吹奏楽部の不揃いな楽器の音が響いているはずなのに、この部屋の中には一切届かない。ただ、古い紙とインクが発する特有の、少し甘くて埃っぽい匂いだけが、琥珀色に染まり始めた西日の中に漂っている。

 無数に立ち並ぶ書架(しょか)は、まるで迷宮の壁のように整然と連なり、その一つ一つに何千、何万という人々の思考や空想が眠っている。誰かの人生、誰かの悲しみ、誰かの喜び。それらが背表紙という名前の墓標を掲げ、静かに息を潜めているこの空間を、結城紬は心から愛していた。

 窓際の、一番端にある閲覧席。それが紬の指定席だった。

 木製の重厚な机には、長年使い込まれたことによる無数の傷が刻まれており、その一つ一つを指先でなぞるたび、自分と同じようにここで時間を過ごした見知らぬ誰かの体温を感じるような気がした。

 紬は、いつものように薄手のカーディガンを羽織り、膝の上で小さなノートを開いていた。

 今日の体調は悪くない。朝から感じていた胸の奥の微かな重みも、今はすっかり影を潜め、規則正しい静かなリズムで心臓が血を送り出しているのを感じる。深く息を吸い込むと、肺の奥まで冷たい空気が届き、それがじんわりと体温に変わっていく感覚があった。


「……ふう」


 小さく息を吐き出し、紬はシャーペンの芯を繰り出した。

 真っ白な紙面を見つめる。そこに浮かび上がってくるのは、昨日グラウンドで見た、あの圧倒的な光景だった。


 ――瀬野陽向の走る姿。


 重力を置き去りにし、空気を切り裂き、ただ真っ直ぐに前だけを見据えて加速していくあの姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。彼が地面を蹴るたびに舞い上がった土煙、風を孕んで膨らんだジャージ、そして、限界まで酸素を求めて上下する胸の動き。

 それらすべてが、紬にとっては「生きている」ことの最も美しい証明に思えた。


 自分には決して手の届かない世界。

 少し走っただけで息が詰まり、視界が白く明滅し、冷たいベッドの上で点滴の管に繋がれることになる自分とは、根本的に作られている細胞の構造からして違うのではないかとすら思える。

 けれど、彼を見ていると、不思議と嫉妬や悲しみは湧いてこなかった。

 ただ純粋な憧憬と、彼が自分の代わりに世界を自由に駆け回ってくれているような、奇妙な安堵感があったのだ。



『光は、決して立ち止まらない。常に前へ、昨日よりも遠くへ。私はその軌跡を、この特等席からずっと見つめていたい』



 ノートにそう書き付けた時、ふと、去年の春の記憶が紬の脳裏に蘇ってきた。


 高校に入学して、まだ一ヶ月も経っていない頃のことだった。

 奇跡的に症状が安定し、念願の高校生活をスタートさせたものの、やはり普通に登校するだけでも紬の体には相当な負担がかかっていた。その日は特に息苦しさが強く、体育の授業を見学した後、教室に戻るのが辛くて、人のいない中庭のベンチで一人、休んでいた。

 

 春の風が桜の散り際を撫で、薄紅色の花びらが雪のように舞い散る午後だった。

 そこに、彼――瀬野陽向が現れたのだ。

 彼は今のようにグラウンドを風のように駆け抜けるエースの顔ではなく、ひどく思い詰めた、今にも泣き出しそうな暗い顔をして、紬の座るベンチの少し離れた場所に腰を下ろした。

 彼の手には、使い込まれた陸上用のスパイクが握られていた。

 彼はそのスパイクを、憎むような、それでいてすがるような目でじっと見つめ、やがて深く、重いため息をついた。

 その時の彼がどれほどの絶望を抱えていたのか、当時の紬には知る由もなかった。後になって、彼が中学時代に全国大会に出場するほどの実力者でありながら、高校に入ってから深刻なスランプに陥り、記録が伸びずに陸上を辞めようとまで思い詰めていたことを知った。

 ただ、その時の紬の目には、彼が放つ圧倒的な「生への渇望」と、それが上手く機能しないことへの「苛立ち」が、痛いほどに伝わってきたのだ。

 まるで、かつての自分を見ているようだった。

 走りたいのに走れない。自分の体が自分の思い通りにならないもどかしさ。

 紬は、気がつくと彼に向かって声をかけていた。


『あの……』


 か細い声だった。春の風にかき消されてしまいそうなほどに。

 それでも、陽向は顔を上げ、驚いたように紬を見た。その目は、少しだけ赤く充血していた。


『……なんだよ』


 警戒心もあらわに、彼は低く唸るように返事をした。無理もない。見知らぬ女子生徒に突然声をかけられたのだから。


『ごめんなさい。でも……走るの、やめちゃうんですか?』


 自分でも驚くほど、真っ直ぐな言葉だった。陽向は眉をひそめ、さらに険しい顔になった。


『お前には関係ないだろ。……もう、俺は走れないんだよ。足が、前に進まないんだ』


 自嘲するように鼻で笑い、彼は再びスパイクに視線を落とした。その背中は、見ているこちらが苦しくなるほど小さく丸まっていた。


 紬は、膝の上のノートをぎゅっと握りしめた。

 病気で走れない自分と、才能がありながら心が折れて走れなくなっている彼。状況は全く違う。健康な彼に対して、病人の自分が何を言えるというのだろう。傲慢に思われるかもしれない。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 入学式の翌日、部活動紹介で見た彼の走りが、あまりにも美しかったから。


『私、あなたの走る姿、すごく綺麗だなって思いました』


 陽向の肩が、ビクッと震えた。


『速いだけじゃなくて……なんだか、見ているとこちらまで胸が熱くなるような、そんな走りでした。だから……』


 紬は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。


『今は立ち止まっているかもしれないけれど、その立ち止まっている時間も、きっと次の一歩をより遠くへ踏み出すための、長い長い助走なんだって、私は思います』


 長い助走。

 その言葉を聞いた瞬間、陽向は顔を弾かれたように上げ、紬を真っ直ぐに見つめた。

 その時の彼の瞳の奥で、小さな火種がパチッと音を立てて燃え上がったのを、紬は確かに見た。

 それから彼は何も言わず、ただじっと紬の顔を見つめ返し、やがて無言で立ち上がって、スパイクを強く握りしめたまま中庭を去っていった。

 それが、紬と陽向の「本当の」出会いだった。


「……懐かしいな」


 紬は図書室の窓の外を見つめながら、小さく独りごちた。

 あの日から一年。彼はスランプを見事に乗り越え、今や陸上部のエースとして誰もが認める存在になった。彼がグラウンドを走るたびに、あの中庭での出来事が、まるで自分自身の誇りのように胸の奥を温かく満たしてくれる。

 彼はきっと、私の言葉なんて忘れてしまっているだろうけれど。

 それでいい。彼が今日も明日も、あの眩しい光の中で走り続けてくれるなら、それ以上のことは何も望まない。


 ギィッ、と、図書室の重厚なオーク材の扉が開く音がした。

 静寂の空間に、場違いな足音が響く。

 図書室にいる生徒たちの多くは、足音を忍ばせて歩くことを暗黙の了解としている。しかし、その足音は違った。スニーカーの靴底がリノリウムの床をしっかりと捉え、体重を真っ直ぐに乗せて歩く、力強く規則正しい足音。

 それは、生命力そのものが歩いてくるような音だった。

 紬は無意識に顔を上げた。

 書架の陰から現れたのは、第一ボタンを開けた見慣れた制服姿の男子生徒だった。

 瀬野陽向だ。

 日焼けした肌、少し癖のある黒髪、そして意志の強そうな真っ直ぐな瞳。彼は図書室特有の静けさに少し戸惑ったように周囲を見渡し、やがてカウンターの奥で作業をしている栞の姿を認めると、軽く会釈をした。栞は驚いたように目を丸くしたが、すぐに表情を戻し、顎で窓際の席をしゃくった。

 陽向の視線が、栞の指示に従って窓際へと向けられる。

 そして、紬と目が合った。

 ドクン、と、紬の心臓がいつもより少しだけ大きく跳ねた。

 彼は迷うことなく、真っ直ぐに紬のいる席へと歩いてきた。その歩みの一歩一歩が、紬の心の中の波紋を広げていく。

 どうして、彼がここに?

 運動部である彼が放課後の図書室に現れるなど、今まで一度も見たことがない。親友の藤原樹になら「漫画でも探しに来たのかな」と思えるが、ストイックな陽向が練習前にここへ来る理由は見当がつかなかった。

 陽向は紬の席の正面に立つと、少しだけ気まずそうに首の後ろをかいた。


「よっ」


 低く、少しハスキーな声。

 それは、春の風のように優しく、紬の鼓膜を震わせた。


「……瀬野くん。どうしたの、図書室なんて。珍しいね」


 紬は動揺を隠すように、できるだけ普段通りの、穏やかな笑顔を作って見せた。

 陽向は、ドカッと音を立てないように気をつけながら、紬の向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。机の上に置かれた大きな手が、ひどく男らしくて、紬は思わず視線を逸らしてしまった。


「ああ、ちょっと探し物があってさ。樹のやつが、スポーツのメンタルトレーニングとか筋肉の構造について書かれた本が、ここにあったはずだって言うから来てみたんだけど……」


 彼はそう言って、書架の方を恨めしそうに睨んだ。


「全然見つかんねえ。活字が多すぎて、目がチカチカする」


 そのぶっきらぼうな言い回しが彼らしくて、紬は思わずクスッと笑ってしまった。


「ふふっ。樹くんの言うことだもん、適当かもしれないよ。でも、スポーツ関連の本なら、入って右手の奥の、7番の棚にあるはずだよ」


「マジか。お前、よく知ってんな」


「うん。栞ちゃんが図書委員だから、ここにはよく来るし。それに、私、本を読むのが好きだから」


 陽向は「へえ」と感心したような声を出し、それから、紬の手元にあるノートへと視線を落とした。


「それ。お前、いっつも何か書いてるよな」


 不意に指摘され、紬はハッとしてノートを手で隠した。ほんの数分前まで彼のことを書いていたのだから、見られるわけにはいかない。


 「あ、うん……。これは、ただの日記みたいなものだから。大したことは書いてないよ」


 焦ったように言う紬を見て、陽向は特に追求するでもなく、「ふーん」とだけ言って窓の外へ視線を向けた。

 沈黙が落ちる。

 図書室の静けさが、二人を包み込む。

 普段の教室の喧騒の中では、樹や栞が間にいてくれるおかげで自然に話せるが、こうして面と向かって二人きりになるのは、去年の春のあの日以来だった。

 どうしよう、何か話さなきゃ。

 紬の頭の中で、様々な話題が浮かんでは消えていく。今日の授業のこと、もうすぐ行われる体育祭のこと、最近読んだ本のこと。

 しかし、そのどれもが今のこの空気にはそぐわない気がして、言葉を飲み込んでしまう。

 陽向の横顔を見つめる。

 窓から差し込む西日が、彼の整った鼻筋に美しい陰影を作っていた。長いまつ毛が瞬きをするたびに、金色の光を弾いている。彼の周りだけ、時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥った。


「……あのさ」


 沈黙を破ったのは、陽向の方だった。

 彼は窓の外から視線を戻し、真っ直ぐに紬の目を見つめた。その瞳の奥には、グラウンドのスタートラインに立つ時と同じ、一切の妥協を許さない真剣な光が宿っていた。


「ん?」


 紬は、心臓の音を彼に聞かれないように、そっと息を詰めた。


「昨日、グラウンドにいただろ。藤棚の下のベンチ」


「……うん。体育の見学から、そのまま少し風に当たってて」


「見てたか。俺の走り」


 唐突な問いかけに、紬は一瞬言葉に詰まった。

 見ていたも何も、まばたきすら惜しいほどに、彼の一挙手一投足を見つめていた。その姿をノートに書き留め、今もこうして思い出しては胸を焦がしていたのだ。


「……見てたよ」


 紬は、正直に頷いた。


「すごく、綺麗だった」


 綺麗。

 その言葉を聞いた瞬間、陽向の目がわずかに見開かれた。彼は困ったように眉を寄せ、再び首の後ろをガシガシと掻いた。


「綺麗って……男の走りに言う言葉じゃねえだろ。普通は『速い』とか『力強い』とかさ」


「ううん、綺麗だったの。速いとかちからづよいのはもちろんだけど、なんだか、瀬野くんが走っている姿を見ていると、命が燃えているみたいで……。目が離せなかった」


 紬の言葉には、一片の嘘もなかった。

 飾ることも、照れ隠しをすることもなく、自分の心の中にある純粋な感情をそのまま言葉にして届けた。

 陽向は、紬のその真っ直ぐな視線を受け止め、少しだけ顔を赤らめた。日焼けした肌の上からでもわかるほどに、彼の頬に血が上っている。不器用で真っ直ぐな彼だからこそ、こうしたストレートな称賛には免疫がないのだろう。


「……っそ。お前にそう言われると、なんだか調子狂うな」


 彼は視線を机の上の木目へと落とし、ぽつりと呟いた。


「……去年の春も、お前、同じこと言ったよな」


 その言葉に、紬はハッと息を飲んだ。


「覚えて……くれてたの?」


「忘れるわけないだろ」


 陽向は顔を上げ、再び紬を見た。その目には、感謝と、そして言葉にできない熱い感情が渦巻いているように見えた。


「俺、あの時マジで陸上辞めようと思ってたんだ。中学の時のタイムがどうしても超えられなくて、足首の怪我も長引いてて。周りの期待ばっかり大きくて、それに押し潰されそうで……。もう、走るのが苦しくて仕方なかった」


 陽向の口から語られる過去の苦悩は、紬の想像以上に深いものだった。

 常に自信に満ち溢れ、前だけを見て走っているように見える彼にも、立ち止まり、うずくまり、暗闇の中で足掻いていた時期があったのだ。


「でも、お前が言ったんだ。『立ち止まっている時間も、次の一歩を踏み出すための長い助走なんだ』って。……あの言葉が、どれだけ俺を救ってくれたか、お前は知らないだろ」


 陽向の言葉が、図書室の静寂の中に、深く、重く響き渡った。


「あの言葉を聞いた時、俺の中の何かが吹っ切れたんだ。ああ、そうか。俺は今、とてつもなく長い助走をつけてるだけなんだって。この苦しい時間も、無駄じゃないんだって。そう思えたら、不思議と足が軽くなった」


 陽向は、机の上に置かれた自分の手を強く握りしめた。


「だから……俺が今走れてるのは、お前のおかげなんだよ。結城」


 真っ直ぐな、混じり気のない感謝の言葉。

 紬は、胸の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲むのを感じた。

 私のような、ただ病気で動けないだけの人間が。

 彼の人生に、そんなにも大きな光を落としていたなんて。

 誰かに気を遣わせることばかりで、誰かのために何かをしてあげられることなんて何一つないと、心のどこかで諦めていた。自分の存在は、ただ周囲から優しさを搾取するだけのものだと思っていた。

 ――けれど、違った。

 私の言葉が、彼を走らせた。

 私が紡いだちっぽけな言葉が、彼の背中を押し、あの圧倒的な命の躍動を生み出す原動力の一つになっていたのだ。


「……そんなこと、ないよ」


 紬は、震える声で答えた。涙がこぼれないように、必死にまばたきを繰り返す。


「瀬野くんが走れたのは、瀬野くん自身の力だよ。瀬野くんが諦めなかったから、走れたんだよ。私なんて、ただ思ったことを口にしただけで――」


「いいや、違うね」


 陽向は、紬の言葉を強い口調で遮った。


「誰がなんと言おうと、俺にとっては、あの時のお前の言葉がすべてだった。だから、ずっとちゃんとお礼を言いたかったんだ。……遅くなって、ごめんな」


 陽向は少しだけ照れくさそうに笑った。

 その笑顔は、教室で見せるフラットなものとも、グラウンドで見せる鋭いものとも違う。ただの一人の少年としての、無防備で優しい笑顔だった。

 紬は、もう我慢できなかった。

 ノートの上に落ちた一滴の涙が、紙に丸い染みを作った。


「っ……」


 慌ててカーディガンの袖で目元を拭う。

 泣いてはいけない。彼を困らせてしまう。

 そう思うのに、一度溢れ出した感情は、止まることを知らなかった。

 嬉しかったのだ。

 自分の存在が、誰かの明日を繋ぐ力になれたことが。

 いずれ消えてなくなるだけの自分の命が、彼という強烈な光のそばで、確かな意味を持っていたことが。


「おい、大丈夫か?」


 陽向が慌てて立ち上がり、身を乗り出した。彼の大きな手が、戸惑うように宙をさまよっている。


「ごめ、んなさい……違うの、悲しいんじゃなくて……」


 紬は必死に声を絞り出し、笑顔を作ろうとしたが、上手くいかなかった。


「……無理に笑うなよ」


 陽向の声が、一段と優しくなった。


「お前、いつもそうやって、誰にでもニコニコしてっけどさ。……苦しい時は苦しいって、泣きたい時は泣きたいって、言えばいいだろ」


 その言葉は、紬の心の最も深い部分にある、分厚い壁をいともたやすく叩き壊した。

 親友の栞にすら、母の咲良にすら、決して見せたことのない、結城紬の本当の脆さ。

 病気を受け入れ、冷静に自分の死を見つめているふりをしながら、本当は誰よりも生きたいと願い、誰よりも死を恐れている、弱い自分。

 彼には、それが見透かされているような気がした。


「……っ、ぐす……」


 紬はついに堪えきれず、机に突っ伏して、声を殺して泣き始めた。

 陽向は何も言わなかった。

 慰めの言葉をかけるでもなく、困惑して逃げ出すでもなく、ただそこに立ち、紬の震える背中を静かに見守っていた。

 図書室の静寂が、二人の間にある不器用な距離感を、優しく包み込んでいる。


 カウンターの奥。

 返却された本をカートに積んでいた栞は、その光景を本棚の隙間からじっと見つめていた。

 彼女の銀縁の眼鏡の奥の瞳には、複雑な色が浮かんでいた。

 紬が泣いている。

 いつも自分の感情を押し殺し、周囲の空気を濁すまいと無理をして笑い続けてきたあの紬が、瀬野陽向という男子生徒の前で、あんなにも無防備に感情を露わにしている。

 それは、親友としては喜ぶべきことなのだろう。

 紬の心を縛り付けていた鎖を、彼が解き放ってくれたのだから。

 しかし、栞の優れた頭脳は、同時に残酷な未来のシミュレーションを弾き出していた。

 感情の起伏は、心臓への負担を意味する。

 そして何より、人と深く結びつくことは、いずれ訪れる「別れ」の痛みを、想像を絶するほどに深く、鋭いものにしてしまう。

 彼らはまだ知らないのだ。

 紬の病状が、決して「普通の恋愛」を許容するほど穏やかなものではないということを。

 瀬野陽向は、真っ直ぐすぎる。

 紬は、優しすぎる。

 二人の魂が惹かれ合うのは必然のように思えるが、その終着点には、取り返しのつかない喪失が待っている。


(……残酷な世界ね)


 栞は心の中で毒づきながら、手に持っていたハードカバーの本を、音を立てずに棚へと押し込んだ。

 今はただ、見守るしかない。

 紬が自分から選んだ光なのだから。


 やがて、紬の泣き声が徐々に収まってきた。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、赤くなった目元をもう一度袖で拭った。


「……ごめんなさい。変だよね、急に泣き出したりして」


「別に。変じゃねえよ」


 陽向は再び椅子に座り、何事もなかったかのように窓の外へ視線を向けた。そのさりげない気遣いが、たまらなく嬉しかった。

 遠くから、陸上部のグラウンドに集合をかけるホイッスルの音が聞こえてきた。


「やべ、そろそろ部活行かねえと。先輩にシメられる」


 陽向は立ち上がり、制服のズボンの埃を軽く払った。


「あのさ、結城」


「うん」


 紬は、涙で少し潤んだ目で、彼を見上げた。


「俺、もっと速くなるから」


 陽向の言葉は、誓いのようだった。


「お前が『綺麗だ』って言ってくれた俺の走り、もっとすげえものにして、お前に見せてやるから。……だから」


 彼は少しだけ照れくさそうに目をそらし、そして、再び真っ直ぐに紬を見た。


「また、見ててくれ。お前が見てると、なんかいつもより調子いい気がするからさ」


 それは、彼なりの不器用な「約束」だった。

 明日も、明後日も、ずっと先に続く未来も。俺の走る姿を、その特等席で見ていてほしい。

 未来を約束することが、紬にとってどれほど残酷で、しかし、どれほど幸福なことか。

 彼は知らない。

 でも、それでいい。


「うん」


 紬は、今日一番の、心からの笑顔を浮かべた。


「絶対に見るね。ずっと、ずっと、見ているから」


 陽向は満足そうに口角を上げ、「じゃあな」と短く告げて、再び力強い足音とともに図書室を出ていった。

 残された紬は、胸に手を当てた。

 心臓が、力強く脈打っている。

 それは病気のせいではなく、圧倒的な生の喜びに打ち震えている証だった。

 紬は机の上のノートを引き寄せ、シャーペンを握り直した。

 涙の染みがついたページの次の行に、震える手で、けれど確かな筆圧で文字を紡ぐ。



『光が、私を見つけてくれた日。あなたの走る軌跡が、私の明日を生きる理由になった』



 西日が完全に傾き、図書室を深いオレンジ色に染め上げていく。

 結城紬と瀬野陽向。

 二人のぎこちない、けれど決して解けることのない交流が、静かに幕を開けた春の日の夕暮れだった。

読んでくれてありがとうございます。

最近、何事も最後までやり切ることを目標に生きています。

小説を最後まで書き切った経験があまりないため、この小説は、更新ペースを守りつつ、なんとしてでも最後まで書き切りたいです。

コメントやブックマークなんかしてくれると、とても励みになります。

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