二話目
開いてくれてありがとうございます。蓮翠です。
今回も都合上、5700字程度と少し長くなりましたが、通勤や通学中、暇な時にでも最後まで読んでいってくれると嬉しいです。
よろしくお願いします。
放課後を告げるチャイムが、どこか間延びした音で校舎全体に響き渡った。
六時間目の終わり。それは、高校という巨大な箱庭において、最も劇的に空気が切り替わる瞬間である。それまで黒板と教師に向けられていた生徒たちの意識が、一斉に解き放たれる。机に突っ伏して眠っていた者は大げさな欠伸とともに身を起こし、部活動へ向かう者はそそくさと鞄に教科書を詰め込み、帰宅部のグループは今日の寄り道先を声高に相談し始める。
無数の「動」のエネルギーが、教室という限られた空間の中で弾け、渦を巻いていた。
結城紬は、自分の席に静かに座ったまま、その喧騒を心地よいBGMとして聞いていた。西日に傾きかけた太陽の光が窓ガラスを透過し、教室の宙を舞うチョークの粉を金色の砂のように輝かせている。その小さな粒の一つ一つが、無重力空間を泳ぐようにゆっくりと落ちていく様を、彼女は瞬きもせずに見つめていた。
「紬、ごめんね。私、今日は図書委員の当番だから、一緒に帰れないの」
鞄を肩にかけた栞が、申し訳なさそうに眉を下げて紬の席へとやってきた。彼女の腕には、返却用の分厚いハードカバーの束が抱えられている。
「ううん、全然気にしないで。栞ちゃん、図書委員のお仕事頑張ってね」
「紬は、どうするの? もう帰る? もしあれだったら、図書室で待っててもいいけど……。でも、図書室は少し埃っぽいから、紬の喉には良くないかもしれないわね」
冷静沈着な栞にしては珍しく、その言葉には明らかな迷いと心配が入り混じっていた。紬の体が少しでも危険に晒される可能性を、彼女の優秀な頭脳が瞬時にシミュレーションしては弾き出しているのだろう。
紬はふわりと微笑み、首を横に振った。
「大丈夫だよ。今日は少しお天気がいいから、外の空気を吸いながら、ゆっくり帰るね。少しだけ、グラウンドの方を回ってから行こうかなって思ってるの」
「グラウンド? ……そう。でも、風が冷たくなってきたらすぐに帰るのよ。カーディガン、ちゃんと前を閉めて。それから――」
「もし息苦しくなったら、無理せずにすぐ休む。でしょ? もう、お母さんみたい」
クスクスと笑う紬に、栞は「お母さんより私の方が心配してるわよ」と真顔で返し、小さくため息をついた。
「じゃあ、気をつけてね。また明日」
「うん、また明日。ばいばい」
栞の背中が教室のドアの向こうへ消えていくのを見送ってから、紬はゆっくりと立ち上がった。急な動作は心臓に負担をかける。それを頭で考えるよりも先に、彼女の身体が防衛本能として「ゆっくり動くこと」を記憶していた。
教室を出て、廊下を歩く。
放課後の廊下は、様々な音と匂いで満ちていた。
どこかの教室から聞こえてくる、吹奏楽部の不揃いなチューニングの音。美術室から漂う、テレピン油の独特な匂い。階段を駆け下りていく運動部員たちの、弾むような足音と高い笑い声。
そのすべてが、圧倒的な「生の脈動」だった。
紬は、校舎の壁にそっと手を触れながら、一歩一歩、確かめるように歩みを進めた。まるで、この学校という巨大な生き物の鼓動を、手のひらから感じ取ろうとするかのように。
(みんな、すごいな……)
純粋な感嘆が、胸の奥底から湧き上がってくる。
息を吸って、吐く。歩く。走る。笑う。大声を出す。
彼らにとっては、意識すらしない当たり前の行為。けれど、紬にとっては、その一つ一つが奇跡の連続であり、それでいて綱渡りのような危うさを孕んだ行為だった。
彼女の胸の奥には、特発性の心肺機能低下という、名前のついた時限爆弾が埋まっている。
今は一時的に針の動きを止めているが、それがいつ再び動き出すかは、誰にも――主治医の黒崎にすらわからない。ただ確実なのは、その爆弾が決して取り除かれることはなく、いずれ確実に彼女の命を蝕み尽くすということだけだ。
だからこそ、紬の目に映る世界は、常に「期限付きの展覧会」のようなものだった。
いつか見られなくなるからこそ、今、この瞬間の光景を、余すところなく魂に焼き付けておきたい。
昇降口でローファーに履き替え、外に出る。
春の午後の風が、紬の前髪を優しく揺らした。土と、青葉と、そしてどこかで咲いている花の匂いが混ざり合った、甘くて少し切ない匂い。
紬は、午前中の体育の授業で見学していた時と同じ、グラウンドの隅にある藤棚の下へと向かった。
古びた木製のベンチには、まだ微かに午後の陽光の温もりが残っていた。紬はそこに腰を下ろし、鞄から愛用のノートとペンを取り出す。
カーディガンのボタンを上までしっかりと留め、膝の上にノートを広げた。
グラウンドでは、すでにいくつもの運動部が活動を開始していた。
サッカー部の蹴るボールが乾いた音を響かせ、野球部の金属バットが空気を切り裂く。遠くからは、顧問の教師の怒声にも似た指導の声が飛んできている。
その中で、紬の視線は自然と、グラウンドの外周を取り囲むタータントラックへと引き寄せられていった。
陸上部。
ただ「走る」という、人間にとって最も原始的で、それゆえに最も純粋な行為に己のすべてを懸ける者たちの集団。
色とりどりのスパイクを履いた部員たちが、入念なストレッチを行ったり、軽いジョギングで体を温めたりしている。
紬にとって、「走る」という行為は、宇宙旅行と同じくらい縁遠く、あまりにも現実味のないものだった。
幼い頃の記憶の多くは、病院のベッドの上にある。
少し歩くだけで息が上がり、唇が紫になり、視界が白く明滅する。点滴の管に繋がれ、車椅子でしか移動できなかった日々。窓の外を飛んでいく鳥を見て、「あんな風に空を飛べたら」と願うのと同じ水準で、「あんな風に自分の足で走れたら」と夢想していた。
だから、彼女にとって陸上部の練習風景は、神話の英雄たちの演舞を見ているような、神聖な儀式にも似た眩しさがあった。
(……あ)
不意に、紬の視線が一点で止まった。
トラックのスタート地点。そこに、一人の男子生徒が立っていた。
黒髪の短髪。無駄な脂肪の一切ない、引き締まったしなやかな体躯。
瀬野陽向だった。
彼は他の部員たちから少し離れた場所で、一人、静かにトラックを見据えていた。普段の教室で見せる、少しだるそうで、けれど誰にでもフラットに接する飄々とした雰囲気は、そこには微塵もなかった。
まるで、これから真剣勝負に赴く剣豪のような、研ぎ澄まされた冷たい空気を纏っている。
陽向が、スタートブロックに足をかけた。
ゆっくりとしゃがみ込み、両手をトラックのラインに添える。
その瞬間、彼の周囲から、すべての音が消え去ったように紬には感じられた。
サッカー部の歓声も、野球部の金属音も、春の風が葉を揺らす音も、すべてが彼を包む真空の結界に弾き返されているかのように。
陽向の背中が、弓のようにしなやかに持ち上がる。
張り詰めた筋肉。地面を掴む指先。前を見据える、獲物を狙う鷹のような鋭い眼差し。
――パーンッ!
顧問が鳴らしたスターターピストルの乾いた音が、春の空気を切り裂いた。
同時に、陽向の体が爆発した。
比喩ではない。紬の目には、彼の体内に蓄積されていた莫大なエネルギーが一瞬にして解放され、物理的な爆発を起こしたように見えたのだ。
地面を蹴り上げる力強いスパイクの音。土煙が微かに舞い上がる。
陽向の体は、恐ろしいほどの低姿勢を保ったまま、まるで弾丸のようにトラックを突き進んでいく。
腕の振り、太腿の上がり、地面を捉える足首の角度。そのすべてが、一ミリの狂いもなく計算され尽くした機械のように正確でありながら、同時に、野生動物のような獰猛な生命力に溢れていた。
「……っ」
紬は、無意識のうちに自分の胸元を強く握りしめていた。
息が止まっていた。
彼が走っている。ただそれだけのことなのに、紬の心臓が、まるで共鳴するかのように早鐘を打ち始めていた。
――ドクン、ドクン、ドクン……。
普段は弱々しく、頼りなく脈打つだけの紬の心臓が、陽向の足音に合わせるように、熱く、激しく血を送り出している。
息苦しい。けれど、それは病気による発作の苦しさではなかった。
圧倒的な「美しさ」を目の当たりにしたことによる、魂の震えだった。
風を切り裂き、空間を歪めるようにして、陽向は一直線に駆け抜けていく。
彼の周りだけ、重力という概念が存在していないかのようだった。
どうして、あんなに速く走れるのだろう。
どうして、あんなに力強く大地を蹴ることができるのだろう。
彼の肺は、どれだけの酸素を一度に取り込み、燃やしているのだろうか。
彼の心臓は、どれだけの熱を持った血を、その全身に巡らせているのだろうか。
たった百メートル。
時間にして、十秒と少し。
陽向にとっては何千回、何万回と繰り返してきたであろうその短い間に、紬は、自分が一生かかっても到達できないであろう「生の頂点」を見た気がした。
やがて、ゴールラインを駆け抜けた陽向は、徐々にスピードを落とし、ゆっくりとしたジョギングへと移行した。
大きく肩で息をしている。日焼けした肌には、汗の粒が西日に反射して宝石のように光っていた。
荒い呼吸。上下する胸。限界まで酷使された筋肉の熱が、離れた場所からでも陽炎のように立ち上っているのがわかる。
生きている。
彼は今、間違いなく、この世界の誰よりも「生きている」ことを実感しているはずだ。
紬は、震える手でペンのキャップを外し、膝の上のノートに向かった。
書き留めなければならない。
今、この瞬間に自分が感じた、圧倒的なまでの衝撃と、焦がれるような憧れを。
決して自分の手には入らないからこそ、文字にして、魂の奥底に縛り付けなければならない。
ペン先が、真っ白な紙の上で微かに震えながら、インクの跡を残していく。
『彼が風になる瞬間を見た。空気を切り裂き、重力を置き去りにして、ただ前だけを見つめて進むその姿は、私が知っているどんな景色よりも、どんな物語よりも、残酷なまでに美しかった。走るということは、命を燃やすということなのだろうか。彼の一歩が地面を叩くたび、私の止まりかけた時計の針が、無理やり動かされるような気がした。あの背中の向こうには、どんな世界が広がっているのだろう。私には永遠に見ることのできないその景色を、彼は今、その瞳に映している。』
そこまで書き終えて、紬はふう、と長く細い息を吐き出した。
気がつけば、額にうっすらと汗をかいていた。ほんの少しだけ、胸の奥に鉛のような重さが居座っている。
黒崎医師が警告していた「無理」の境界線に、足の小指が触れたような感覚。
紬は慌ててペンを置き、目を閉じて、意識的にゆっくりと深呼吸を繰り返した。
――吸って、吐いて。吸って、吐いて。
浅くなりがちな呼吸を、時間をかけて肺の奥底まで届けるように。
五分ほどそうしていると、ようやく胸の重さがスッと引いていき、いつもの穏やかな鼓動が戻ってきた。
「……ふふっ」
閉じていた目を開け、紬は小さく自嘲するように笑った。
ただ走っているのを見ているだけで、体力を消耗してしまうなんて。自分の体のポンコツ具合には、本当に嫌になる。
けれど、不思議と後悔はなかった。
むしろ、心地よい疲労感すらある。
まるで、自分も陽向と一緒に、あの百メートルの距離を全力で駆け抜けたかのような錯覚。
もう一度、トラックの方へ視線を向ける。
そこには、練習の合間の休憩に入ったのか、トラックの脇の芝生に寝転がる陽向の姿があった。
その隣には、いつの間にかやってきたのか、ムードメーカーの親友、藤原樹がしゃがみ込んでいる。樹が持ってきたスポーツドリンクのボトルを、陽向が起き上がって受け取り、一気に喉を鳴らして飲み干す。
樹が何か冗談を言ったのか、陽向が軽く樹の肩を小突いて、声を出して笑った。
先ほどの、鬼気迫るような走者の顔はそこにはない。
ただの、等身大の、十六歳の少年の顔だった。
(……瀬野くん)
彼が陸上を辞めようとしていた時期があったことなど、紬はまだ知らない。
中庭でのあの偶然の出会いが、彼の心をどう動かしたのかも、紬は知らない。
ただ、今の彼女にとって、グラウンドで躍動する彼の存在は、真っ暗な夜の海を照らす灯台の光のように、圧倒的な引力を持っていた。
「おい、陽向! 今のタイム、どうだった?」
遠くから、樹の明るい声が風に乗って聞こえてきた。
「悪くねえよ。でも、まだまだだ」
陽向の、ぶっきらぼうだが芯の通った声が返る。
まだまだだ、と彼は言った。
その言葉は、彼が「明日」という未来を、さらなる高みを目指すための「時間」として、当然のように所有していることの証明だった。
私には、その「まだまだ」があるのだろうか。
紬は、膝の上のノートをそっと閉じた。
西日がさらに角度を下げ、グラウンドの土をオレンジ色に染め上げ始めている。
自分の影が、足元から長く長く伸びて、フェンスの向こうまで届きそうだった。
少し冷たくなってきた春の風が、藤棚の隙間を吹き抜ける。
カーディガンの襟元をかき合わせ、紬は立ち上がった。
これ以上長居をして体を冷やせば、本当に母の咲良や栞に怒られてしまう。
鞄にノートをしまい、最後に一度だけ、グラウンドを振り返る。
再びスタート地点に立ち、真っ直ぐに前を見据える陽向の横顔が、夕日を浴びてシルエットのように浮かび上がっていた。
「……ありがとう」
誰にともなく、声に出さずに呟いた。
生きていることの美しさを、強さを、教えてくれて。
私に、こんなにも素晴らしい感情を抱かせてくれて。
――明日もまた、学校に来よう。
――明日もまた、彼の走る姿を見よう。
いつか来る終わりの日まで、この光を、一つ残らず胸に刻み込むために。
結城紬は、一歩ずつ、確かめるように地面を踏みしめながら、オレンジ色に染まった帰り道を歩き始めた。
彼女の歩幅は小さく、歩みはひどくゆっくりとしていたが、その背中には、確かな充実感と、静かな熱情が宿っていた。
春の輪郭は、いつだって曖昧だ。
けれど、結城紬の心の中で、瀬野陽向という存在の輪郭だけは、誰よりも鮮明に、眩い光を放って形作られようとしていた。
読んでくれてありがとうございます。
これから入学式に向けて色々と忙しくなるのですが、少しだけ書き溜めがある分、しばらくの間、更新ペースを守っていけるのではないかと思います。
なるべくいろんな人に見てもらうため、2〜3日の更新ペースを守っていきたいと思います。
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