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一話目

お久しぶりです、蓮翠です。

2〜3日ペースで更新していく予定ですが、学校と両立して書いくため、不定期になると思います。

時間帯としては、朝の8時からこちらの小説を上げていこうと思います。

都合上、6500字程度と少し長くなりましたが、通勤や通学中、暇な時にでも最後まで読んでいってくれると嬉しいです。

よろしくお願いします。

 春の輪郭は、いつだってひどく曖昧だ。

 冬の冷たさを微かに残した風が頬を撫でたかと思えば、陽だまりにはすでに気の早い初夏のような熱が孕んでいる。不規則に揺らぐ気温の中で、桜の薄紅色はあっという間にアスファルトを白く染め上げ、代わりに瑞々しい若葉が世界を覆い尽くしていく。

 高校二年の春。

 結城(ゆうき)(つむぎ)にとって、それは奇跡のような季節だった。


「紬、カーディガン持った? 今日は午後から少し冷えるって天気予報で言ってたから。それから、お弁当には消化の良いものばかり入れておいたけど、もしお腹が苦しくなったら無理して全部食べなくていいからね。あ、お薬はちゃんとポーチに入れた?」


 玄関先で靴紐を結ぼうと屈み込んだ紬の背中に、母である咲良(さくら)の声がまるでシャワーのように降り注ぐ。その声には、隠しきれない過剰なほどの心配が滲んでいた。


「うん、持ったよ。お弁当もありがとう。お薬もちゃんと確認したから大丈夫」


 紬は顔を上げ、振り返って柔らかく微笑んだ。母の心配性が今に始まったことではないと知っているからこそ、その言葉の一つ一つを安心させるように丁寧に拾い上げる。


「本当? ちょっと顔色が白い気がするけど……。息切れは? 胸が苦しかったりしない?」


 咲良はエプロンで手を拭いながら、紬の顔を覗き込む。目尻にある柔らかい笑いじわの奥で、瞳だけが不安げに揺れている。


「お母さん、心配しすぎ。私、今はすごく調子がいいんだから。ほら、見て」


 紬はその場で軽く両手を広げてみせた。華奢な体に羽織った薄手のカーディガンが、ふわりと風を孕む。色素の薄い茶色のボブヘアが揺れ、透けるような白い肌に朝の光が反射した。


「……そうね。でも、本当に、絶対に無理はしないでね。少しでも変だなと思ったら、すぐに保健室に行くのよ。先生にも連絡するし」


「わかってる。行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 母の心配そうな、それでいてどこか祈るような視線を背中に浴びながら、紬は家を出た。


 通学路は、同じ制服を着た生徒たちで賑わっていた。

 新しいクラス、新しい席、新しい教科書。誰もが春という季節特有の、浮き足立ったような、それでいて少し緊張したような空気を纏っている。

 紬はゆっくりとしたペースで歩きながら、その喧騒を心地よく鼓膜に響かせていた。


(ああ、いいな……)


 心の中で、ひっそりと呟く。

 友達と笑い合いながら歩く生徒たち。自転車で駆け抜けていく先輩。道端で咲き誇る名もなき花。そのすべてが、紬にとってはひどく眩しく、愛おしいものだった。

 幼い頃から、特発性の心肺機能低下を伴う難病と診断され、入退院を繰り返してきた。白い天井と、消毒液の匂い。規則的な電子音だけが響く病室で、窓の外を切り取られた四角い空だけを眺めて過ごす日々。それが、紬にとっての「日常」だった。

 だからこそ、高校入学直前から奇跡的に症状が安定し、こうして「普通の学校生活」を送れていることが、信じられないほど尊いのだ。

 いずれまた病状が悪化し、長くは生きられないこと。

 それは、主治医である黒崎(くろさき)の言葉を聞くまでもなく、紬自身が一番よく理解している。自分の体の中で、静かに、けれど確実に時を刻んでいる火種の存在を、彼女は決して忘れたことはない。

 だからこそ、今あるありふれた日常を、誰よりも愛おしく思う。

 一日、また一日。

 消費されていく時間を惜しむように、そしてその瞬間に確かに自分が存在していたことを刻みつけるように、紬は世界を観察していた。


「おはよう、紬」


 校門を抜けて下駄箱に向かう途中、凛とした涼やかな声が降ってきた。

 振り返ると、黒髪のロングヘアを揺らし、銀縁の細い眼鏡をかけた親友、三島(みしま)(しおり)が立っていた。彼女の真っ直ぐな背筋は、今日も立派な姿勢を保っている。


「栞ちゃん、おはよう」


 紬が笑顔を向けると、栞は眼鏡の奥の鋭い観察眼で、一瞬だけ紬の全身をスキャンするように見つめた。顔色、呼吸の乱れ、足取りの重さ。それらを瞬時に計算し、問題がないことを確認したのだろう。彼女の口元が、わずかに緩む。


「今日の体調は悪くなさそうね」


「うん、バッチリだよ。朝ご飯も美味しく食べられたし」


「そう。でも、階段はゆっくり上るのよ。私が荷物を持つから」


「えっ、いいよ、これくらい自分で……」


「ダメ。私が持ちたいの」


 有無を言わさぬ口調で、栞は紬の鞄をひったくるようにして自分の肩にかけた。冷静沈着で論理的、口数も少ない栞だが、一度懐に入れた人間に対しては驚くほど過保護で情に厚い。紬の病気のことをある程度知っている彼女は、こうしていつもさりげなく、時には強引に紬をサポートしてくれている。


「ふふっ、ありがとう、栞ちゃん」


「どういたしまして」


 二人は並んで、ゆっくりと階段を上り始めた。窓から差し込む朝陽が、廊下の磨かれたワックスをキラキラと反射させている。

 教室のドアを開けると、そこにはすでにクラスメイトたちが作り出す、活気に満ちた空間が広がっていた。昨日見たテレビ番組の話、部活の朝練の愚痴、新しい担任の噂話。色とりどりの声が交錯する中へ、紬は静かに足を踏み入れた。

 誰も自分の病気を気にかけることなく、ただ「結城紬」という一人の女子高生として接してくれる場所。

 ここが、紬の念願だった世界なのだ。


 三時間目。グラウンドでの体育の授業。

 春の陽光が降り注ぐ中、クラスの女子たちは二つのグループに分かれてバレーボールのパス回しに興じていた。体育館から響く男子のバスケットボールの歓声と、グラウンドの土を蹴る音が、春の空気に混ざり合っていく。

 紬は、グラウンドの隅にある藤棚(ふじだな)の下のベンチに座っていた。

 季節を問わず手放せないカーディガンをしっかりと羽織り、膝の上にはお気に入りのカバーをかけた小さなノートを広げている。

 体育の授業は、当然ながら見学だ。激しい運動は心肺に致命的な負担をかけるため、黒崎からも厳しく止められている。


「はい、次! もっと高く上げて!」


「ごめん、失敗した!」


 はしゃぐ女子たちの声が風に乗って届く。

 健康な体。弾む息。赤く染まった頬。

 それらを遠巻きに眺めながら、紬は手元のノートにペンを走らせた。


 

『春の風は、少しだけ土の匂いがする。みんなの笑い声が、シャボン玉みたいに空に吸い込まれていく。影が短くなって、光が強くなる。私はここから、その光景を見ているのが好きだ』


 

 感情や風景を言葉にしてノートに書き留めること。

 それが、紬の密かな趣味であり、儀式のようなものでもあった。人の長所や日常の美しい瞬間を見つけるのが得意な彼女は、世界がどれほど美しく、どれほど優しいかに気づく天才だった。

 自分が動けない分、世界の方からたくさんのものを与えてくれているような気がするのだ。


「紬」


 ふいに横から声がかかり、紬は顔を上げた。

 いつの間にか、栞がベンチの隣に立っていた。彼女の額には微かに汗が滲んでいる。


「栞ちゃん、バレーは? 抜け出してきちゃっていいの?」


「休憩時間よ。それに、あの子たち元気が良すぎて、私には少し眩しすぎるわ」


 栞はそう言って、細い息を吐きながら紬の隣に腰を下ろした。銀縁の眼鏡を押し上げながら、紬のノートに視線を落とす。


「また書いてるの?」


「うん。今日はいいお天気だから、言葉がたくさん浮かんでくるの」


「見せて」


 栞の言葉に、紬は照れくさそうにしながらもノートを差し出した。栞は書かれた文字を真剣な眼差しで追い、やがて小さく息を漏らす。


「相変わらず、紬の書く文章は綺麗ね。まるで一編の詩みたい」


「そんな、大げさだよ。ただ思ったことを書いてるだけだもん」


「その『思ったこと』が、特別なのよ。紬の目には、世界がこんな風に見えているのね」


 栞はノートを丁寧に返し、グラウンドへと視線を向けた。


「ねえ、紬。退屈じゃない? みんなが動いているのを見てるだけなんて」


 その問いかけには、親友を気遣う優しさと、ほんの少しの同情が混じっていた。

 紬はノートを胸に抱きしめ、首を横に振った。


「ううん、全然。むしろ、すごく楽しいよ」


「楽しい?」


「うん。みんなが元気に動いているのを見ていると、私まで元気をもらえそうな気がするから。それに、こうやってゆっくり景色を眺められるのは、見学の特権でしょ?」


 紬はふわりと笑った。それは決して強がりではなく、心からの本音だった。

 周囲に気を遣わせまいと浮かべる柔らかい笑顔は、いつしか彼女の素顔そのものになっていた。悲しみや諦めを心の奥底に沈め、その上澄みの澄んだ部分だけをすくい取って、彼女は世界に微笑みかけている。


「……紬は、強いわね」


 栞はぽつりと呟き、それ以上は何も言わずに隣でグラウンドを眺め続けた。

 二人の間に流れる静かな時間は、決して心地の悪いものではない。むしろ、言葉を交わさずとも理解し合える、特別な空気だった。


 不意に、体育館の方から大きな歓声が上がった。

 男子の授業が終わったのか、バスケットボールのボールを抱えた男子生徒たちがぞろぞろと出てくる。

 その集団の中で、ひときわ目を引く二つの影があった。


 明るく染めた茶髪で、少しパーマがかかった髪を揺らしながら、大きな声で笑っている男子。藤原(ふじわら)(いつき)だ。彼はお調子者でノリが良く、クラスのムードメーカー的な存在である。

 そして、その樹の隣で、少し面倒くさそうに、けれどどこか楽しげに歩いている男子。


 黒髪の短髪。日焼けした肌。第一ボタンを開けた制服が、彼のラフな雰囲気を強調している。瀬野(せの)陽向(ひなた)

 陸上部の短距離走エースであり、紬にとっての「光」となる存在。

 紬の視線は、自然と陽向の姿を追っていた。

 彼の歩き方、ふとした瞬間に見せる真っ直ぐな瞳、そして、誰もが認めるその圧倒的な「走る」という才能。

 紬には決して手に入れることのできない、力強い生命の躍動が、彼の中には詰まっている。


(……瀬野くん)


 心の中でその名前を呼ぶだけで、なぜか胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。

 まだ、彼とはほとんど言葉を交わしたことがない。クラスメイトとしての挨拶程度だ。けれど、入学直後のあの春の日。中庭で偶然言葉を交わしたあの短い時間が、紬の中で小さな種として芽吹いている。


「……瀬野くんたち、相変わらず騒がしいわね」


 栞が呆れたような声を出した。


「ふふっ、藤原くんがいるから余計にね。でも、なんだか楽しそう」


「紬は本当に、何を見ても楽しそうに言うのね」


 栞が少し意地悪く笑う。


「だって、本当に楽しそうなんだもん」


 紬はノートを開き、新しいページにペンを置いた。

 真っ白な紙の上に、今この瞬間を閉じ込めるように、文字を紡ぐ。



『命が、そこにある。眩しいくらいに、真っ直ぐに』



 ペン先が紙を擦る微かな音だけが、春の風に溶けていった。

 チャイムが鳴り響く。

 授業の終わりを告げるその音は、平穏な一日の続きを約束する合図だった。


「さあ、教室に戻りましょうか」

 

 栞が立ち上がり、手を差し伸べる。


「うん」


 紬はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。

 足に伝わる地面の感触。吸い込む空気の温度。隣にいてくれる親友のぬくもり。

 すべてが、完璧なまでに「普通の日常」だった。

 この眩しい日常が、一日でも長く、一秒でも長く続くようにと。

 結城紬は、心の中で静かに祈りながら、青く澄み渡る春の空を見上げた。


 教室に戻ると、すでに昼休みの空気が充満していた。

 机をくっつけ合う音、弁当箱を開けるカチャカチャという音、そして他愛のないおしゃべり。


「紬、お弁当一緒に食べよ」


「うん、ありがとう」


 栞が手際よく自分の机を紬の机に寄せる。紬は母が作ってくれた、消化に良い温野菜や小さなおにぎりが綺麗に並べられた弁当箱を開けた。色鮮やかなおかずたちが、母の愛情そのものに見えて、胸が少しだけ締め付けられる。


「お母さん、今日も頑張ってくれたのね」


 栞が弁当を覗き込んで微笑む。


「うん。いつも心配ばかりかけちゃってて。私、本当に元気なんだけどな」


「親っていうのはそういうものよ。紬が元気でいてくれることが、一番の親孝行なんだから」


 栞の大人びた言葉に、紬は「そうだね」と頷いて、小さなおにぎりを口に運んだ。


 その時、教室の前方から大きな笑い声が響いた。


「だからお前、あの時のパスは絶対俺に出すべきだったって!」


「うるせえな、樹。お前のポジショニングが悪かったんだろうが」


 樹と陽向だった。二人は他の男子生徒たちと机を囲みながら、先ほどの体育のバスケの話題で盛り上がっているらしい。

 樹の軽快なツッコミと、陽向のぶっきらぼうだが裏表のない言葉のキャッチボール。

 陽向のそのフラットな態度は、男女問わず好感を持たれている。彼は誰に対しても態度を変えず、自分が信じたものには真っ直ぐに向き合う。不器用なところもあるが、その分だけ言葉に嘘がない。


 紬は箸を止め、無意識に陽向の横顔を見つめていた。

 日焼けした肌が、窓から差し込む光を浴びて健康的に輝いている。喉仏が動き、笑い声を上げるたびに肩が揺れる。

 まるで、彼の周りだけ酸素の濃度が高いのではないかと錯覚するほど、陽向の存在は生命力に溢れていた。


「……見すぎ」


 不意に、耳元で栞の小声が聞こえ、紬はビクッと肩を揺らした。


「えっ?」


「瀬野くんのこと、目で追ってたでしょ」


 栞は弁当の卵焼きを上品に口に運びながら、眼鏡の奥の目で紬をじっと見据えている。


「そ、そんなことないよ! ただ、楽しそうだなあって思って……」


「ふーん。まあ、そういうことにしておいてあげる」


 栞のからかうような視線に、紬は顔が熱くなるのを感じた。誤魔化すように、温野菜を慌てて口に入れる。

 確かに、陽向を目で追ってしまうのは事実だ。

 けれど、それは決して「恋」のような甘やかな感情だけではないと、紬自身は思っていた。

 それは、「憧憬(しょうけい)」に近い。

 絶対に手に入らないものを持っている人間に対する、純粋な憧れ。

 自分がいつか失ってしまう「未来」を、当たり前のように信じて疑わない強さ。

 彼がグラウンドを風のように駆け抜ける姿を見るたびに、紬は自分の心が少しだけ宙に浮くような感覚に陥るのだ。

 まるで、彼が自分の代わりに、世界を自由に飛び回ってくれているかのように。


「……ねえ、栞ちゃん」


「ん?」


「私ね、今のクラス、すごく好き」


 唐突な紬の言葉に、栞は一瞬目を丸くしたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。


「そうね。私も好きよ。紬が楽しそうにしているから」


「ふふっ、それじゃあ私のためのクラスみたいじゃない」


「そうよ。少なくとも私にとってはね」


 栞の迷いのない言葉が、心にじんわりと染み込んでいく。

 病気になってから、失ったものは数え切れない。自由に走る権利、徹夜で遊ぶ体力、大人になるという確証。

 けれど、代わりに得たものもある。

 こうして自分を大切に想ってくれる親友。過保護すぎるけれど愛情深い家族。そして、日常の些細な美しさに気づける目。

 世界は、残酷だけれど、とても優しい。

 その両極端な事実を、紬は小さな体で受け止めていた。


 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。

 古文の授業中、春の眠気を誘うような教師の単調な声が教室に響き渡る。

 紬は教科書に視線を落としながらも、頭の片隅で、先ほどノートに書いた言葉を反芻していた。



『命が、そこにある。眩しいくらいに、真っ直ぐに』



 その言葉の続きを、どう紡ごうか。

 次に彼と話す機会があったら、どんな言葉を交わそうか。

 未来を想像できるということが、こんなにも幸福なことなのだと、改めて噛み締める。

 

 ――明日もまた、学校に来られるだろうか。

 

 ――明日もまた、栞と一緒に笑い合えるだろうか。

 

 ――明日もまた、陽向の姿を見つけることができるだろうか。


 窓の外では、春の風が桜の枝を揺らしていた。

 花びらはすでに散り急ぎ、青々とした葉が生命を主張するように広がっている。

 結城紬の高校二年の春は、こうして静かに、けれど確かに、かけがえのない光を帯びて動き出していた。

 彼女の心臓が、静かなリズムで時を刻み続けている限り。

 この眩しい日常は、彼女のノートの中で、永遠に美しい言葉となって生き続けるのだろう。

読んでくれてありがとうございます。

今回の作品はなかなかに自信作です。

コメントやブックマークなんかしてくれると、とても励みになります。

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