旅立つまでのエトセトラ⑥
――大昔、この世界は海しかなかった。
創造主は世界樹という特別な苗木を、海にたくさん植えた。世界樹は長い年月を経て成長し、巨大な根と降り落ちた葉が大地になり、島になった。――そんな創世記がある。
どこまで事実か定かではないが、広大な海の向こうには数多の島と世界樹と呼ばれる大樹が存在し、島によって異なる世界樹の恩恵――特別な力の発現が見られるらしい。コメットが暮らすこの島では魔法がその一つだ。
地上に暮らす生物は世界樹と共にある。正しく唯一無二、それが世界樹という存在だ。
「わしら『人間』は、島の内側にいればどこからでも世界樹の恩恵を受け取れる。だからこそ我々は世界樹から離れた地でも生きられる。しかし、全ての生き物がそうではなく、種族によって適切な距離が異なる。顕著に現れるのが始祖の一族と呼ばれる者たちだ」
「始祖の一族……私たち人間は確か、ルシベルの民系譜だっけ?」
世界樹の実は七つの命を作った。
七つの命は様々な形で子を増やし、始祖の子たちは番うことで命を増やしていった。
百以上は存在している始祖の一族のうち、ルシベルの民は二足歩行の獣の姿をしている……という話を、村長から嫌になるほど聞かされた記憶がコメットの脳裏をよぎる。
「おそらくフロストはベアルフの民だ」
「ベアルフの民……?」
「二色の毛色と黄金の瞳を持つ、世界樹の守り役の一族。世界樹の恩恵を強く受け、人の身と獣の身を自在に使い分ける。彼らはその役目から世界樹の側を離れず、わかってることはほとんどない」
「……つまり、フロストが本当にベアルフの民だったら、いつもの姿に戻ることもできるってこと?」
頷く村長からフロストに視線を向けると、いつの間にか椅子から下りていたフロストが見慣れた犬の姿で尻尾をぶんぶんと振り回していた。
コメットと村長は驚きのあまり「本当だ……」「本当だったな……」しか口に出せなくなる。
そうこうしているうちに喜びを露わにする全身が淡い光に包まれ、次の瞬間にはまた古着を着た子どもの姿に戻っていた。世界樹の恩恵の光。魔法を使うコメットにとって身近な輝きを見て、目の前の少年は間違いなく世界樹と関わりの深い存在だと確信する。
「見た? 見た? フロストできたよ! じょーず?」
「うん、すっごく上手だった。こうしておしゃべりする姿と、ふわふわの姿に戻るのはできそう?」
「できそう!」
得意げなフロストの頭を撫でて褒めながら、村長の話の違和感にコメットは眉を顰める。
この村は世界樹から遠く離れた地だ。守り役なんて大義を持つ一族が何かの間違いで迷い込む距離ではない。
なら、フロストと親らしき存在は、何故この地を訪れていたのだろう。
「コメット。落ち着いて聞いてほしい」
不可解な話の後に大真面目な声色の前置き。なんだか悪い話を聞かされそうだとコメットは唾を飲んで頷く。
「始祖の一族は、世界樹から離れると老化が加速し、早逝する」
「え…………」
全身から血の気が引いていく感覚がする。寒気すら覚えたコメットはまだ温かい茶を飲み切るが、カップを掴む手は小刻みに震え、止まる様子がない。
村長の「コメット」と呆れ声に呼びかけられ、俯いていた顔を上げる。
「始祖の一族は長命で百年以上生きる。その中でもベオルフの民は短命なほうらしいが、百五十年は生きるという話だ」
村長のように七十年生きる例外を除けば、人間の平均寿命は四十から五十歳。単純計算で考えれば二、三倍以上長生きする。
早逝する。長生きの種族である。真反対の情報と苦手な計算問題のような話にコメットは混乱しかけるが、村長の話はまだ途中だった。
「フロストの成長速度を見る限り、十倍の速度で歳を取っていると仮定しよう」
隣でホットミルクに飲んでいるフロストに目を向ける。
産まれたのは一年より少し前。人の姿になっているフロストは十歳くらいに見える。
「そうなれば、フロストの寿命は約十五年。……犬なら、充分長生きだ」
「じゅう、ごねん……」
コメットが知る限り、家庭犬が十歳を迎えるのも稀だ。フロストの寿命もそのくらいを想定していた。
ベオルフの民は二つの姿を自在に変えられる。コメットが望めば、フロストは見慣れた愛犬の姿で、今までと変わらず一緒にいてくれるだろう。
そう、何も変わらない。
むしろ普通より少し長めに、今までと変わらない日々を過ごせる。
事実から、目を背ければ。
「……ごめん、村長」
そんなの、絶対にごめんだ。
コメットは双眸を開き、静かに宣言する。
「私、この村を出ていく。なるべく早く」
「……やはりそうなるか」
わかっていた、と言いたげに村長は溜息をついて、両腕を伸ばす。
骨ばった手がコメットとフロストの頭を撫でる。不器用な手付きに込められた別れを惜しむ気持ちに、コメットは目の奥が熱くなる。
「……ちゃんと、引っ越しの準備が終わったら、鍵返しにくるから」
「やれやれ。毎月の家賃は良い収入源だったんだけどねぇ」
村長の偏屈な対応はコメットを笑わせるためのものだろう。だからコメットは感謝の代わりに呆れ気味に笑った。




