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平民魔法使いは拾った獣人の子の故郷へ向かう(元恋人も追ってくる)  作者: ある鯨井@書籍発売中


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スタンピードの危局⑧

 フロストがコメットたちに拾われる前、覚えていることはほとんどない。

 大きな顎に優しく咥えられていた感覚、鼻に触れる風が少しずつ冷たくなってきたこと、向けられたほんの少しの言葉。


『いいよ。治らないものだから。治さなくていいよ。わからないか。仕方ないね。本能ってすごいな。こんなに小さいのに』


 大きな顎はくすぐったそうに温かく笑う。その声は苦しそうで、痛そうな臭いは消えてくれなくて、胸がずっとザワザワしていた。


『困ったな。世界樹の恩恵の光。この山で雷光を見たのに。枝を持つ者。見失った』


 言葉が減って、呼吸が増えていく。


『かわいいぼうや。連れて帰れなくてごめん。守れなくてごめん。どうか。どうか。世界樹よ。この子に祝福を』


 呼吸がなくなって、温もりが消えていく。

 大きな顎はもう咥えてくれなくて、どうすればいいか困っていたら、小さな光が『お母さん』と『お父さん』を連れてきてくれた。


 この光は世界樹の恩恵。この邂逅こそ世界樹からの祝福。

 雫が滴る腕の中は温かった。だからもう大丈夫だよと大きな顎にお別れをして、フロストは二人と一緒に山を下りた。




 兵長と呼ばれたその人から、とても痛そうな臭いがした。

 大きな顎は腹の奥から臭いがしていて、いくら舐めても臭いは取れなかった。でも、その人の臭いは顔の表面から放っている。直接舐めれば臭いが取れるかもしれない。


「……おい、やめろ、ジェット……」


 眠っていたその人の顔をベロベロ舐めていたら、知らない名前で止められた。

 少し考えて、フロストはジェットではないのでやめなくていいかと再開すると、迷惑そうな顔で目を開いて、悲しそうな顔をした。


「…………ああ、そうだった。帰れないんだった。ジェットにも、もう……」


 そう呟いたその人の大きな手がフロストの頭を撫でる。なんというテクニシャン。重み、圧、指運び、どれも素晴らしき。ついつい顎が上向く気持ちよさ。


「なんだってお前らは、悪いところを舐めようとするんだ……腹、壊すぞ……」


 撫でてくれていた手が動かなくなって、少しだけ苦しそうな寝息を立て始める。

 撫で撫でが終わったからベロベロを再開した。何度か起こすなと唸られたが根気強く続けると、痛そうな臭いが無くなっていく。

 苦しそうな寝息が穏やかな寝息に変わり、その人はぐっすりと眠った。


 他にも痛そうな臭いの人がいた。まだまだ頑張らないといけない。何故ならお母さんから『よろしく』と頼まれたから。

 ふんすふんす。フロストはやる気満々で鼻息荒く、次のテントに向かった。



☆彡



「起きたらこの通り、傷が塞がっていた。視力まで残ってやがる。この犬はなんなんだ? お前は一体何をしたんだ、魔法使い」


(全然知らん)


 不在の間の話を聞き終え、コメットは眉を寄せる。

 目の前に座る兵士長だけでなく、傷が塞がっていたと証言する他の兵士十二人からも何をしたんだという視線を向けられて、居心地の悪さに溜息が漏れそうになる。

 しかし魔法使いが何かをしたとしか思えないほどの超常現象なので、そう考えるのも仕方ない。それに、心当たりもあった。


(ベアルフの民はわかってることがほとんどないって、村長が言ってたっけ。世界樹の守り役は管理じゃなくて警護……兵士みたいな役目だったとか?)


 体を張る役目の始祖の一族であれば、怪我を癒すための能力があっても変ではない。

 仮定が正しいのかコメットには判断できないし、正直どちらでもいい。フロストがベアルフの民であることを明かすつもりはないのだから。


 このままコメットのせいだと勘違いさせておいたほうがいいが、『存在しない治癒魔法が存在する』と勘違いを流布されると、もっと面倒な問題になってしまう。


(うーん、どうやって誤魔化そう)


 ちら、と隣にいるフロストに視線を下ろす。

 周囲の空気を敏感に感じ取り、ずっとしょんぼりしながら『とりあえずごめんなさいのポーズ』をして、ちらちらと様子を窺っている。


「……とりあえず確認なんだけど、迷惑だった?」


「は?」


「フロストがずっと許して欲しそうに見てる。貴方たちがどう受け止めているのかわからないから、悪いことをしたかもって反省してるの」


 彼らの高圧的な態度は、驚きと不可解さから混乱しているせいだ。コメットはそれを察せるが、フロストにはできない。種族が違うだけでなく、推定二歳未満なのだから。


 フロストの不安を増長させたのは、コメットも同じだ。

 困惑の表情から安心させるための温和な笑顔に変えて、フロストの頭を撫でる。ポーズのために上げていた前足は下ろしたが、表情は浮かない。


「くーん……」


「大丈夫。フロストは間違ってないよ」


 わからないことばかりだが、兵士たちの傷を癒した行いそのものは正しい。例え迷惑だと受け取られたとしても、否定させるつもりはなかった。

 フロストの金色の目が、コメットから兵士長に向けられる。


「簡単な言葉なら伝わるから、フロストがやったことをどう思っているのか、ちゃんと教えてあげて」


 そもそも、何が起きたのか確認するより先にやるべきことがあるだろうに。彼らはそれを怠っている。そうでなければ、フロストがこんなにもしょぼくれているはずがない。


「……そうか。……そう、だな」


 コメットの促しで兵士長が立ち上がる。

 大股二歩でフロストの前に歩み寄り、膝をつき、逞しい両腕がフロストを包み込むように抱き締めた。


「ありがとう。本当に、ありがとう。これならまだ戦える。お前のおかげだ」


 兵士長が感謝を口にしながらフロストの頭をわしわしと撫でる。

 その光景に触発されたように兵士たちもフロストを囲み、「ありがとう」「もうどこも痛くない」「すごいぞ」と順番に感謝を告げていく。


 フロストはようやく閉じていた口を嬉しそうに開き、鞭のような尻尾を振り回した。

 近くにいた兵士たちの足を叩き、「重てぇ!」と被害者が笑い出し、つられた全員の表情が綻ぶ。

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