旅立つまでのエトセトラ①
「いらっしゃ〜……あれっ!? コメットさん! イオスさんはたまに来てたけど、コメットさんはかなりお久しぶりでは?」
「ちょっと色々あって。一年ぶりくらいかも」
「いやー常連さんがまた来てくれて嬉し……っと、失礼。お好きな席にどうぞー」
小さな町の数少ない大衆飲食店。夜まで開いている店はそこしかなく、仕事終わりの恋人と外食する時の常連の店だった。色々あって一年ぶりの来店だが、何も変わらないように見える。
(一年前と全く変わらないって、ある意味幸せなことだったんだな)
馴染みのある空気に触れた懐かしさ、この後のことを考えると込み上げてくる申し訳なさ、両極端な感情に挟まれた居た堪れなさ。焦燥感。一斉に襲ってくる感情の雪崩に、コメットは思わず溜息を漏らす。
しかし、今のコメットには感傷に浸る余裕などなく、すぐに胸の内から目の前の現実へ意識を戻した。
「このあたりの席でいいかい?」
「うん」
一緒に入店した恋人と向かい合って座る。
他愛のない話題を振られるが、コメットは適当な相槌で途切れさせる。普段和やかにゆっくりとした食事の時間に張り詰めた空気が流れる。恋人は困惑を浮かべているが、コメットは見て見ぬふりで作業のように食事を進めた。
「考えておいてって言われた話だけど、」
先に食べ終えたコメットは、覚悟を決めるように一度息を吐き、用意した言葉をゆっくりと紡ぐ。
「私たち、別れましょう。イオス」
声は震えなかった。練習通りの気丈な声音で別れを告げられた。
コメットは胸の内で密かに安堵し、正面に座る恋人――イオスをまっすぐに見据える。
彼は激しく動揺しているらしく、金色の前髪の隙間から見える紫の瞳が大きく揺らいでいる。反対に、テーブルの上に置かれた手は指先一つ動かず、魔法にかけられたように固まったままだ。
「実はね、少し前から考えていたの。イオスが用意してくれる未来はきっと素敵なものだけど、私はついていけない。だから、今日でおしまいにしたい」
「何が、駄目だった?」
愛する人の暗く沈んだの声に、コメットは胸が締め付けられる。
あれが嫌だったとか、ここが悪かったとか、具体例を挙げれば別れ話に説得力が増すだろうか。しかし、何も思いつかない。コメットにとってイオスは完璧すぎるほど素晴らしい恋人だ。だが本心を打ち明けることもできず、コメットは口を閉ざす。
「確かにこの数カ月、コメットに詳細を話さずに色々と決めてしまっていたとは思う。でも、けっして悪い話ではなかったはずだ。だから君も喜んでくれたんだろう? 僕にも、この町にも、君の村にとっても良い話だった。……だけど、コメットにとって良い話ではなかったなら、僕は、」
「イオスが私のためにすごく頑張ってくれることは、よく知ってる」
魔法学院を卒業して、彼にとって見知らぬ土地に越してきてから二年。『新参者のイオス』として努力していたことを、コメットは誰よりも知っている自負がある。
だから、彼の努力を無意味なことにさせたくない。彼の本意ではなかったとしても。
「だから、イオスは無責任なことをしないって、信じてる」
「――――――」
「卒業した時と今は違う。今の貴方は責任のある大人。私のために何でもするって言うなら、期待に応えて、与えられた役目をきちんとやり遂げて。私をがっかりさせないでほしい」
口ではなく全身で『信じられない』と、コメットを非難しているようだ。実際、こんなに一方的な別れを告げられたイオスにはコメットを詰る権利がある。どんな誹りでも受け止める覚悟が、コメットにもあった。
「わ……わか、った」
別れる気はないと自我を通すことも、『何故』と理由を問うこともできるのに、イオスはその権利を使わない。コメットの意思を否定しないために。
こんな場面でも発揮される彼の優しさに、ズキズキと胸の痛みは増していく。
コメットは席から立ち上がる。
この店が先会計でよかった。後会計だったらすぐに立ち去るのは難しかっただろう。それを含めて店選びをして正解だった。
「うん。私からの話はそれだけだから」
「ま……っ、コメット、待ってくれ。もう日が暮れている。せめて家まで送らせてほしい」
「こんな時間に恋人でもない女性の家を訪ねたら駄目でしょ。気持ちだけもらっておくね。――さようなら」
さようなら。
ありふれた別れの言葉が、まるで死の宣告のような響きを含んで口から溢れた。痛ましいイオスの表情に、コメットの心が軋む。
(顔に出したら駄目。イオスは勘がいいから察される。落ち着いて、大丈夫、私ならうまくできる!)
己を鼓舞しながらコメットはイオスを残し、その場を後にする。
顔馴染みの店員が心配そうな視線を向けて少し気まずかったが、もう関係のないことだ。再びこの店に立ち寄ることはないのだから。
店の外に出ると、冷えた空気が頬に触れた。
コメットは青い双眸で空を仰ぐ。星は見えず、雪が降り出しそうな分厚い雲が覆っている。
このあたりは豪雪地帯で、一度降り始めたら雪解けの季節まで馬車の稼働が激減する。
今日まで初雪が待ってくれてよかった。
コメットは大きく白い息を吐き、駆け出した。ウェーブがかったオレンジ色の髪が、暗闇の中で炎のように揺らめく。
(急がなきゃ。立ち止まって泣いてる暇なんて、ないんだから)
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