絶望の果て、木こりの泉に落ちてみた
森の奥、ゴブリンの死体が散乱し、血の匂いが鼻をつく。カイトは木々の間で膝をつき、息を切らしていた。
背負う荷物の重みが肩へ食い込み、ボロボロの剣を杖代わりに、何とか倒れ込みたい欲求を抑えつける。
「カイト! 右だ!」
仲間の叫び。カイトは懸命に剣を振るが、刃が空を切る。
ゴブリンの爪が仲間の肩を裂き、叫び声が森に響く。「くそっ!」カイトは力を振り絞り突進するが、足が木の根に引っかかり転倒。背負っていた荷を盛大にぶちまける。その隙にゴブリン達は茂みの奥へ逃げていった。
「カイト! 何やってんだ!」
レオンの怒声が雷のように轟いた。
戦いが終わり、森は静寂に沈む。
大きな荷物を抱えての戦闘は細く貧相なカイトには文字通り荷が重かった。仲間が肩を押さえ、呻くのを申し訳なさそうに見つめる。
そんなカイトを横目にパーティーリーダーのレオンが剣についた血を振り払う。
カイトとは対照的に筋骨隆々な体躯に短く整えられた金髪。その鋭い眼光からは怒りの感情が読み取れる。
「足手まといが休んでんじゃねぇよ!」
レオンの怒声が森に響く。カイトは唇を噛む。どうせ俺は…役に立たない。
「危うく全員分の荷物を盗られるところだったじゃねえか!」
レオンが空の水筒を投げつける。鈍い音が響き、熱い痛みが走る。額から出た血が頬を伝っていた。
パーティーメンバー、ガイとリナがそれを見て呆れたように笑う。
「荷物持ちも満足にできんとはなぁ」
「こんな人、なんで拾ったんですか?」
ガイが眉をひそめ、リナが不満げに呟いた。カイトは俯き、震える拳を握る。
誰からも相手にされなかった自分を拾ってくれたレオンのパーティー。だが、戦闘が苦手なカイトは荷物持ちとして奴隷扱いだ。食い扶持を稼ぐため、どんな屈辱も耐えてきたが、それも限界に近い。
「黙ってんじゃねえよ!」
レオンのブーツがカイトの腹にめり込む。ゴホッと息が詰まり、胃が締め付けられる。続けてガイがフン!と声を上げ拳が叩き込まれる。
血反吐を吐き、のたうち回るカイトをリナは冷ややかな目で見つめている。
「リナ、こいつ死なない程度に回復し続けてくれ」
レオンの指示を受け、リナが杖を振ると、淡い緑の光がカイトを包んだ。
傷が癒え、皮膚が再生するが、痛みの記憶が骨まで響く。
「少しお灸をすえねえとな。ガイ、こいつ抑えといてくれ」
ガイがカイトを引っ張り上げ羽交い絞めにする。やめろ…やめてくれ…。だが、レオンのナイフがカイトの額に迫る。
「お前にピッタリの印をつけてやるよ!」
刃が皮膚を裂き、鋭い痛みが走る。ジリジリと血が流れ、カイトが呻く。レオンがナイフを動かし、額に「ザコ」と刻む。血が目に入り、視界が赤く染まる。
「これがお前の価値だ」
レオンが嘲笑う。リナが再び魔法をかけ、傷が塞がるが、「ザコ」の跡は薄く残る。カイトの手が震える。怒りが胸で燃えるが、力が出ない。俺は、無力だ…。
「ザコが。お前冒険者向いてねーよ」
レオンの放つ言葉は冷たい刃のようだった。侮蔑の言葉と共にカチャリと音を立て、いったんその場は矛が収められる。
「荷物は置いてけ。二度と顔見せるなよ、ザコ」
踵を返すレオン。胸が締め付けられる。反論しようにも何も言い返せなかった。
カイトは無言のまま背を向けて歩き出した。ガイとリナの笑い声が背中に刺さる。どうせ俺は…。噛みしめた唇は血と涙の味がした。
埃っぽい石畳を踏みしめ、カイトは街を彷徨う。夕陽が通りを赤く染め、冒険者たちが囁く。
「あいつ、またやらかしたってよ。」
知らない男がニヤニヤと笑う。
「よく続けてるよね、あんなになってさ」
女の声が追い打ちをかける。カイトは隠すように額に手を当て、視線を避ける。良く続けている…それも今日で終わりかもしれない。
逃げ込むように酒場に入る。薄暗い店内、酒の匂いと人々の談笑が入り混じる。カイトは隅の席に座り、テーブルに突っ伏す。
レオンの「ザコが!」の罵声が頭に響く。額の痛みがうっすらと残っていた。
「なあ例のきこりの泉ってやつ、知ってるか?」
隣の席の冒険者達の会話がカイトの耳に入った。カイトは顔を上げる。
「森の奥さ。木こりがボロボロの斧を落としたら、銀と金の斧になって返ってきたってよ。願いを叶える泉らしいが…何かを失うこともあるらしいぜ」
カイトは鼻で笑う。馬鹿らしい…そんな都合のいい話、あるわけない。
だが、心の奥で何かが引っかかる。ボロボロの斧が金になる? なら、こんな役立たずでダメな俺なら…。
「そんなこと、あり得るわけないだろ」
信じたい心と裏腹にカイトは呟き、酒場を出る。
夜の街はひどく冷えていた。一人で通りを歩くたび、嫌な記憶が頭を巡る。
レオンの罵倒、ガイとリナの笑い、街の視線が胸を潰す。どうせ俺はダメな人間だ。カイトは立ち止まり、かすかに残る額の傷跡をなぞる。
もう、何もかもどうでもいい。自分の人生に絶望するカイト。だが、泉の噂が頭をよぎる。
木こりの泉。馬鹿らしい噂だ。ボロボロの斧を金と銀に替えた、そんなもの信じられるか。でも、もし本当なら…?
いつの間にか、カイトの足は森の奥へ向かっていた。
夜風が冷たく頬を撫でる。カイトは拳を握りしめ、暗い木々の間を進む。
額の傷が疼き、再び辛い感情が心に浮かび上がる。
「もう、こんな自分はいらない…」
カイトは呟く。泉の噂が頭をよぎる。馬鹿らしい、ありえない。だが…。
森の奥で木々が途切れる。月明かりの下、青く光る水面が現れる。噂の泉だ。
暗鬱とした心に、微かな火が灯る。どうせ俺はもう失うものなんてない。カイトは剣を地面に突き立て、泉の縁に立つ。
水面が揺れ、ぼやけた自分の顔が映る。ぼさぼさの髪にやつれた目、乾いた血の跡が残る頬。額にうっすらと刻まれた二文字。
疲れ果てた表情を浮かべる自分の顔が心に追い打ちをかける。
「もう…どうせこのまま終わる人生なら…」
カイトは目を閉じ、泉に身を投げる。水面が波紋を広げ、鏡のように写し取られていた月が揺らぐ。
体がゆっくりと沈み冷たさが全身を包んでいった。意識が段々と泉に溶けていく。
カイトの心が呟いた。どうせこのまま生きていても…。でも、もし、泉の力で生まれ変われるとしたら…。もう、こんな人間でいたくない。強い自分、に…。
水の底で、声が響く。低く、澄んだ、まるで泉そのものが囁くように。
「あなたは愚鈍で貧弱な、地位も富も人望もない者ですか?それとも聡明で屈強な、権能と財と名声を持ちし者ですか?」
カイトの意識が揺らぐ。聡明で屈強? 俺が? 馬鹿な…そんなわけ。泉に落ちたのは愚鈍で、貧弱な、地位も富も人望も、何もない人間、カイト・アインザムだ。
カイトは正直に言葉を思い浮かべる。
「あなたは正直者ですね、褒美に願いをかなえて差し上げましょう」
褒美?願い?何を言っているのかわからなかった。自分の人生に嫌気がさして、終わらせたくて来たんだ。望みなんてない。そう…だったよな?
カイトが思いを巡らせていると、再び何処からともなく声が聞こえてくる。
「願いそのものが重要なのではありません。大切なのは意志。あなたの意志は何ですか?」
俺の意志…?カイトは改めて自身に問いかける。
最初は…もうどうなってもいい、こんな人生なら終わってしまっていい。そう思っていた。
だが、違う。こんな自分を俺は変えたい、こんな人間でいたくない。強い自分になりたい!それが俺の意志だ!
突然、熱い衝撃が体を貫く。心臓がドクンと鳴り、骨が軋む。薄れていた意識は鮮明になり、呼吸ができない苦しさも気がつけば消えていた。
水面を突き破りカイトは目を開ける。視界が鋭い。水面に映る自分の姿を見て、カイトは驚嘆する。
黒い毛皮、鋭い爪、赤く燃える目。黒狼だ。
「俺は…?これが…俺?」
声が唸り声に変わる。
体が軽い。力が湧き、爪が地面を削る。胸の奥で何かがざわめき、レオンの顔が浮かぶ。「ザコが!」あの屈辱が、獣のような怒りに変わり、カイトを突き動かした。
地面を蹴る。木々が霞む速さで疾走する。爪が岩を切り裂き、唸り声が森に響く。この力であいつらに復讐を…!
今にも自我を失いそうな最中、突然草むらがガサッと揺れた。
カイトの耳がピクリと動く。するとそこから小さな影が飛び出した。ゴブリンの子だ。ボロボロの布をまとい、震える目でカイトを見る。折れた角が月光に折れていた。
「ひっ…! た、助けて…!」
ゴブリンの子が声を上げる。カイトの爪が上がる。
獣性が唸り、壊せと叫ぶ。だが、子の怯えた目がカイトを刺した。頭の片隅に残った理性がストップをかける。
俺は…人間だった…。振りかざした手が寸前で止まる。先程までの獣性が薄れ、カイトは段々と冷静さを取り戻した。
自身の凶悪な手を見つめて変化を実感する。恐ろしい…。何の疑問もなく受け入れてしまったが、俺はモンスターになってしまった。
精神にも影響を受けており、凶暴性が増し人間性が薄れているように感じる。カイトは息を吐き、獣性を抑える。
自身の変化に思いを巡らすと額の傷が疼いた。無力だった自分と、子の震える姿が重なる。
「…お前は?ヒトリか?」
カイトの声は低く、唸るようだ。モンスター化した影響だろうか。どこか言葉もたどたどしく、単語がはっきりと出てこなかった。
ゴブリンの子がコクコクと頷く。
「エ、エメ…仲間、探してる…怖いよ…」
「エメ?」
再び頷く。このゴブリンの名前だろうか。
すっかり怯え切った様子で、頭を抱えて震えている。そんな様子にカイトの胸が締め付けられる。
幼いエメ姿を見ていると、衝動が薄れていった。モンスター化による仲間意識か、人間性の名残か、はたまたその両方か。
他者との会話は改めて自身を認識させた。冷静になって辺りを見れば自身が暴れたと思われる痕跡でいっぱいだった。
頭がおかしくなりそうだ。あのまま力に飲まれ暴走し続けていたらどうなっていただろう。今は理性を保ち、力をコントロールする必要がある。カイトはゴブリンの子を見つめながら思考を巡らせた。
「…分かった。仲間の元まで送ろう」
カイトが差し出した手をエメが恐る恐る握る。
「う、うん…」
カイトはエメを背に載せる。小さな体が震えていた。
「どっちから来た?方向は?」
ひとまず集落の場所を聞いてみる。
「…わからない」
カイトはひとつため息を吐く。だが、黒狼の視覚と嗅覚でエメが通って来たであろう道筋がはっきりとわかった。
「行くぞ」
勢いよく地を蹴る。木の枝を爪で裂き、月光の下を疾走する。エメが「ひっ」と縮こまる。
「しっかり摑まっていろ」
「ありがとう…狼さん」
カイトは小さく「ああ…」と答える。
ゴブリンに協力するなんて以前人間だった自分からは考えられない行動だが、今は他人を助けるといった人間らしい行動が衝動を抑え、人間性を保ってくれる気がする。
もちろん相手は他人でもなく、モンスター同士にそんなコミュニケーションがあるかもわからないが。
「狼さん、名前は?」
警戒心の薄いゴブリンもいたものだ。慣れてきたのかエメは無邪気に問いかける。
「…俺は、カイト・アインザム」
「カイト…?アイ…?長いね!変なの!」
エメがケタケタと笑う。カイトの胸が熱くなる。
たどたどしくも、会話をするごとに意識がはっきりとしていくのを感じる。ゴブリンと一緒なんて妙な気分だ。しかし、 こいつといることが、自身の理性を保ってくれる。
泉で起きたこと、なぜ自分はモンスターになってしまったのか。突然のことで頭がいっぱいだが、振り返るのは少し落ち着いてからにしよう。
カイトは一通り考えを巡らせ終えると、力をコントロールしながら走り続けた。
森の奥、岩壁に開く洞穴が見える。ゴブリンの住処だ。松明の明かりが揺れる。カイトはエメを下ろす。
「着いたぞ」
洞穴の入口にゴブリンが立つ。大きな角、鋭い目。エメが声を上げて駆け寄る。
「オドー!」
「エメラ、無事か…!」
エメはどうやらエメラという名らしい。オドと呼ばれているがおそらく親なのだろう。エメラを抱き、目を細める。
カイトが一歩進むとゴブリンが身構え、槍を握る。
「俺の名、オッド。お前、何者だ」
カイトはドキリとした。
「俺はカイト…。俺は…」
何者だという問いにカイトは口を閉ざす。自分が人間であったなどと言えるはずもない。
「狼野郎…!何企む!」
オッドの行動にエメラがぴょんとはね、目いっぱい大きく手を振った。
「オド、ダメ! カイト、優しい!」
必死に説得する娘にオッドの表情が和らぐ。
「…そうか」
オッドは特に礼を言うわけでもなく、カイトに一瞥するとエメラの手を引き洞窟へ向かった。
モンスターに無償の助けは理解しづらい。しかし、こうするのが一番人間らしいと思った。獣になりかかっていたあの時、人間であった自分を見失わない為に。
そんなことを考えながら二人の背中見送っていた最中、カイトはハッとした。寝床がない。
夜もすっかり更けた。今は身一つ、宿もない。モンスター化した今、贅沢は言わないが、せめて雨風はしのぎたい。
「待ってくれ!」
カイトの声にオッドの足が止まる。望みは薄いが今はこのゴブリンを頼るしかない。
「すまない。寝るところを探している。洞窟に入らせてもらえないか。」
オッドは振り向かずに答えた。
「…端使え、だが、見張り付けるぞ」
カイトは頷く。意外な了承に安堵した。
洞穴の中、苔むした岩に腰を下ろす。ゴブリンたちが松明を囲み、エメラがオッドに寄り添う。
夜はすっかり更けており、モンスターといえど睡魔はやってくる。カイトが目を閉じると、泉での出来事が蘇る。
あの夜、泉で黒狼になった。なぜだ? レオンの嘲笑、ゴミと罵られ投げつけられた水筒、額の傷が疼く。
あいつが俺をこうさせたのか?いや、違う…泉に飛び込んだのは俺だ。そして願った…?こんな人間でいたくない…と。
カイトの爪が岩を削る。この力は復讐か? それとも…? 頭が痛み、カイトは眠りに落ちる。
朝日が洞穴の入口を照らす。どこか騒がしい声が聞こえてくる。そんな最中、エメラがカイトのもとに走る。
「カイト!起きて!」
突然、叫び声が響く。洞穴の入口で炎が上がる。剣の音、カイトの耳が立つ。
カイトは飛び起き、入口を突き進む。朝日の中、ゴブリンが倒れ、血が地面を染めてる。
無残に散乱する屍の中央に金髪の男。レオンだ。剣を振り、ゴブリンを切り裂く。
「朝からゴミ掃除するのは気分が良いな!」
声を上げ笑うレオンに追随するガイとリナ。3人の前にゴブリン達はなすすべもなく倒れていった。
「レオン…!」
カイトの赤い目が燃え、額の傷が疼く。爪が地面を抉る。獣性が叫ぶ。
「カイト…! 人間が…!」
震えるエメラの声。カイトの心が軋む。
エメラの涙が、弱弱しいゴブリンの姿が、自分と重なる。かつての屈辱、嘲笑。過去のトラウマに飲まれないよう、カイトは自分に言い聞かせる。怖気ずくな、今なら…この力なら…!。
「エメラ、隠れろ!」
カイトの唸り声にエメラはビクッとすると、洞穴の岩陰に身を潜めた。
カイトのスピードが風を切り、姿を現す。レオンを前に戦闘体制に入る。筋肉が膨れ、肩幅が広がる。光る爪を構え、人狼の如くそびえ立つ。
「ウオォン…!」
唸るカイトにレオンが剣を向ける。
「なんだ!?コイツ!」
レオンの声に、ガイとリナが駆け寄る。
「はぐれ戦闘狼か、一匹ならば問題ないなぁ」
「こいつ程度じゃ私の魔法はかわせない」
仲間と陣形を組み、ニヤリと笑うレオン。あの時、俺をいたぶった笑顔。
レオンへの憎悪がカイトの体を動かす。コイツらが…憎い!獣性が叫ぶ。カイトの爪が振り上がる。殺してやる…!
カイトは唸りをあげるとその姿、獣の如く飛びかかる。レオン達が左右に別れて避け、カイトを囲むよう回り込む。
レオンが切りかかるも、爪が剣を弾いた。背後からガイが槍を突くが、カイトのスピードが躱す。
前衛二人がカイトの意識を引き、後方からリナが魔法を唱える。
「紅蓮の咆哮!」
呪文の詠唱にカイトはすぐさま反応し、獣ような炎の波を寸前でかわす。かすった炎が毛皮を焦がす。
「かわした…?!」
驚きの声を上げるレオン達。当たり前だ。パーティーにいた時何度も見た魔法、どんな魔法か知っていればかわすのは容易い。最初は反応が遅れたが、もう当たることはないだろう。
「リナ!もう一回だ!」
レオンの号令にリナが杖を振り、詠唱を始める。
「炎よ、集え…」
カイトの目が閃く。地面に転がるゴブリンの短剣を掴むとそのままリナへ投げつける。
刃こぼれした鉄が朝日に光り、リナの杖を弾く。詠唱が途切れ、リナが小さく悲鳴をあげた。レオンが目を剥く。
「ありえねぇ!戦闘狼にそんな脳みそがあるかよ!?」
ガイが槍を構える。
「明らかに詠唱を邪魔するような行動。コイツ…侮れん!」
カイトは次々と投擲し、その隙に接近する。黒狼の体が低く唸る。リナを守ろうとガイが前に出る。
「下がれぃ、リナ!」
ガイが投擲を弾く隙にカイトはタックルし黒狼の巨体が激突する。後ろにいたリナを巻き込み、近くの木に叩きつける。
大きな音を立て木が軋み、枝が折れる。リナがガイと木に挟まれ、衝撃で気を失う。
ガイがよろめき、立ち上がろうとする。
「ぐぅ…!なんて力だ…!」
カイトは地面のゴブリンの斧を拾う。刃こぼれした鈍い鉄。これでは到底切れない。だが、気絶させるには十分だ。
カイトは斧を振りかぶると、思い切りガイの頭に叩きつけた。 鈍い音が響き、ガイが崩れ落ちる。
倒れていく仲間に、立ち尽くすレオンの剣が震えていた。
「化け物が…!」
カイトの赤い目が光る。転がっていたガイの折れた槍の柄を掴み、ジリジリとレオンに迫る。
レオンは怒号と共に剣を振り上げた。カイトはレオンの剣をはじくと槍の柄を素早く振り下ろす。力を入れて振りぬかれた柄はレオンの右腕に直撃し、レオンが叫び声をあげ、剣を落とす。
「クソが…!戦闘狼が武器を使うなんて聞いた事ねえ…!」
カイトは低く唸る。
「レオン。俺だ…カイトだ!」
レオンの顔が歪む。
「は!? テメェ、今なんて…!?」
「この傷の借りを返させてもらう」
カイトの声は冷たい。額の傷が疼く。レオンにもわかるよう、カイトは鋭利な指先でトントンと自身の額を指した。
レオンが膝をつく。恐怖で顔が青ざめる。
「待て、カイト! 悪かった! 許してくれ! 頼む、命だけは…!」
負傷した右手を抑え、カイトの足元にひれ伏すレオン。媚びる声が震える。カイトの赤い目が細まり、冷たく吐き捨てる。
「ザコが…お前冒険者向いてないよ」
カイトの言葉に打ちひしがれるレオン。こんな奴、殺す価値もない。
そう言い残し、振り返ると、洞穴の奥、生き残った数名のゴブリンが震えていた。エメラがとっさに駆け寄ってくる。
「カイト…ありがとう…」
涙が頬を伝い、小刻みに震える小さな手が毛皮を握っていた。
カイトはエメラの頭にポンと手を置くと、生き残ったゴブリン達を呼び集める。
「こいつをどうするかは…お前らが決めろ」
ゴブリン達がレオンを囲む。その表情は怒りに満ち溢れている。レオンの必死に助けを求める声が恐怖の叫びへと変わり洞穴に響いた。
悲鳴を耳に、復讐を果たし興奮気味のカイトの息が荒くなる。獣性がまた唸り、頭の中で殺戮の号令がこだまする。殺せ…全員殺せ…!
「オドー…!オドー!」
エメラの声がした。我を失いそうになっていたカイトはハッとし振り返る。
散乱するゴブリンの死体の中に見覚えのある顔があった。エメラが覆いかぶさるように泣きじゃくっている。
オッドの名を何度も叫ぶ姿に、カイトは俯く。
「エメラ…」
カイトが寄り添う。すすり泣くエメラはポツリとつぶやいた。
「カイト…、エメ…一人になっちゃった…」
かける言葉を見つけられず、口を閉ざす。また、俺は…。守れなかった後悔と共に拳を強く握りしめる。カイトを見守るように、消えかけの松明の火がゆらゆら揺れていた。
焦げ臭い空気が漂い、ゴブリンの血が地面を染める。生き残ったゴブリン数名が洞窟の入り口に立っていた。
傷ついた体、折れた槍、燃えた布。レオンに虐げられていた頃の自分と重なる。
俺はあの時のままの役立たずだっただろうか。復讐を果たしたカイトだったが、 傷ついたゴブリン達を前に心は晴れやかではなかった。
「色々とすまなかった。俺はもう行くよ」
一刻も早くここを離れたかった。背を向け歩き出そうとすると、一匹のゴブリンが追いかけてきた。エメラだ。
「カイト! 置いてかないで!」
ボロボロの布が擦れ、折れた角が揺れる。カイトは目を細めて答えた。
「エメラ…仲間がいるだろ」
エメラが首を振る。
「オド、もういない。エメ、一人ぼっち。カイト、守ってくれた。エメもカイトと行く!」
カイトの胸が締め付けられる。俺もずっと一人だった。そして今も。エメラの気持ちは痛いほどわかる。しかし、連れていくわけには…。
エメラの言行に悩んでいると、ゴブリンたちが囁いた。
「エメラ、行け。仲間、少ない。オッド、もういない」
親のいないエメラを心配しての事だろうか。ゴブリン達は仲間意識が強いらしい。そういったところはまるで人間のようだとカイトは思った。
ゴブリンの老いた者がエメラに近づく。震える手で首飾りのような物を渡す。
「エメラ…持ってけ。オッドの…物、仲間の証だ」
首飾りは粗末な紐に石と牙が編んであり、オッドの遺品と思われる。エメラの目が潤む。
「オド…みんな…」
仲間…か。カイトはゴブリン達のやりとりを少し羨ましそうに見ていた。そんなカイトに一匹のゴブリンが近づき手を握る。
「カイト、お前も、仲間だ。エメラ、頼む…」
カイトは驚き、目頭が熱くなるのを感じた。
人間だった時、誰からも相手にされなかった自分が、仲間だと認められ、頼られる。種族は違う、ましてや相手はゴブリンだ。だが、カイトは嬉しかった。
「わかった。エメラを預かる」
カイトはゴブリンの手を握り返すと強く頷いた。
手を振り見送るゴブリン達、二人は洞穴を後にする。朝日が森を照らし、焼け焦げた匂いが薄れる。
カイトの爪が地面を削る。エメラが隣で歩く。
「カイト…どこ行くの?」
「…わからない、けど…」
預かるとは言ったもののどうしようか。正直に言うと自分の事でも頭がいっぱいな状態だ。
また冒険者に出会った時どうすればいい?できれば争いたくはない。エメラはなついてくれているみたいだけど、何処か別の安全なゴブリンの集落を探して任せた方がいいのだろうか。エメラの為にも…。
カイトは歩きながら思考を巡らせる。
深刻な表情のカイトを気遣ってかエメラが口を開く。
「カイト、大丈夫!エメも、強くなる!」
子供に気を使われてしまったな。ハッとした後、カイトは表情を緩めた。
そんなカイトを見て安心したのかエメラは言葉を続けた。
「人間、強かったね。ゴブリン…弱いから、みんな死んだ。人間みたいに…強くなりたい」
レオン達を前に、倒れていくゴブリン達の姿が心に残ってしまったのだろう。エメラはギュッと形見の首飾りを握りしめていた。
人間みたいに…か。カイトは苦笑いした。
しばらくあてもなく森の奥へ進んだ。昼の陽光が木々の隙間を刺す。戦闘の疲労がカイトの体を重くしていた。
汗が黒い毛皮を濡らし、埃がまとわりつく。喉がカラカラだ。エメラが額を拭う。
「カイト…のど、渇いた…水、探さないと」
尤もだ。しかし、近くに湧水などあるだろうか。
その時、微かにする水音をカイトの耳が拾った。
カイトは足を止め、辺りを見回す。急に立ち止まるカイトをエメラが不思議そうに見つめる。
もう一度耳を澄ませる。間違いない、こっちの方向から水音がする。
「こっちだ、近くに水がある」
エメラが目を輝かせる。
「泉! 水、飲める!」
小さな足が早まる。カイトが「待て!」と追いかけようとしたその時、一つの違和感が頭をよぎった。泉…?いや、まさか…!?
自然と早足になるカイト。エメラを追いかけていくと、木々が途切れ、開けた場所に出た。
「間違いない。ここは…」
カイトは息を吞む。青く光る水面。そこにはカイトを変えたあの泉があった。
近づくと、赤い目と黒い毛皮が映る。俺は…モンスターだ。改めて実感する。この泉、いったい何なんだろう。
エメラが屈み、水をすくおうとする。折れた角が水面に映る。
「お水だー!」
自身を移す綺麗な水面にはしゃぐエメラだったが、その時、湿った石で足が滑る。
「わっ!」
ドボンと泉に落ち、水しぶきが舞う。
「エメラ!」
カイトは勢いよく泉に飛び込んだ。水が冷たく毛皮を濡らす。エメラの小さな体が沈んでいく。カイトの爪が水をかき、なんとかエメラを掬い上げる。
その時、泉の水面が異様に揺れ、不気味な光がエメラを包んでいた。
これは…あの時と同じ?お伽噺のような現象を前にカイトは言葉を失い立ち尽くす。
「ゴブリンの子、あなたの願いは何ですか?」
泉の囁きが響く。カイトの心臓がドクンと鳴る。
エメラは首飾りを握りしめ、薄い意識の中つぶやいた。
「願い…?エメ、強くなりたい…。人間みたいに…」
エメラの言葉に反応するように光が強まっていき、みるみるうち姿が変わっていく。
角が溶け、髪がシルバーブロンドに変わる。肌が熱を帯び、緑の瞳が輝く、白いドレスが陽光に揺れていた。
その姿はどこからどう見ても人間の少女だった。面影は無く、小さく揺れる首飾りだけがそれを示していた。
「カイト?あれ、私は確か…」
エメラは目を覚ますと辺りを見渡す。たどたどしかった言葉はどこかはっきりとしている。
「エメラ…、いったい…」
カイトは目を丸くする。自身にも起こったこととはいえ、信じられなかった。
呆然と見つめるカイトにエメラが答える。
「夢で…泉が言ってた。『意志を示しなさい、強くなれる』って…でも、仲間が遠くなった気がする…」
エメラの涙が光る。
「もう…何も失いたくない!」
エメラの言葉がカイトの胸をうつ。俺も変わりたいと願った。失うものは何もないと絶望していた。でも、エメラは違う。大切な物を守るために変わった。
エメラが水辺に立つ。白いドレスをなびかせ、水しぶきと共に笑顔が弾ける。
「カイト…。私、強くなりたい。仲間を守ってあげられるくらい!」
「なれるさ、きっと」
カイトの口元が緩む。だが、泉の不気味な光が脳裏に残る。この力は…分からない。俺とエメラを変えたこの力。俺はどうしてこうなったのか。
エメラを救うため、再び飛び込んだが何も起こらなかった。恐らく、もう人間には戻れないのだろう。でも、エメラの笑顔があれば、心は人間でいられる。
二人は泉を後にする。どこかへと続くまっすぐな道。カイトの爪が地面を削る。エメラが首飾りを握る。
「仲間…みんなの事、忘れたくない」
カイトが応じる。
「大丈夫、忘れないよ」
軽やかな足音が響く。
「カイト、待って!」
白いドレスが木々の隙間を踊る。カイトの赤い目が柔らかくなる。さわやかな風が二人を押す。
カイトとエメラは歩く。全てを背に、新たな旅が始まる。どこへ行くのか分からない。
泉は言っていた。「大切なのは意志」だと。変わりたいという意志が自分たちを変えた。
どうしてこうなったのかわからない。でも、この力でどうしたいのかは、はっきりと言える。
守る強さを求めて。エメラの笑顔が、カイトの胸に小さな希望を灯す。
黒狼と人間の少女。モンスターになった少年と少女になったモンスター。二人の旅はまだ始まったばかり。




