息苦しい水槽の中から
職場でパソコンに向き合っている俺の耳が、不意になにかの騒ぎの音を捉えた。顔を上げて騒ぎの中心を探すと、同じ部屋の離れた席に座っていた同僚の男がいきなり立ち上がり暴れ出し、近くにいた他の同僚に抑えられたのが原因であるということが分かった。
俺と同じように騒ぎを見ていた隣の同僚が「また出たのか」と呟いた。
その言葉を聞きながら俺は捕らえられている男の方を見続ける。取り押さえられたときに殴られでもしたのだろうか、男の顔は所々出血をしている。
それなのに、男はどこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
『仕事に戻ってください』
男を眺め続けていると、突如としてそんな声が頭に響く。耳に埋め込んだ極小のイヤホンから届いた声だ。
これは全世界の人間全員が生まれたときに埋め込まれるもので、それぞれの国の中心にある巨大なスーパーコンピューターから指示が届くようになっている。
人々はこのイヤホンからの指示に従い生活をするのだ。
指示にさえ従っていれば幸福が保証されている。その上コンピューターはけして間違えることはなく、戦争の心配なども少しもないのだ。
それなのになぜか時々この指示に背いて物を壊したり人を傷付けたりする人が出る。
「要するに頭がおかしいのさ」
仕事が終わり退社しようとするときに一緒になった同僚がそう言っていた。
「ああいう魚と一緒さ。死んで当然だよ」
そう言って同僚が指さした先には水槽が置いてあり、その近くには魚が一匹落ちていた。どうやら水面へと飛び出した結果、水槽から机へと落ちてしまったらしい。
その日から俺は、晴れ晴れとした顔で取り押さえられている男の顔と水槽から机へと飛び出した魚のことが頭から離れなくなってしまった。
コンピューターの言うがままに安全な幸福を享受している自分は、水槽から飛び出したあの魚よりも上等な存在なのだろうか?
そんな思いが日に日に強くなり、仕事がだんだんと手に付かなくなっていった。
そんなある日。
「おい、最近バカに元気がないじゃないか。大丈夫なのか?」
そう話しかけてきた同僚を、俺は反射的に殴っていた。
瞬間、俺と同僚を中心にして波紋のようにざわりと動揺が広がる。
『いますぐに謝罪してください。いまならまだ許されます』
イヤホンからコンピューターの言葉が届く。しかし、俺は。
俺は近くのパソコンを掴むと、それを力一杯に窓へと投げつける。ガラスの割れる鋭い音を聞きながら、近くの椅子を、机を蹴りつける。
俺を抑えようと近付いてきた人も同じように殴り、蹴った。しかし数に勝てるわけもなく、すぐに押さえつけられてしまう。
数人がかりで押さえつけられた俺は、地面に落ちているガラスの破片に映った自分の顔を見た。
その顔は、机に落ちても後悔しない魚のようにとても晴れ晴れとした顔をしていた。
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