(1) 02
「ヒイズ先生、知合いですか?」
カツミはヒイズに尋ねた。目の前の男性はヒイズと背丈も同じくらいで、面差しがよく似ている。癖のある長い髪を一つにまとめているヒイズに対して、彼はヒイズと同じくくせ毛だが、毛先はうなじのあたりで揃えられている。顔立ちはよく似ているが、目つきは気持ちヒイズの方がたれ目である。
「ええ。私の三つ下の弟で、ミトムと言います」
やはりヒイズのことを兄と言っていた通り、弟のようだ。世の中ではよく似た兄妹というのは存在する物だが、二人は本当によく似ている。
「初めまして、私はミトム。この子は私が面倒を見ている子供で、ナバリと言います」
「初めまして、師匠の兄上殿。この藏閒で師匠と一緒に住んでいるナバリです」
ミトムに紹介され、ナバリという少年はペコリと頭を下げた。本当に礼儀正しい少年である。ミトムがしっかりと躾ているのだろう。
「……カツミ殿、申し訳ありません。私は少しミトムと話があります。先に馬車に戻っていてください」
「え? わかりました」
ヒイズは静かにそう言った。微笑みを浮かべてはいるが、自分の都合を通そうとする口調だ。カツミは一度ココノと視線を交わし、それから返事した。ココノは特に気にした様子を見せず、カツミが歩き出すと、小さく頭を下げてからカツミの後ろに控えるように歩いた。
(ヒイズ先生の弟か……)
カツミは歩きながら、ぼんやりと考える。ヒイズは普段宮の圖書寮に務めていた。つまり、陽妻に住んでいたのだ。眠っている間に移動していたが、地図で見た限りは、藏閒までの距離はさほど遠くない。だというのに、二人は思いもよらぬ再会というように見えた。特に仲が悪そうには見えなかったが、連絡は取り合っていなかったのだろうか。それにカツミ達はミトムに挨拶もしていない。まるで引き離されたようで、妙な感じだ。
「ココノも初めてお会いしました。とてもそっくりでしたね」
ココノは純粋な感想を述べているが、カツミはそんな気持ちになれなかった。記憶を失った自分に、知識を与えるためにヒイズがいるのだ。けれども、いまヒイズは教えることなく何かを隠そうとしている。
「いくぞ」
「あ、はい!」
カツミは自然と足早になった。年長者二人の内、片や自身の情けない所ばかりを目撃している女性。片やカツミの知識を補う役でありながら、事情も告げずに隠し事をする男性。まだ出会ったばかりの二人だ。これから少しは打ち解けていくのかもしれないが……。前途多難である。
「さて、クサカ、もう少ししたら水を飲もうな。また働いてもらわなければならないんだ。お前たちも、順番だ……」
アガタはニコリと優しい笑みを湛え、尾花栗毛の馬を撫でている。そういえばアガタが尾花栗毛の馬を、自分の馬だと言っていた。クサカと名付けているようだ。アガタは他の三頭の馬も愛でるように撫でていき、こちらに気が付いた。
「おや、戻ったのだな。……ココノ殿、カツミ、ヒイズ殿はどうした」
カツミはさりげなく、自分だけ呼び捨てであることに眉を寄せた。別に敬称を付けられるのも気味が悪いが、この扱いの差は微妙に気になる。
「先生は、弟に会ったので、少し話してからくると」
カツミはアガタから目線をそらし、両手に抱えた荷物を馬車に詰め込んだ。何となく不器用な性質にも見えないので、視線を向けずとも会話は成立するだろう。
「弟? 西方の領主邸にいるとばかり思っていたが」
「領主……? アガタは知っているのか?」
アガタが目を丸くして、カツミの方へ振り向いた。ココノは馬車の中に入り、積み込んだ荷物を整理している。さすがは采女と言うべきか、整頓上手らしく、ココノはてきぱきと買い込んだ保存食をしまっていく。
「ヒイズ殿の家は古い領主の家系なので、聞いたことぐらいはあるが……直接会ったことはない」
ヒイズは物腰柔らかく、宮に仕える青年であった。多少予想付いたことでもあるのだが、やはりそれなりの家柄だったらしい。何故そのような身分の者が旅に同行するのであろうか。
「やっぱりヒイズ先生は偉い身分なんだな」
「ん? ああ、そうか。お前は知らないのだな……」
アガタの物言いに、カツミは首を傾げたが、すでにこちらを向いてはいなかった。
「喉が渇いたのだな? すまないが、ここを頼む。彼らに水を飲ませなければ」
馬に水を飲ませるために、一頭ずつ水場へと馬を引っ張っていく。こちらを振り返りもしなかったので、すっかり聞き出す機会を失ってしまった。思わずココノを見ると、視線に気づいた彼女は、控えめにこくりと頷いた。
「ヒイズ先生は、西の大きな領主さまのご長男で、知識をつかさどる長官として、圖書寮の膨大な量の書物の管理を任され、多くの部下が指示に従いあちこちで働いているのです。“秀”という呼び名は、三年に一度行われる試験で、最も優秀な成績を収めた方の証なんだそうです」
「ヒイズは名前ではないのか」
皆がヒイズと呼んでいたので、てっきり本名だと思っていたのだが、どうやらココノの口ぶりでは、本名ではないようだ。
「宮に仕える方で本名を名乗るのは奴隷くらいでございます。よくわからないのですけれど、神話に出てくるくらい昔の習慣だとヒイズ先生が言っておりました。アガタさんの名前も、本名ではないと……思い、ます……」
カツミの眉が寄っていくので、ココノの語調も、だんだんと弱くなっていく。しかし聞いたのはカツミなので、自身がなくともココノに責任はない。
カツミが考えているのは、今も宮にいるであろう、ヤカタのことだ。カツミがヤカタに名を尋ねた時、“お館様”と呼ばれる彼が“ヤカタ”と名乗った。明らかな偽名であったが、もとから本名を名乗る風習がないのであれば、彼がカツミに対して不誠実だったことになるのだろうか。
「――俺は、何も知らないのか……」
ヤカタに対する不信感は拭い去れず、しかしこれでは、信用すべき相手の判断すらままならない。
ヒイズはカツミを、港町である水晃に連れていこうとしていた。港町ならば、様々な人が集まるはずだが、訪れる者は制限される。港町とは密航などを含め、船を使って様々な物が訪れる場所のはずだが、今現在は未蕾の問題から船での貿易は行っていないという。地図を思い出す限りだが、外部の者が水晃や藏閒を訪れるには、陽妻の城門を潜り抜ける必要があるはずだ。集まる人種は比較的まともな者達であろう。
人が多ければ情報が集まる。ヒイズはきっと、知識を与えるために、水晃に連れていこうとしているのだ。それならば、彼に与えられる知識を吸収することに、専念するべきだろう。
不意に人の気配を感じ、振り向くとヒイズがこちらに向かって歩いてきていた。
「遅くなって申し訳ありません」
――一人である。どうやら弟との話は終えたらしい。
「弟さんとの話はもういいんですか?」
「ええ。もう話は一通り終わりました。」
「話は終わっておりませんよ! 兄上!!」
カツミが訪ねたのは、ヒイズの後ろに弟というミトムの姿が見えたからだ。彼は小走りでこちらに向かっている。小走りの理由は、ナバリという少年を抱えているからだろう。
「……いいんですか?」
「私としては終わっているのですが……」
ヒイズはふうっと息を吐き、それから追いかけてきた弟に向き直った。カツミもココノも、ヒイズのそんな様子に困惑し、思わずアガタを見るが、彼女は呆れたような顔をしているだけだった。
「アガタはあれが気にならないのか?」
ちょうど馬を連れて戻ってきたアガタに尋ねるが、アガタはあまり気にしていないように見える。
「ん? ああ、ヒイズ殿の家は名家だ。いさかいはつきものだし、どこの家でもよくある話だ」
どうやらヒイズの家は厄介な家系のようだ。この様子ではヒイズもその弟ミトムも、厄介な家系の厄介ないさかいに悩まされているとみられるらしい。
「あれは……っ」
何事かを話しているヒイズたちの様子を見て、アガタの様子が変わった。一瞬ではあるが、驚きを見せたのだ。その様子を不思議に思い、カツミもヒイズたちの方を見る。小声で話しているらしく、話の内容は聞こえない。しかしヒイズの様子はそっけなく、青年は納得いっていないようだ。抱えられたナバリは戸惑ったように二人を交互に見比べており、間に挟まれている様子が非常に気の毒である。
「……放っておいていいのか?」
「いくら身内とて、“ヒイズ”殿に口で勝てるわけはないだろう。それに巻き込まれると厄介だ」
カツミの問いかけに対するアガタの返答は薄情だった。ココノも驚いたように口元に手を当てているので、アガタの様子を正常とは感じていないのだろう。ミトムは顔をしかめたり、青ざめたりと忙しく表情を変え、ほどなくして観念したように肩を落としながら踵を返した。どうやら諦めたらしい。一方でヒイズは、しょうがないと言いたげに息を吐き、それからこちらへと戻ってきた。
「申し訳ありません。長く実家と連絡を取っていませんでしたので、弟に文句を言われてしまいました」
ヒイズは少し罰が悪そうに手を頭の後ろに回し、苦笑を浮かべた。手にはめた枷の鎖は、相変わらずじゃらりと音を立てている。ミトムはそれに対して何か言っていたのだろうか。それとも、この枷は身内も承知していることなのだろうか。
「先生、また市を見ますか? それとも、今日はここまでにするか……」
カツミとしてはこれで引き上げると言われた方がありがたかった。聞きたいことがあるからだ。術についてはもちろん、この国の一般教養も教えてもらいたい。そうしなければ生きていくことが難しそうなので、できればこのまま勉強したいくらいである。
(優等生らしくて気持ち悪いな……)
少々背筋がうすら寒いのは、日陰にいるからではないだろう。好奇心は否定しないが、カツミ自身は、自分が勉強熱心だとは思っていない。
「そうですね……。どのみち帰りも通るのですから、水晃へ進みましょうか。この寒い中で野宿はしたくないでしょう?」
たしかに寒い。術によってか、馬車の中に冷気は入り込まなかったように思うが、それでも暖かな寝台に寝転がることができるならばそうしたい。思えば昨日から、泉に足を突っ込んで寝ていたり、気絶させられたり、外で寝て馬車で目覚めたりと、まともな睡眠をとっていないように思う。何よりも柔らかな寝台での目覚めは気持ちがいいので、もう一度くらいは体験しておきたいと思う。
「なら、出発できるぞ」
アガタは四頭の馬に水を飲ませ終えたらしく、馬車とつないでいた。世話をしてくれたからなのか、馬たちはアガタになついているように見える。アガタが愛おしそうに撫でているのは、あのクサカという尾花栗毛の馬だ。
「ああ、そうだ。一頭ずつ名を与えて、馬の主人を決めたほうがいいな。三頭には名前がないから、自分で名づけるといい」
アガタは四頭をそれぞれ馬車につなぎ終えると、御者台に腰かけ、それからカツミ達三人に視線を向けた。
「こ、ココノも、でございますか……?」
その発言に、ココノは驚いたように胸に手を当てていた。奴隷という彼女は、じぶんが馬の主人になるなど、考えたこともなかったのだろう。真っ赤になり、冷や汗まで流している。
「ココノ、俺は馬のことはよく知らん。先に選べ」
カツミがそう言うと、ココノはますます驚きをあらわに、きょろきょろと首を振って顔をあちこちに向けている。その様子が面白くもあり、ヒイズとアガタも促すように頷いていた。それに背を押されたように、ココノはおずおずと、真っ黒な青毛の馬に近づいた。馬は応えるように頭を下げ、近づくココノにすり寄った。
「……ハル、と名付けます。この子の毛を青毛と教えていただいたことがあるので」
「ヒイズ殿の教育の賜物か? 良い名だな」
少し照れくさそうに告げたその名に、アガタが感想を漏らした。その言葉を聞いたココノはさらに恥ずかしそうに両頬にお手を当てた。真っ黒ではあるが、青という名の馬に、ハルという青い名を与えた。たしかにいい名だ。カツミも負けじといい名を考えようと思い、馬に向き直ったが、月毛の馬にも、鹿毛の馬にもいい名が浮かばない。ヒイズの方をさりげなく見ると、鎖の音を上げながら手で促した。先に選べと言うことらしい。
「……名か」
再び馬を見る。なんとなく、色合いは鹿毛の方が好みなので、触れてみる。よく手入れされているようで、固い毛が心地よくて美しい。
「レイ」
その毛並みの美しさから、“麗”という言葉が自然と出てきた。美しい者を表す“麗”の字は鹿に由来する。鹿毛が美しいのだから、レイでいいだろう。これ以上考えるだけの知識が、カツミにはない。
「二人ともいい名を与えましたね。では私はこの月毛の馬を……。目がやや細いですね。イズルと名付けましょう」
ヒイズは月毛の馬に、目が細いことからイズルと名付けた。月が出ると書いて朏なので、そのような名になったのだろう。面白いことを言った者が勝ちというわけではないが、何となく大喜利をしているようだ。これで四頭の馬に名がついたことになる。
「クサカ、彼らの名が決まった。これからも仲良くしてもらうのだぞ」
アガタは御者台から馬の背を軽くぽんと撫で、馬はぶるると小さく返事した。あまり意識してこなかったが、本当に頭のいい生き物のようだ。
アガタの尾花栗毛の馬がクサカ。ココノの青毛の馬がハル。ヒイズの月毛の馬がイズル。そして、カツミの鹿毛の馬がレイ。
「クサカ殿は天馬と名高い駿馬です。他の馬もよい刺激となることでしょう」
「天馬?」
「足の速いすぐれた馬を駿馬と言いますね? この上ない駿馬を天馬というのですよ」
カツミが聞き返したので、ヒイズが微笑みを浮かべ説明してくれる。ふと視界に入ったココノも納得したように両手を合わせていたので、彼女も知らなかったのだろう。
「それでは参ろう」
全員が馬車に乗り込んだことを確認したアガタが、機嫌よさげにそう言って、手綱を引いた。続く先は水晃である。
がたがたと音を立て馬車が揺れる。藏閒を出て半刻は経過しただろうか。整地された道ではあるが、やはり伝わる振動に、先ほどから尻が痛い。ふと、国が痩せているというココノの言葉を思い出した。意識して周囲を見渡せば、木々の表皮は乾き、高く伸びた樹木は少ないようだ。そういえば、カツミが目を覚ました森では、帷のように蔦が樹木に絡んでいた。あれでは陽の光を取り入れることもできなかっただろう。大地が痩せると植物まで生存競争を始めるらしい。
相変わらず空気は冷たく寒いのだが、先ほどから風はやや弱まり、藏閒に入る前に比べれば、幾分すごしやすくなっている。
「カツミ殿、アガタ殿、干し肉です。口寂しいでしょう」
帷が開かれ、ヒイズが顔を出した。そして金属音と共に、まるで乾いた樹皮のような物を差し出す。
「ああ、助かる」
「あ、ありがとうございます」
礼を言って受け取り、アガタはそれをためらいもなく口に入れた。一方でカツミは、訝しげに受け取ったそれを眺めている。アガタが口に入れたので、食べ物なのだろうが、初めて見るそれは、おおよそ食べ物に見えない。鼻を近づけると、意外なことに香草のいい匂いがした。もっと生臭い物かと思ったのだが、匂いは食欲が減退するようなものではない。
少しだけ口に入れて噛んでみると、かなり硬かった。少なめなつもりで口に入れた量が多すぎたらしく、噛み切ることすら一苦労である。だが、噛むたびに肉に染みついた味が、唾液に染み出し、その味を何度も飲み込む行為は癖になる。何度か咀嚼するうちに、肉の繊維に沿って、割くようにすれば、食べやすいことにも気が付いた。
「これが干し肉か……」
「軍用の物はもっと硬くて、長めに燻しているから、口の水分を一気に持っていかれるぞ」
ぽつりとこぼしたカツミの言葉に、アガタが口を開いた。軍用とは言うが、戦う時に水分を奪うようなものを食べるのかと疑問に思う。もしかしたら保存に重きを置いているのかもしれないが、腐ったものを口にして、体調を崩すことこそ問題ということであろうか。
カツミは相変わらず御者台に座り、アガタに話しかけずにいた。しかし口を開けば会話が成立しているので、意外に相性は悪くない。二人とも饒舌ではないので、会話はさほど長く続かず、綺麗に整列して馬車を引いてくれる馬の後姿を眺めていた。なんとなくではあるが、自分が名付けたというだけで、鹿毛のレイを贔屓目に見てしまう。
「そろそろ外壁が見えることですかね?」
話が途切れたところで、再び帷が捲られ、ヒイズが顔を出した。おそらく話を聞いていたのだろうが、別に聞かれて困る話でもないし、盗み聞きしなくとも聞こえてしまう距離だ。
「外壁?」
「海で獲れた物を町から出すのならば、それを把握する必要があります。そこで街の入口に監視が置かれているのです。海岸も軍の巡回があります」
それも、食料庫とされる藏閒を守るためであろう。食料というのは、人が生きていくうえで最も大事な物だ。人というのは適応力があり、どれほど贅沢な人間も、雨風しのげる場所ならば、どこでも暮らせる。眠たくなれば寝ることができる。しかし食事は摂らなければ死んでしまう。だからこそ、食物を守ることは、国が第一にすべきことなのだ。
「水晃は藏閒以上に人が多いです。治安の悪い地区もあるので、気をつけてください」
ヒイズの言葉に、カツミは頷き返した。
「いい宿を教えてくれ」
街の外壁は思った以上に巨大で、そして思いもよらなかった形をしていた。外壁という言葉通りに、港町 水晃はぐるりと壁で囲まれている。しかしその外壁というのが、土地の形状を利用したもので、また特殊であった。
ヒイズが言うには、水晃は丘の麓にある港町で、その丘をぶち抜くように隧道が彫られている。水晃に入るには、その隧道を通る他ないらしく、城壁も丘を沿うように作られているのだ。隧道の両側には、役人と思しき兵が槍を持って立っている。穂の部分に長い刃が付いており、手入れされた刃が光を反射している。アガタはその者に、通行料と思しき黒くて薄い石を四つ差し出し、それからさらに白い石を取り出した。
「おや、ありがてえ。心づけですかい」
そう言ったのは、門に立つ兵だ。目つきが悪く、茶髪に同じ色の目はあまりに平凡な、藏閒でも比較的見かけた特徴だ。しかし髪はくしゃくしゃで、どこかくたびれた印象を受ける。通常なら近づきたくない人種である。軽薄な態度はあまりに不快で、カツミは目つきの悪い男を睨みつけた。しかし男はそんなカツミに気付くことなく、調子のいい様子で、悪びれもせずに石を受け取った。
「まあ、いいや。宿でしたら、何件かありやすが、白魚亭がデケェんでいいんじゃないですかい?」
「そうか。白魚亭、だな?」
アガタは念を押すように確認し、もう一度手を差し出した。親指と人さし指で石をつまんでいるようだ。
「おっ、まだくれるんですかい? ありがてえもんです。ささ、街の中に――っ!!」
突然乾いた音が響いた! 男は醜い声を漏らし、殴られた勢いのまま門柱に背中をぶつけ、それからもたれかかりながら、顔を押さえた。手のひら全体で鼻を覆い、うっすらと涙を浮かべながら、殴りつけた本人であるアガタを睨みつける。
「アガタ……?」
カツミは思わず呟いた。まさかアガタが、そのような行動に出るとは思わなかったのだ。つまんだ石はそのまま握りこみ、男の顔面を殴りつけた。多少(あくまでもカツミの中では)傍若無人の印象はあるものの、善人なのだろうと思ってはいたので、その行為は意外であった。
「いかに傭兵と言えど、規則に従わぬならその首はないぞ」
どうやら男は傭兵だったらしい。軽薄な態度はアガタも気に食わなかったのか、かなり上から物言いだ。男の態度は確かに好ましくはないので、少々同情するものの、擁護しようとは思わない。
「どうなさいましたか……っ」
帷が捲られ、今度はココノが顔を出したが、殴られた様子の男を見て察したのか、一度心得たように目を伏せ、すぐに馬車の中に引っ込んだ。カツミはココノが怯えるような気がして、内心やや慌てていたのだが、杞憂だったらしい。
「お前、何しやがる……!」
「立っているだけで給金を得ている上、心付けで設けているのだろう。門番が道を聞かれた際の金銭のやり取りは禁止されている。余計な無駄口で死ぬのも馬鹿らしかろう」
「クッ……!」
アガタの口ぶりから、男が違法行為を行っていたことと、それを取り締まっていたことはわかった。傍若無人な態度に見えたが、武人として仕事をこなしていたらしい。……それにしても乱暴すぎる気がしないでもない。
「こっちから石を渡していたぞ?」
しかしこちらから石を差し出したことが事実だ。だというのに取り締まってもよい物なのだろうか。
「規則なのだから、断るだけのこと。一枚目を懐に入れた時点で、この者は金で不正を働く可能性があることを示し、さらにもう一枚をためらいなく受け取ろうとしただろう。職務質問まで省かれてしまっては、無法者が出入りする」
なるほど。どうやらこの人相の悪い男を試したということらしい。そして男は見事に引っかかってしまい、制裁を受けたのだ。一連のやり取りにも意味があったらしい。
カツミは反射的にのけぞった。怒りをあらわにした男が槍を振るったのだ。しかし、その穂には刃が付いておらず、柄の部分から、不揃いな繊維が飛び出している。
「……化け物か」
ちなみにこれはカツミの言葉である。隣のアガタは何故か槍の太刀打ちから先を握っており、わずかに残った柄の部分からはやはり、木の繊維が不揃いに伸びていた。カツミも、槍が降られた時に、アガタが太刀打ちを握り、柄を折ったことには気付いていた。頭では分かっているのだが、理解が及ばない。武器なのだから、そう簡単に折れることのないよう、丈夫に作られているはずだ。それがアガタという女性の片手で折られている。男が振るった槍の勢いを活かしたにしても、いささか度が過ぎている。
「ガッ……!?」
アガタは何も言わずに、男が手に持つ柄を押すことで男の喉元を突き、男はヒュッと息を漏らして気を失った。
「そこの」
「は、はい!!」
声をかけられ、もう片方の門柱の前に立っていた男が、慌てたように返事した。こちらも傭兵らしく、無精髭が目立ち、ややくたびれた印象だが、アガタに沈められた男ほどに人相が悪くなく、おびえた様子を見せている。
「このような者を街の入口に配置するなど言語道断。上の者に伝えよ」
「す、すぐに!!」
男は逃げるように、慌てて隧道の奥へと駆け出し、カツミたちはその場で待機することとなってしまった。
「……どういう力をしているんだ」
「鍛えているからな」
……どういう鍛え方だ、とは聞かなかった。この口ぶりでは、聞いたところで「普通だ」とか「毎日の鍛錬」と言われそうだ。定型文で語られるのは、カツミとしても不本意である。
「アガタ殿は容赦なしですね」
ヒイズが帷をめくり、顔を出した。容赦なしというが、敵に情けをかける類の人種には見えないので、わざわざ言うことでもないように思う。
「騒いですまないな。だが、どうせ治安維持のために集めた無頼漢だろう」
どうやら定職のない者を傭兵として雇い、無頼漢が起こす犯罪を減らしているということらしい。
「職を失えば結果的に治安が悪くなるんじゃないのか?」
職のない者を傭兵としているのならば、解雇したときに問題が生じるであろう。カツミがそう考えるのも当然である。しかし二人は首を振った。
「本来ならばそうなのですが、あのような者が町を守っては、もっとよくない者を招き入れることとなるでしょう。これが正しい対応なのですよ」
「そういうことだ」
ヒイズの言葉にアガタは苦笑を浮かべ、それから帷の奥に目を向ける。するとヒイズも心得たというように頷き、中にいるココノを手招きで呼び寄せた。
「先生、お呼びでしょうか」
帷越しの声はくぐもっているが、それでも話している内容はわかる。ヒイズが帷を大きく開けると、ココノは丁寧に礼をしてから顔を出した。
「役人が来ます。アガタ殿が対応しますが、カツミ殿は中に入ったほうがよいでしょう。その容姿は目立ちますから」
ヒイズの言葉を受け、カツミはゆっくりと立ち上がり、馬車の中へ入った。ココノは、ヒイズとカツミに頭を下げ、入れ替わるように外へ出る。
「なぜ、ココノを?」
「彼女は虐げられる可能性のある身分です。カツミ殿のように仕立てのいい服を着ている者を差し置いて、私と同乗していることは、ココノ殿の印象を悪くしてしまうのですよ」
そういえば、彼女は奴隷である。ヒイズもアガタも彼女に対する偏見がないようで、カツミにはどれほど虐げられると言うのか、想像もつかない。しかしこのように気を遣うということは、ヒイズやアガタの方が少数派なのだろう。
カツミは言いようのないやるせなさに、今日何度目かの溜息を吐いた。
無頼漢をゴロツキ。この言い回し結構好きです。