(0) 03
「これがこの国の主要都市になります」
ヒイズはそう言って大きな紙面を持ち出した。机の上に広げられた地図の左上には、“北東晟冨大陸圖”と書かれている。
「……文字は、読めますか?」
「問題ないです」
ヒイズは遠慮がちに尋ねた。それはなかなかに無礼な言葉であり、本人も聞き辛かったのだろう。しかし、カツミの記憶が失われているのならば、文字を読めない可能性もあるので、あえて尋ねたのだ。
「“北東晟冨大陸圖”……。晟冨大陸というのか……」
カツミは、片隅にでも、その名に覚えはないかと記憶を探る。しかしやはり、その名は記憶に刻まれていなかった。まるで石膏で塗り固めたように、彼の記憶はまっさらだ。
「古の開祖が、“富”が“成る”ように願ってつけた大地の名ですよ」
ヒイズは「説明を続けます」と言って、白墨を取り出した。思い出されるヤカタの態度はどこか不自然であった。だからこそカツミは、送り出されるふりをして、自由になろうとしている。ヒイズが与えてくれる知識は実にありがたい。この国の地理が知られるのならば、迷って野垂れ死ぬということはないだろう。
ヒイズはおそらく、この世界の現状について教えてくれる。あのヤカタという男の思惑に乗って行動すれば、いずれ自分は迷い倒れてしまうだろう。それは目に見えている。もちろん簡単に死んでやるつもりなどないのだが、それでも、己自身が何処にいるのか、それを知る必要があった。
「まずこの国は、晟冨大陸の北東を占める、虹澑國と言います。人口は焼く四千万人ほどで、世界的に見ても大国の部類に入ります」
地図には『北東晟冨大陸圖』と印字されているが、これは虹澑國の地図なのだろう。虹澑國が真ん中にあり、他国は国境しか描かれていないのでおそらく間違いない。
「ココノたちが暮らすこの国には、それほどの方が日常を営んでいるのですね」
ともに席に着いたココノがしみじみと呟いた。純粋とでも言うべきか、あるいは単純なのか、ココノはなんにでも感動する人種のようだ。
「虹澑國……。光亂……。陽妻……。全て光ですね」
カツミは地名が全て光に関連していることに気がついた。おそらく意図して合わせているのだろう。地図に印字されている文字は、ほとんどが光に関連する字が使われている。
「お察しのとおり、この大陸は大きく陽を意味しており、特にこの国は光を表しております。大昔の宗教の影響という話ですが、今は廃れてしまい、あまり大きな信仰でもないので省きましょう」
「宗教?」
その単語には首をかしげた。国の名にまで影響を与えた宗教が、なぜ廃れているのだろう。
「気になりますか?」
「……いや」
何故か嘘をついた。気になったのなら尋ねればいい。だというのに、何故か聞くことに必要性を感じなかった。
「それは助かりました。実のところ、一般的な知識くらいで、宗教学には疎いものですから」
ヒイズは申し訳ありませんと言って、頭を掻いた、そんな彼の様子にココノがくすりとこっそり笑う。先生と呼ばれるような、頼もしい人物の、意外な一面を知ったというところか。宗教学ともなれば、それなりに専門的な類の学問だろう。いくら教師役とは言っても、彼が与えるべきは土地の知識だ。詫びる必要はない。そうは思っても、カツミは言葉を返さず、無言で頷くことにとどめた。
「では説明を続けましょう」
ヒイズは地図の右上の部分を指差す。そこには島が二つほど描かれており、そばに“零彗國”と印字されている。どうやら島国のようだ。
「これが……」
隣のココノが息を飲むが、カツミにはさっぱりだ。首を傾げていることに気がついたのか、ヒイズが一度頷き、口を開いた。
「この“零彗國”は、かつては『先を行く国』、或いは『自由の国』と言われておりました。しかしある時、得体の知らない獣が暴れ、それは零彗全土に広まり、やがて世界中に広まりました」
その得体の知れない獣というのが、ヤカタが言っていた“未蕾”なのだろう。ヤカタという男は、かなり多忙に思えたので、説明を彼に任せたということであろうか。何も知らずに旅に出されるのだと思っていたが、予備知識ぐらいは与えられるらしい。少しほっとしたカツミは、改めてヒイズという男の言葉に耳を傾けた。
「幸いなことに、我が国は大きな被害がなかったのですが、そのせいで各国から追求を受けまして……。それで我が国が戦人を救世主として迎える儀式を行うこととなったのです」
「俺は外交手段というわけですか」
少し口調を厳しくすると、隣のココノが慌て出す。ココノはカツミの下僕であると語りながらも、何年も宮に仕えているからなのか、あのヤカタに考えがよっているのかもしれない。ヒイズは少し気まずそうに、曖昧な笑みを浮かべてから、再び口を開いた。
「……ここが現在地、我が国の首都になります」
虹澑國の中でも右端のほうにある印を指さすヒイズに、カツミと、それからココノまでが目を丸くした。印のそばには“陽妻”と少し大きめに印字されている。ここが主要都市ということは間違いないようなのだが……。
「敵の本拠地に近すぎる……」
地図を見れば、大陸の端にあるのがこの国だとわかるのだが、首都はそのさらに端の方に記されていた。さきほど外を見た時に海は見えなかったので、城壁は海とは逆方向にあるということなのだろう。
「本当です。今まで私たちは何事もなくすごしておりましたのに……」
ココノも感心したように呟いた、彼女の言う今までというのが、どれほどの時間なのかはわからないのだが、少なくとも、彼女が宮で過ごした時間というのは平和だったのだろう。
「以前はこの、内陸にある陽鵞と言う都市を首都としておりました。しかし未蕾は水か、或いは潮が苦手のようで、港町の一切が襲われておりません。そこで首都はこの水晃という港街を守護する目的で、現在の場所に移されたのです」
地図では首都の陽妻の西に、水晃という港町がある。港町は自然と人が集まり、物流も豊かで、文字通り国にとっての生命線だ。海から攻めてこなくとも、陸からならありうる。その陸からの敵を警戒して、城壁も大陸側に設けられているのだろう。
「ん?」
不意に、ココノが声を漏らしたので、視線をやれば、ヒイズは地図に何かを書き込んでいる。首都 陽妻と港町 水晃のほぼ中間辺りに×を書き、そこから線を引っ張った。さらに木炭で“藏閒”と書き加える。
「ここに、国の食料庫と言われる集落があります。何者からも守る目的で、公式の地図には記しません。当然藏閒の位置が書き込まれた地図が市場に出回ることもありません」
「水晃ではなくこの藏閒が生命線でしたか……」
難しい話になったので、ココノは意味がわからないと言いたげに首をかしげている。一方で記憶がないカツミの理解が早いことを不思議に思っているのか、ヒイズが時折驚いたように目を彷徨わせている。
「それで……俺は何処からこの国を出ればいいのですか?」
「カツミ殿、やはり……」
カツミが有無を言わさず尋ねると、緊張したのかヒイズは下唇を噛んだ。未蕾の本拠地である零彗ではなく、国からの脱出方法を訪ねたのだ。ヤカタの意に沿わない事をきっぱりと宣言している。
「カツミ様……」
不安げなココノの眼差しは無視する。彼女が罰を受けるのは気の毒なので、一応彼女の最低限の意志は尊重するつもりだが、だからと言ってヤカタの思惑通りに動くと言うのは癪に障る。
「……陽妻の城壁は、この辺りをちょうど弧を描くように、西側に作られています。出入り口は全て兵が見張っておりますので、こっそり抜けるというのはまず無理です。」
ヒイズは“陽妻”という文字のすぐ左側に、青の着色料を混ぜた白墨で、弧を描いた。次に地図の国境上に4本の線を引いていく。ほぼ等間隔に引かれたそれは、おそらく国を出る経路なのだろう。
「カツミ殿にはお館様の通行手形が発行されますので、公的な道を使った方が安全かと思われます。我が国と他国の国境は、山や谷が隔てられておりますから、他の道はむしろ危険でしょう」
「ヒイズ先生!」
ココノが咎めるように、彼の名を呼んだ。ヒイズはなかなかに話が分かる男のようだ。記憶のないカツミの境遇に同情しているのか、ヤカタのように自分をいいように使うつもりはないらしい。
カツミはそう思い、ココノについて考えてみた。彼女はヒイズを咎めたあたり、明らかにヤカタよりの思考だ。だと言うのに彼女には憤りや苛立ちは感じない。初対面での所業に対する罪悪感というわけではないのだが、それが彼女の持ち味ということなのだろう。いじめてはいけないというような、庇護翼を誘うのだ。
「海路は……進めないんですね」
「ええ。今の情勢、いくら未蕾が海から襲ってこないとはいえ、空は警戒が必要です。用心するに越したことはありませんからね。漁師以外は海に出ませんし、その漁船にも必ず用心棒が乗っているという話です」
「そんなに物騒な世界になっているなんて、考えもしませんでした……」
ココノののんびりとした発言に、少し呆れるカツミだが、頭を切り替える。どうやら陸路しかないらしいのだが、疑問が残ったからだ。
「海に出るのが漁師のみなら、貿易はどうなっているのですか? 地図を見たところ、二つの国と国境を隔ててますけど、まさかすべての物資が陸路で運んでいるわけではないでしょう」
ヒイズの言うとおりなら、貨物船も出ていないことになってしまう。先ほどこの国は大きな被害はないので、他国から追及を受けたと聞いた。つまり、それだけ未蕾の及ぼした被害に差があるということなのだろう。それならばこの国は比較的安全なのだから、他国に物資を輸出していてもおかしくない。さらに陽妻と水晃の間に食料庫となる集落があるのならば、その食料が国内に出ていく道があまりにも少なすぎる。貨物船がないというのはおかしな話だ。
「ああ、そういえば、術についても説明しなければなりませんね」
ヤカタも術という単語を使っていた。聞き流していたが、どうやらそれなりに重要な物らしい。少なくとも、国の貿易に関係しているのだから。
「術というのは、様々な効果を持つ印のことで、文を形成し、それを描き、読み解くことで発動します。貿易の物資も術で輸送しているのですよ。零彗の民も術によって逃れたと聞きました」
「読みとく……ですか?」
いまいちぴんとこない。印というからには文字とは違うのだろうが、どう違うのであろうか。分を形成することができるのならば、印と言っても文字に代替する物ではないのか。
「これは専用の道具を要しますので、後日改めて説明いたしましょう」
「後日……」
後日。ヒイズは確かにそう言った。カツミはさっさと地理について話を聞き、明日にでも出ていくつもりだったというのに、これでは彼の同行が確定してしまう。
「それは今……」
「なんですか?」
術について今聞くことは出来ないのか、そう尋ねようとしたが、ヒイズの有無を言わさぬ口調から、二の句が継げなくなってしまった。一見自分に同情しているように見えて、逃げ道を着実につぶしにかかっている。このヒイズ、なかなかに食えない男である。ふと見ればココノが目を輝かせて、機嫌よく笑っていた。
こうして国を出るつもりのカツミは、少しずつ世界救世の一行が出来上がっていくことを、不本意ながら感じてしまった。
「それでは、とりあえず地理について、今日はここまでにしておきましょうか」
ヒイズはそう言いながら講義に使用した白墨や札を片付けにかかった。気づけば布の貼られた窓の外は暗くなっており、壁に書かれた模様が光を発していた。おそらくこれが術なのだろう。ずっと圖書寮に籠っていたので、時間の感覚が狂ったようだ。食事は圖書寮で波牟を食べたくらいだった。別に腹が減っているわけではないので、不満はないのだが、少々口寂しい気もしてくる。
「ヒイズ先生、ありがとうございました」
ココノが丁寧に頭を下げるので、カツミもそれに倣った。記憶がなく、右も左もわからないカツミにとっては、非常に有意義な時間を過ごしたと言える。ヒイズはニコリと人のよさそうな笑みを浮かべて胸に手を当てる。相変わらず彼が動くたびに金属の擦れる音が聞こえたが、枷についてはとうとう聞けず終いであった。
圖書寮を後にしたカツミは、まだこの宮の構造を把握し切れていないこともあり、先ほど同様ココノの後ろをついていく形で、あてがわれた部屋へと戻った。
「それではカツミ様、本日はお疲れ様でした。おやすみなさいませ」
ココノは相変わらず丁寧に頭を下げて、カツミの部屋を退出する。部屋に戻ったカツミはすぐに寝台に寝転がってしまったので、そのままココノを見送った。ふと起き上ったカツミは既に閉じられた扉を見つめる。それを見るとココノを呼び止める気は失せたが、口寂しさを癒すために、飲み物を頼めばよかったと嘆息する。もう遅い時間なのだから、きっと彼女はこれから休む時間となるだろう。ココノはカツミに仕えることになったと言い、事実、今日一日カツミの傍らについていた。そんな彼女を呼び戻してこき使うと言うのもかわいそうな話だ。カツミは口の中の乾いた感覚を、唾液でごまかし、再び寝台に背を預けた。
そういえば、今日はずっと圖書寮にいたので、宮の中を見ていない。あのヤカタは、カツミが早く旅に出ることを望んでいたようなので、宮の中など知る必要もないということであろうか。
……そうかもしれない。
カツミは寝転がったばかりだと言うのに、両足を一度大きく上げ、それから飛び跳ねるように起き上った。そしてそのままの勢いに任せて、窓に歩み寄る。外が暗く、中は燭台によって明るい。窓硝子には金の髪の青年――カツミ自身が写っている。
カツミは窓の鍵を外し、それから窓枠に力を加えた。金具が錆びているらしいそれは、開くのにそれなりの力を要し、甲高い音を漏らす。
「よっ」
窓の枠に足をかけ身を乗り出して階下を覗き見る。それなりの高さだが、庇を伝えば降りることが出来そうだ。カツミは口角を上げ、それから真下にある窓の庇へと飛び降りた。建物の窓は全て出窓となっており、床板が外まで出ているので、手をかけるのは容易であった。そうして下へ下へと庇を伝っていくと、あっさりと脱出成功である。
「っと。……ん?」
タン、と鈍いとも軽いとも、なんとも形容しがたい音を立て、カツミは地に降り立った。空に照らす満月が足場を照らし、辺りは思っていた以上に明るい。だというのに、影が差した。カツミはそちらに目を向け、思わず眉を寄せた。
自分よりも大柄な影が、まるで威圧するように立っている。鋭いまなざしに射抜かれ、カツミはこのまま顔を合せなかったことにして、どこかに去りたい衝動に駆られる。もちろん、逃げ出すなどとみっともない真似をするわけにはいかず、実際には睨み返していたのだが。
「アガタ……」
カツミはヤカタには不遜な態度を取っていたが、ヒイズにはそれなりの対応であった。ココノは年下だが、アガタはヒイズ同様に年上である。にもかかわらず扱いに明らかに違いがあるということは、やはりアガタのことが気に入らないのだろう。もちろん、気が進まない所を意識を奪い、この宮に無理やり連れてきたのだ。睨まれて当然といえば当然である。
「名を覚えていたとは光栄の至りだ。……やはり抜け出したようだな」
「見透かされるほど、あんたと話した覚えはない」
「其方が単純というわけではないが、嫌がっているようだったからな」
カツミは一応ココノの子とも考えて、せいぜい宮の中を探検するか、少しだけ抜け出すくらいのつもりであった。
「まさか、このまま宮を出るつもりではあるまい?」
しかし彼女は、宮に来ることを嫌がったところしか見ていない。ヒイズとのやり取りを見れば、二人を邪険にしようとまでは、考えていないことも察することができる。しかしアガタはそんなやり取りを一切知らないのだ。察することなど難しい話だろう。おそらく、彼女はカツミが逃げ出そうとしていると思っているのだ。
「……だとしたら、どうするつもりだ?」
カツミはアガタの反応を見ている。少なからず恩のある彼女と、素直な態度で話そうというのも無理な話で、己の醜態のことで、多少根に持っていた。腹を割った本音で語ろうという気が、まるで起きない。
「考え直すことだ。いくら奴隷とはいえ、お前に仕える少女が苦しめば目覚めは悪かろう」
「奴隷?」
アガタの言う人物には思い当たらなかった。……というよりも、彼女が奴隷であるというようには思えなかった。
「本人から聞いてはおらぬか? ココノ殿が下級の采女だと。下級とは奴婢上がりのことだ」
「ココノが……」
たしかに彼女は下級の采女だと言っていた。下級というからには身分が低いということだろうと思っていたが、それが奴隷だという意味になど、思い当たりもしなかった。だがそう言えば、彼女は自分の名が仕えた歳で決まったと言っていた。それはこの宮にいる中で、名など必要ないということに他ならない。そしてその証であるというように、彼女には歳と同じ名が与えられた。名前を教えることで発生する契約があるのならば、それはすなわち、名前で人生が決まるということでもある。“ココノ”などと、奴隷といえば、彼女は名乗っただけで字を明かすようなものだ。
「奴隷なのに、采女なのか」
カツミの疑問も当然である。采女とは、身分の高い家から奉公に出る女官のことだ。奴隷が成れるものではない。
「何も知らぬように見受けたのだが、そうでもないらしいな。本来、王族の世話をする者は、領主の娘から選ぶ者なのだが、下の世話までさせるわけにもいかぬだろう? そこで城に仕える奴隷の中から、よく働く見目のいい者を采女として引き立てるわけだ。昔は女孺と言ったらしいが、最近では聞かんな」
「ココノはヤカタの世話をしているのか?」
話した限りでは無垢な少女であったが、そうでもないということであろうか。それならばココノがヤカタに傾倒していることも頷けるが……。いや、床の世話までしているのであれば、それはむしろ下級ではない采女にこそふさわしい仕事であろう。王族に見初められるならば、役割的に進んで行うものだ。ともなれば、ココノの仕事は伽のような物ではないだろう。おそらくもっと、不浄な世話のことであろう。しかしいずれにしても、年頃の娘にさせるには哀れだ。そこに違いはない。
「お館様は一時的にこの地を治めているからそう呼ばれているだけで、王族ではないぞ」
「は?」
明らかにこの宮で実権を握った人物だったように見えたのだが、にもかかわらず王ではないという。自分に危険な旅を命じながら、主君が顔を合わせないなど、ばかげた話だ。カツミの中でヤカタに対する不信感は既に芽生えていたのだが、さらにその後ろに渦巻く何か――国か、人なのかもわからぬモノ――に対して、怒りにも似た何かが芽生え始める。
「先王は革命家でな、非常に頭のキレる良き王だったのだが、未蕾によって鬼籍に入られた。当時王太子はまだ幼く、政のかじ取りなど到底出来ぬ状態だったのだ。そこで、成人するまで王太子は宮に不在の状態となった。どこにおるのかは私も知らぬが、必ず生きているという話だ」
しかし、その怒りはすぐに霧散した。王が殺され、王太子が幼いのならば、それも仕方がないということだろうか。しかし、あのヤカタに野心がないとも知れない。果たして真の王となる者を隠した腹の内は、いかなるものであろうか。
「いずれにしても、無断で立ち去るのはやめておくんだな。ココノ殿はもちろん、他にも其方に仕えるように命じられた者もただでは済まされぬよ。“死”など生ぬるいやもしれぬ」
ただカツミを逃すだけで、ココノやヒイズが拷問にかけられるということらしい。少なくとも、二人のことは好ましい人物と思っている。自分が逃げただけで苦痛を味わうと言うのはあまりに目覚めの悪い話だ。それならば、せめて宮を出るにしても二人が一緒でなければ―――と、そこで気が付いた。伴はもう一人いるはずなのだ。
「……なるほど。あんたが俺のもう一人の旅の伴か」
「よく気が付いたな」
「あんたが俺を迎えに来て、不意打ちの蹴りを受け止める程度には強い。ヤカタが俺に関わるように命じたんだろう」
目覚めた森で待ち構えていたアガタ。自分に仕えるよう命じられたココノ。知識を与える役目を受けたヒイズ。三人ともヤカタから命じられたという共通点がある。実際にアガタは“お館様”と言っていたのだから。
そういえば、あの森でアガタに出会う前に、人が葉を踏みしめる音を聞いた。あの気配は何だったのか。――アガタ、ではないだろう。アガタは羹を煮詰めていた。野菜を一度繊維が失われるほどに煮詰め、それからさらに野菜を投入したようであった。出汁は長時間煮込まなければならない上に、灰汁も掬わなければならない。あのような凝った羹を作っていたのだから、その場を離れることはしていないだろう。おそらくカツミが匂いに惹かれることを見越して作っていたのだ。
あのような森の中で、水場の近くにいながらその場を覗かない者はいないだろう。アガタが水場の近くを通りながら、カツミに気がつかなかったとも考え難い。露が落ちた滴、あるいは風で揺れる水面、水は音を立て、空気にその気配を伝える。水辺に人がいる状態で、武術を心得た者が気づかないわけがない。だからアガタは、カツミがいた泉には近づいてすらいなかったはずだ。
「どうやら、無断で宮を抜け出すつもりはなくなったようだな」
「別に、もともと抜け出そうとは考えていない。少し歩き回ろうと思っただけだ」
「わざわざ窓から飛び降りるという危険を冒してか?」
それには答えることができなかった。窓の外を覗いて、自然と足を踏み出してしまったが、思えばなぜそんな危険を冒してしまったのか。考えても答えは出てこない。
「ほら」
不意に、長い得物が投げられた。――棍だ。人一人の身長よりもずと長いそれを投げ、彼女も同じものを持っている。どこから出したのであろう。
「眠くないのだろう。付き合わないか?」
「……別に、構わない」
アガタのことは気に入らないが、だからこそ話に乗るのも楽しそうだ。見た所彼女に敵意はない。それならばいい時間つぶしになるだろう。
カツミはアガタとの手合わせを楽しそうだと感じた。己の好戦的な一面を、やはり冷静に受け止めていた。
松明の揺れる炎が辺りを照らす。東と西で、空の色が明確に違うことにも気付かぬまま、両者は武器を振るい続けた。尤も、仕掛けているのはカツミばかりで、アガタはその攻撃の全てをいなしている。
「そろそろ疲れが出てきたのではないか?」
「どういうわけか、高揚して疲労を感じない……!」
カツミは全力で棍を振るいながら、疲れたとは思わなかった。戦うことがただ楽しくて、目の前の相手を負かしたい一心で動き続けた。武人として高い実力を誇るアガタにとって、カツミの攻撃など素人同然であったが、それでももう何時間もこの状態だ。最低限の力で動いていても、さすがに疲れてきている。本職のアガタよりもカツミの体力が上ということなのか、それとも本当に高揚感から疲れに気が付いていないのか。いずれにせよ、長時間戦い続けるなどとは、不可能に近い問題だ。鍛えれば化けるに違いない。アガタは目の前のカツミの武術指南に、密かな期待を込める。
「やっ」
カツミが足元を狙えば跳躍で避けられ、喉元を突こうとすれば、体を捻り棍を交えて流される。アガタから反撃が来れば、カツミも器用に体をそらしたのだが、それはやはり武人の動きではない。それでも素人でここまでできれば上々だ。そういえば、アガタは知らないが、カツミは視力が高いのだ。動体視力もいいのかもしれない。その動体視力と相手の攻撃に、体がついていけるのだから、身体能力もそれなりなのだろう。
「もったいないな。私の部下ならば、よい武人になるだろうに」
「それはよかった」
その言葉の一瞬後、アガタに隙ができたように見えた。
「ふっ!」
カツミは容赦なく、アガタの腹に向けて棍を突き出す。
「甘い!」
しかし経験の差とでも言うべきか、棍はカツミの手から離れ、逆に喉元に突き付けられてしまった。
「っち」
カツミが舌打ちと共に両手を上げたので、アガタは棍を下ろす。すると彼も満足げな顔で、両手を下ろした。
「救世主殿、座ってみろ」
「名で呼べ。俺はカツミだ」
「そうだったな。カツミ、いいから座れ」
アガタは紅をさした形のよい唇の口角を楽しそうにあげた。カツミはいきなりの呼び捨てに少々むっとしながらも、大人しくその場に腰を下ろした。その瞬間、強烈に身体が脱力し、同時に瞼がひどく重量を増した。
「やはりな」
戸惑い驚くカツミに対して、アガタは愉快気だ。カツミは文句の一つでも言ってやろうと思ったが、立ち上がることができなかった。足が震えて、力が入らなかったのだ。
「高揚すると気が付かぬが、人の体は疲労すれば動けないものだ。これでも食べて、しばらくそのままでいるんだな」
アガタは、懐から取り出した小袋をカツミに放り投げると、先ほど弾き飛ばした、カツミの棍を拾い上げた。
「干し豆か」
「腐りにくいうえ、かさばらず、栄養価も高いのでな。兵糧とまではいかないが、ちょうど良い携帯食だ」
カツミはアガタの発言を気持ち半分で聞いて、干し豆を口に放り込んだ。塩水にでもつけていたのか、少々塩辛いが、噛んだ瞬間にじんわりとしたほのかな甘みが滲み出す。乾燥しているので、いささか口内にはきついが、汗をかいたので、かえって心地いい味だ。
鍛錬所は先ほどよりもさらに明るい。疲労した体を動かすことも億劫なカツミは、その場に寝転がり、明け行く空をぼんやりと眺めた。先ほどまで空はまだ濃紺色をしていたというのに、すでに東の空は薄紫色から橙色を抜け、水色を西に向けて浸透させていた。何となく好ましい色合いを目にしながら、瞼は徐々に下がっていく。視界が光を閉ざした時、足音を聞いた気がしたが、すでに意識を手放そうとしていたカツミが気に留めることはなかった。
カツミが178cmに対して、アガタは188cm。
大柄です。
次回はカツミ以外の視点になります。