(0) 02
ココノに案内を任せ、廊下を進む。途中に何度かココノと同じ衣装を身にまとった女性とすれ違い、その都度チラリと視線を向けられる。すれ違う者は暗い髪色の者が多く、どうやらカツミの容姿が珍しいらしい。同じ衣装を身にまとっているということは、おそらく彼女たちも、ココノと同じ采女なのだろう。裳裾を揺らしていると思ったのだが、よく見れば左右に一つずつ、後ろに一つで、合計三つの切り込みが入った、前掛けのような物を、袴の上につけているようだ。
「カツミ様、こちらの廊下の窓から、都を一望できるのです! どうぞご覧下さいませ!」
ココノが立ち止ると、元気よくこちらへ振り向いた。周囲に注意を向けておらず気にしていなかったのだが、どうやらこの建物は高所らしい。カツミは今、建物の二階以上の高さにいるのだ。
カツミは適当な窓に歩み寄り、硝子の向こうを覗き込んだ。その内心で、どのような景色が見えるのかと、わずかばかりに好奇心を疼かせていた。
「へえ……」
遠くに見える壁は、身を乗り出して目で辿れば、この建物に繋がっていることに気がついた。どうやらここは城壁都市らしい。そしてその壁の向こうには平原が続いていて、森林地帯が広がっている。そういえばカツミは森の中で目が覚めたのだ。もしかしたら、すぐそばの森林地帯だったのかもしれない。
「カツミ様、これがこの国なのでございます。世界は年を重ねるごとに痩せておりますが、それでも変わらず美しい国なのでございます!」
「痩せて?」
遠くを見るココノの視線に、カツミはもう一度、改めて窓の外を見つめる。城壁の向こうへ目を凝らすが、とても痩せているようには思えない。しかし思い返してみれば、森の中で目が覚めたとき、花木を見なかったし、獣の声が小さかった気がする。土地が痩せているということは、獣が少なくてもおかしくはない。緑豊かな土地に見えたのだが、もしかしたら何かしら、土地が痩せたというだけの何かがあったのかもしれない。
「痩せて……」
カツミは、自分が一体、何のためにここにいるのかわからない。過去は失われており、警戒心が高まっていた。とはいえ話を聞くことを拒むのは、少々大人気なかったかもしれない。カツミはもう一度、注意深く、城門の側や、その他の建物を見てみる。
「ココノ、あれは……教会か……。あの城壁の外にある大きな建物はなんだ?」
城壁と同じ色なので気がつかなかったが、よく見ると、砦の様な建造物がある。城壁にあまりに近い位置に存在することから、砦の用途で使われているとは思えない。しかしそれならば何に使われている建物なのか、少し考えても思いつかなかった。
「あれは収容所です。大罪を犯してしまった咎人が終身する場所だと言われております」
早い話が刑務所である。カツミはその意外な答えに、目を丸くする。目の前にいる少女は、明らかに無垢といったふうで、その言葉はあまりに似合わなかった。
「300年前まではそれより更に罪の重い者が、あの場所で一生を終え、死後肉体が朽ちてもあの砦から出られなかったと教わりましたが……」
いまでは、それほど重い罪を犯す者もいないので、終身刑の判決が下った者の、収容施設となっているらしい。違いは拷問があるか、或いはないか。そう答える少女を見て、カツミは目の前の彼女が、ただ無垢なだけではないと気づく。
収容所と言われれば、なるほど。砦に見えたこともうなずけた。罪人を逃がさず終身させるべく、堅牢な作りになっているのだろう。民が住まう城壁の内、外側ではその壁と同じく堅固なつくりの建物が、罪人を捕えていたのだ。逃げることも許されず、建物の中で多くの血が流れていたことだろう。
「あの、塔は、見張り塔か……」
城壁を目でたどると、高い塔があった。よく目を凝らしてみると、人の姿が見える。全員が何かを背中に抱えているように見えるが、あれは矢筒であろうか。それならば、何かを持っているように見えるのは、弓であろう。外を警戒する様子に、収容所に思いをはせ、記憶のなき異邦人がここにいるぞと、笑いを噛み殺していた。
「四人か」
「え? カツミ様はあの場所が見えるのですか? たしかに人影は動いておりますが…」
真ん丸な目をより真ん丸に見開き、ココノはいかにもというように驚いて見せた。どうやらココノには、見張り塔に立つ人物の数まではわからないらしい。この建物のことを、ココノは“宮”と呼んでいた。この宮から見張り塔は、それなりに離れているが、カツミはそこに人が何人いて、何か持っているということまで気がついた。
あまり意識していなかったのだが、どうやら自分は視力がいいらしい。カツミは己をそう分析した。
「あの、カツミ様……そろそろお館様のもとへ参りませんと……」
「あ、ああ……」
窓の外を見るように勧めたのはココノであったが、思った以上に興味深く眺めてしまった。それ故か、ココノは少し申し訳なさそうに眉を下げてカツミに声をかけた。さして気にすることではない。思わず返事をしてしまったカツミだが、やはり気が重い。返事を返した一瞬後には、鳥肌が立っていた。やはり己の本能に従い断るべきか。少し緊張した面持ちで、姿勢を正す小さな背中を見ると、とてもそんなことは言えなかった。
「お館様。青のココノでございます。ご主人様をお連れいたしました」
廊下を進み、いくつか角を曲がった一番奥の扉。その古い木の扉をたたくと、ココノは口を開いた。中からは何の言葉も帰っていないが、奥に彼女が“お館様”と呼ぶ者がいるらしい。名前の前についた色は、おそらく彼女たちの分類なのだろう。仕え始めた年齢で名前が決まるというのなら、彼女以外にもココノという名の者は、おそらくいるのだ。
「入りなさい」
扉に隔てられた向こうから、低い男の声がした。その声の感じから、壮年の男であろうと思えた。
「失礼いたします」
ココノは丁寧に軋む扉を開け、カツミに中へ入るよう促した。カツミは一瞬のためらいの後、わずかに埃の匂いを漂わせた、扉をくぐった。カツミの視界には、書類や竹簡に埋もれるように席に着いた男の姿が映った。鳥肌が立つ。
「おやおや、いらっしゃいましたか」
棚と書簡で埋め尽くされた窮屈な部屋で、窓からは仄明るい光が差している。窓硝子を見れば、少し曇っているようだった。掃除はしているのだろうが、あまり開閉していないのか、金具がわずかに錆びている。紙を虫に喰われぬように、樟脳でも使っているのか、ツンと頭の芯に訴えかける芳香が鼻を掠めた。息が詰まりそうだ。カツミは眉を寄せる。そんな部屋の中央、申し訳程度に机が置かれている。大量の書類が積み重ねられたその隙間―――男がいた。
「どうかなさりましたかな?」
「……いや」
男は立ち上がると、柔和そうに目を細めた。低い声は穏やかに響き、どこかこちらを気遣う空気が感じられた。一見無害な男だ。先ほどの嫌悪感は一体なんであったか、内心の動揺を悟られぬよう、カツミはわずかに視線をそらす。
男が仕事をしていたからか、机の上の筆箱には、墨のついた筆が置かれていた。上品でありながら少し縒れたそれは、相当使い込まれているのだろう。六十を過ぎたとみられるこの男が扱うにふさわしい物に見えた。
不思議に思う。なぜ己が彼―――おそらくお館様とやらだろう―――に、会いたくなかったのか。目の前にいる紳士に不審な点はない。むしろ人柄の良さが口調と態度に出ているではないか。ココノの様子を見ても悪い人物ではないはずだ。
「申し訳ありません。忙しい身の上でありまして、このとおり、御足労を願った次第でございます」
「……そうか」
先ほどから毛嫌いしていた反動か、カツミの返答はひどくぶっきらぼうだ。丁寧に頭を下げる様子に、それ以上言葉が浮かばない。
「…何から説明致しましょうか」
少し申し訳なさそうな口調だ。どうやら所在なさげなのは、どちらも同じらしい。男の様子に、カツミは尻を叩かれた子供のように、ピンと背筋を伸ばした。
「目覚めた時に森にいた。俺は召喚されたと聞いたが、いったいどこから喚ばれた?」
男が困惑した――ように見えた。先入観をぬぐい切れておらぬからか、紳士然とした男の一挙一動を穿った目で見てしまう。
「どこから……? 申し訳ありませぬが、どこから喚ばれたのかは、私にもわかりませぬ。あなた様にはわからぬのでしょうか?」
「は……?」
思わぬ答えであった。記憶がなくとも、呼んだ者がいるからには、その者は何かを知っているのだろうと思っていたのだ。だが状況は変わらず、カツミはいまだ無知のまま、周囲の状況に流され、強制されていた。川を泳ぐ魚は流れに逆らい泳ぐと言うが、カツミは今、ただ漂流する枝葉の様な物であった。
「いや、あなた様には記憶がないのでしたな。不躾なことを聞いてしまい申した」
「なぜ、記憶がないことを知っている?」
思えば、宮に来てから記憶がないということは誰にも言っていない。ココノも、目の前の人物から聞かされていると言っていた。何故知っているのか。
「……迎えの者が、そう申しておりました。様子がおかしく、記憶がないのではないかと」
「……そうか」
迎えの者と言うと、あのいかにも武人と言ったようなアガタという女性だ。武人らしい体躯をしていたが、獣のような鋭い眼光は、察しもよさそうに見えた。言われてみればたしかに、名を問われた時に明らかな動揺を見せたかもしれない。だから察せられたというのなら無理のない話だ。だというのにどこか気になった。残念なことに、目が覚めたばかりの時分の会話をあまり覚えていないので、何がおかしいのかが分からない。それでも何かがおかしいと感じる。この男を信じてはならないと直感が訴えている。
「……何故、俺を喚んだ?」
自分の居場所がわからぬ以上、次に気になったのは理由だ。右も左もわからぬ自分が呼ばれた理由が分かれば、少なくとも何か見えるかもしれない。
「この国に、世界に必要だと……そう、感じたからです」
「記憶のない俺がか? 今もそう思っているのか?」
柔和に細められていた男の目元が、鋭くなった……ように感じた。改めて見ると、普通の顔だ。おかしいところなど何もない。この部屋には小さな窓しかなく、棚と書類で埋め尽くされた部屋だからかもしれない。息苦しくて、思考が短絡的になっているのだ。
「召喚を行った際は、必ず適した人間が選ばれているのです。たとえ記憶はなくとも貴方様こそ、必要な人物なのです」
適した人物、とは言われても要領を得ない。一体何に必要だというのか。苛立ちを覚え、気が付けば拳を握り締めていた。そんな様子に気がついたのか、近くでココノが息を飲む気配がした。ここで初めて、近くにココノが控えていることに気がついた。わずかに身をかがめ、身じろぎ一つせずに、そこに佇んでいる。怯えさせてしまったのかもしれない。そう考えると自然と落ち着いた。握り締めた拳を解き、小さく息を吐く。
「俺に、何をさせるつもりだ?」
どこか固い言葉ではあったが、それでもカツミは、比較的冷静なつもりで口を開いた。
「我々は今、危機に陥っております。その結果として、あなた様を召喚したのです。召喚されたことには、おそらく意味があるのでしょう」
「意味……」
記憶がない者が召喚された意味などわからない。ここがどこかすらわからないというのに、何をしろというのか。危険を感じる。この場から、早く離れるべきだと、何かが命じている。
「危機とはなんだ?」
「異形のモノ……獣が、暴れているのです。我々は“未蕾”と呼んでおりますが……」
「ミライ? それに獣だと?」
「はい。人に仇なすモノでございます。獣に異質な気が触れ、変質する……。変質する瞬間を、まるで花開くようだと評した者がいたことから、“未蕾”と呼ぶようになったのです。我が国では他国に比べ被害は大きくないのですが、それでも命を奪われた者がいることに違いはありません」
人に害をなす存在に対して、随分と美しい呼び名だ。未来を奪う獣に対して、同じ音で呼ぶことに抵抗はないのか。尋ねたい気持ちになったが、それ以上に気がかかることがある。目の前の男の狙いだ。確かに人のよさそうな紳士だ。仕事熱心な様子も間違いはないのだろう。しかし、腹の内が見た目通りであろうか。記憶のない人間に、この者は戦いを命じようとしている。それは果たして、信頼に値すると言えるのであろうか。
「それで……?」
「どうか、この地をお救いください。あなたにはこの世界を救うべく、旅に出ていただきたいのです」
目の前で紳士が深々と頭を下げる。少し面食らって、カツミも少しは態度をとりつくろうべきかと考えた。しかしすでに、目の前の男に不信感を抱いてしまっている。一度生まれた不信感を拭い去ることは出来ない。目の前の男は為政者なのだ。どれほど善良に見えても、腹の内に抱える物まで善良であるとは限らない。
「伴の者も選出しております。世話役にこの采女と、武術指南に武人を一人、それから、案内役として弁の立つ者を一人用意いたしました。その者は頭が良いので、この世界の情勢についても詳しくお教えするでしょう。道中、勉学に励むのも良いのではないでしょうか」
「道中……伴に教師役と指南役を用意、か…」
「ええ。道中危険も伴いますので」
記憶のない者にそのような危険を強いるのか――という言葉は口にしなかった。もはや口にする気も失せていた。道中勉学に励むと言った。つまりはこの国について、世界について何も知らないというのに、旅に出されるということだ。道中学べとはそういう意味であろう。この男は態度も口調も善良であるが、言っていることは決して善良ではない。質問に対する回答は、まるで用意していたようにも思える。
「まるで厄介払いだな」
すぐ後ろで、わずかな空気の揺らぎを感じた。ココノがカツミの発言に驚いたのであろう。彼女たちはこの城に努めているのだ。上の者に異を唱えるなど以ての外で、考えたこともないに違いない。カツミの言動は、おそらくココノの予想の範疇を遥かに超えているのだ。
「そ、そのようなわけでは……」
紳士の余裕が、わずかに崩れたように見えた。言われて初めてカツミの指摘することに気がついたのか、それとも図星を突かれたのか、それともそう見せているのか。どちらにしても、目の前の紳士に対する評価は、もはや底辺を這っている状態だ。
「……失礼する」
カツミははっきりとした口調でそう告げ、踵を返した。もはやこれ以上話すことなどあるまい。そう考えてのことである、しかし、不意に浮かんだ好奇心から、振り返り、再び紳士と視線を交わす。
「そういえば、名を聞いていなかった。あんたは俺の名を知っているんだろう?」
『字を明かすことは、服従の意をお伝えすることになるんです』
ココノが言っていたことだ。この見るからに為政者と言った男が本名を明かすとは思えないが、それでも名を尋ねた時の態度くらいには観察する価値があると思った。
「……然様。わたくしめは、ヤカタと申します」
『名によっては字がわかってしまうこともありますので、偽名を名乗る方も多くおります』
ココノやアガタから、“お館様”と呼ばれている者なのだから、ヤカタと言うのはどう考えても偽名であろう。カツミは「そうか」とだけ返して、再び背を向けようとした。
「ああ、そういえば」
だが、ヤカタに呼び止められた。話はすでに終わったと思ったが、そうではなかったようだ。
「名を、カツミ殿と申しましたね。字はこちらで間違いないでしょうか」
ヤカタが筆を手に取り、墨をつけて紙に“克”と書いた。カツミは確かに名を覚えている。己の名をどう書くのかも覚えている。ココノは名を明かすことを、服従の意を表すと言っていた。それが己から明かすという意味なのか、知られてはいけないという意味なのか……。
「それで、間違いない」
しばし悩んだが、その字を肯定した。今のところカツミに服従の意はない。とくにヤカタに対する不信感がぬぐわれたわけでもないことを確認し、泳がせておくことを選んだのだ。カツミは「では……」と、今度こそ背中を向けた。ふと、ココノの姿が目に入る。カツミの少し後ろに控えていた彼女の顔色はあまりよくない。少々感情任せになりすぎたらしい。そんな中でも目上の者に対する礼儀は忘れないようで、ココノはヤカタに向かって、丁寧に頭を下げ、それからカツミの後に続いた。
扉を出たところで、カツミは一度大きく息を吐いた。
「あの男、俺を追い出したがっているようだったな」
「そ……そんなことは……!」
ココノは否定するが、ヤカタの態度は明らかであった。あれでは遠まわしとも言えない。自身が気づかないと思われているのか、それとも気づかれても問題ないのか。
(後者だな。食えない男め)
カツミはすでにこの場を去りたいと思い始めている。それならば、ヤカタの思惑とカツミの考えていること、お互いの利害は一致していることになる。
(ま、その方が都合がいいか)
この宮に長居したいとは思わないので、出て行けというのならば、従ってやらないこともない。
「そ、それより……! これから旅の伴と引き合わせるようにと命じられております。どうか、お会いいただけませんでしょうか」
さてどうしたものか。すでにカツミがしらけているからか、ココノは懇願するような口調になっている。カツミは一人で去りたいと思っているのだが、それではこの少女が咎められてしまうかもしれない。この一途に、使命を全うしようと勤める少女に害が及ぶというのは、目覚めがいい話ではない。己が原因となるならば、なおのこと。
カツミは小さく溜息を吐き、ココノの肩を軽くたたいた。
「会うぐらいなら構わない」
「あ、ありがとうございますっ!!」
カツミの返事に、ココノは目を輝かせる。カツミは改めて、自分が人に合わせることが好きではないように思う。しかしこの少女が笑顔なので、ひとまずはよしと考えることにした。記憶のない自分が旅に出るならば、情報も必要であろう。
カツミは何故か、ココノの言葉を尊重する自分に、言い訳をしていた。改めて冷静に自己分析をした結果、意外なお人よし具合に、溜息しか出なかった。
一度着替えに戻り、それから再びココノの後をついて行くこととなった。着替えてみれば、先ほどとは打って変わり、身軽な衣装を用意されたので、少し驚いてしまうが、カツミとしても身軽な衣装の方が好みである。どうやら、脚絆のような足覆いの類を身につけることが、一般的らしい。
建物の中を歩くと、だんだんと扉だらけの廊下を突き進むようになった。一つ一つの扉には札がかけられ、それらの文字を読む間もなく、早足で進む。とくに興味が引かれるわけではないが、小柄なココノが自分より背の高い男を待たせることのないように、急ぎ足で進んでいるのだろう。
「一人は、いつもこちらで本の管理をしている方です」
そういって、ココノはある扉の前で立ち止まった。扉にかけられた札には“圖書寮”と書いている。どうやら書物が収められた場所らしい。
「先生? 失礼いたします、ココノです」
ココノは扉を開いて中に入ってから名乗った。先ほどのように“青の”とつけないということは、親しくしている相手なのかもしれない。先生というくらいなので、尊敬しているのだろう。
――ジャラ、と音がした。木と紙と、それからツンと甘い樟脳の匂い。窓にはすべて布がかけられ、強い日差しを抑えている。柔らかな日の光は暖かく、静かに思えた室内で、その衣擦れの音をさえぎるように聞こえたその金属がすれる音は、この場にあまりに不釣合いであった。
「おやおや、よくいらっしゃいましたね。そちらの彼がそうなのですか?」
「ハイ、先生!」
目の前に現れた男は、ココノに微笑みかけた。温もりを感じさせるその笑みには、先ほどヤカタに抱いた物とは対照的な好感が持てた。少し癖のある長い髪は後ろでゆるくまとめられ、柔和な印象を与える細い眼は、まっすぐに相手を見つめる。ココノが声をかけた時に、わざわざ歩み寄ってくるところからも、いかにも人のよさが伺える青年だ。
「カツミです」
カツミはぺこりと浅く頭を下げた。そんなカツミの様子と一言に、ココノが目を丸くしている。“お館様”と呼ばれる、偉い身分の人間にすら敬語を使わなかったものだから、驚いているのだろう。カツミはあまり身分を考慮しない。目の前の人物に好感を持ち、年上だと思ったから、敬語を使っているに過ぎない。しかし、ココノは仕えると言っても、先ほど知り合ったばかりだ。お互い、まだ知らない部分が多く、主従と呼べる関係に達していないと言える。
「ご丁寧にどうも、私はヒイズと申します。この圖書寮で書簡の管理を任されております。どうぞ宜しくお願いします」
ヒイズが胸に手を当て、またジャラリと音を立てる。先ほどココノに向けた微笑が、今度はカツミに向けられた。茶色の紙には丁寧に櫛が通されており、身なりからもそれなりの身分であろうことがうかがえた。先ほどから彼が動くたびに聞こえる、金属がすれるような音は、一体なんであろうか。カツミは首を傾げたが、目の前のヒイズという男の手首に、金属の枷がついていることに気がついた。枷についた鎖が音を立てていたようだが、鎖は垂れており、動きを制限するようなものではない。両手がつながっているわけではないし、鎖の先に重りがついているわけでもない。ただ、金属のわっかに鎖が垂れているだけだ。カツミはそれが気になったが、聞くに聞けずにいる。このいかにも穏やかといった風な青年と、手枷がどうしても似合わない。
「私はお館様より、カツミ様に学を与えるようにと命じられております。こちらのことを何も知らず、さぞ戸惑っておいででしょう。どうぞ、何でもお尋ねくださいますよう」
「それなら、俺のことは“様”で呼ばないでください。俺も、あなたのことをヒイズ先生と呼びたいです」
ココノに倣って、彼のことは先生と呼ぼうと思った。宮を出るにしても、知識は必要である。それならば彼に教わるのは悪くない話だ。
「これは、これは……。とても光栄です。カツミ……殿と、お呼びしましょうか。都合がつくようでしたら、少しだけお話でもいかがでしょう? 質問があればお答えいたしますよ」
「それは、それは……」
願ったり叶ったり。カツミは一言返してから、ドカリと席に着いた。これでようやく、右も左もわからない事態から脱することができそうである。
圖書寮といいますが、日本の昔の圖書寮とは役割が異なります。
名称が一緒なだけ。
次回は圖書寮でヒイズとお話します。