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Apple Field  作者: 水晶柘榴
零章 醒
2/8

(0) 01

「う……」


 ―――ここは、どこだ……?


 青年は辺りを見渡した。視界には薄暗い緑が広がり、森の中にいるように思えた。起き上ろうとした足元は安定せず、ふと視線をやれば水面(みなも)が見えた。小さな水場だ。どうやら彼は、森の中の泉の畔に、下半身を水に浸した状態で横たわっていたらしい。泉から伝わる冷気に、思わず背筋が震える。泉から上がれば、思った以上に衣が重たくなっており、自分はおそらく眠っていたのだろうと、そう思った。だが、どれほど眠っていたのかはわからない。頭が重く、まともに働かないのだ。


「ここは……っ」


 ガサリと物音が聞こえ、思わず身構えてしまう。なぜかはわからないのだが、葉のすれる音に異様に反応してしまった。風で擦れる時の音ではなく、明らかに人が踏みしめた音だ。息を殺し、周囲に視線をさまよわせるが、身近に人の気配を感じない。


(あ……)


ではあの足音は何だったのかと考えたところで、視界に金糸(きんし)が映り込む。適当につまんで引っ張ると、頭皮が突っ張り、それが己の髪だということがわかった。視界に映りこんだ金糸(きんし)が己の髪であると分かったところで、今度は己の姿が妙に気になってしまう。視界の隅には先ほどまで己が倒れていた泉がある。朧でも輪郭ぐらいならばわかるであろうか。

 水を含んだ(くつ)が、グチュリと音を立てる。襯衣(シャツ)も濡れてしまっているし、(ズボン)も同様だ。足首の部分がしぼんだ意匠のせいか、水が中に溜まっているように感じるのは気のせいではない。足首の方から指を差し入れて、裾を広げると、そこに溜まっていた水が流れ落ちた。そして流れ出たそれが、今度は(くつ)にかかる。(くつ)の中にも水が溜まっているに違いない。青年は、今度は両足に履いている(くつ)を脱いで逆さにした。そこからはやはり水が落ちる。

 青年は、先程より幾分か、衣服が軽くなったことに気をよくし、改めて水面(みなも)を覗き込んだ。


「俺……か?」


 金の髪と、青い目。コケで濁った水面(みなも)に、それだけが映る。前髪は長く、頬や鼻先に張り付いてしまっている。後ろ髪も伸び放題で、なんだか浮浪者のようだ。青年は少し湿った髪をかき分け、まるで女性のような仕草で、耳にかけた。前髪の長さは不揃いだったようで、耳まで届かなかった髪の毛は再び前に垂れる。鬱陶(うっとう)しくも思ったが、残念なことにこの髪を結ぶような物は持っていない。


(あっち……か?)


 森がどれほどの規模のものなのかはわからない。しかし、不意に鼻に触れた香りにより行き先を決める。うまそうな匂いがしたのだ。何者かが料理をしているのならば、火を焚いているはずだ。ひとまず服を乾かしたいと、そう思った青年は、そちらに足を向ける。無論、先ほどの葉を踏みしめた音とは、真逆に進みたかったことも理由だ。できれば暖かな(スープ)くらいは貰えないだろうか。しかし、それに見合う対価を、持っていないことを思い出すと、肩を落とす。そもそも、向かう先にどのような人物がいるかもわからないのだ。足を向けている自分も不安になってくる。

 森は思った以上に深いのか、蔦が(カーテン)のように垂れ下がっている。生い茂る木々の一つ、一つの背が高いということは、やはり深い森なのだ。木自体は多いものの、実をつけるような花木が見つからない―――そう考えて、空腹に気がついた。食べ物のことを考えているのは、腹が減っているからだ。


「誰だ……!」


 反射的に、青年は右に避けた。近くで鈍い音が聞こえ、それが木に刺さったのだろうということに気が付く。しかし背を向けるわけには行かない。(カーテン)のような蔦によって何も見えないが、それでもこの向こうには誰かがいるのだ。攻撃を受けた以上は、考えなしに逃げるわけにも行かない。


「……誰か、いるのか……?」


 おそらく、女性の声だろうと思えた。武器を投げた割には落ち着いている。青年はジリジリと後ろに下がる。濡れた(くつ)によって、地面が幾分かぬかるんでいるように感じたが、それ以上に気になったのは投げた武器の持ち主だ。鼻のあたりが水気を帯びたことに気がつく。頬に冷や汗が伝っている。歯を食いしばり、迫る足音に備えて腰を低くする。ザッという音とともに、目の前の幾重にも連なった蔦が動いた。ほぼ反射的に踏み切る。


「……あ?」


とっさに蹴り上げた片足は、あっけもなく、たくましい腕に受け止められてしまう。力強い腕は、蹴りの反動など物ともせずにそこにある。微動だにしない、たくましい存在が女性であると、己より高い位置に女性の顔があることを理解するのに、たっぷり十秒ほどかかった。



「武器など投げてしまってすまなかったな」


 女性はそう言って腰を据える。女性の目の前では鍋が火にかけられており、先程から漂う香りはこれなのだということに気がついた。


「……そばに寄っても?」

「どうぞ」


 青年は少し火のそばに寄って座り込む。しかし濡れた服が熱を持ってしまい、風邪は引かなくとも火傷をしてしまいそうだ。火の元から少し下がってみるが、今度は急に寒くなってくる。近づいたり、遠のいたり。そうしていても衣服は一向に乾く気配を見せない。


「其方、名前は?」

「……カツミだ」


 青年―――カツミは、そう言って火に近づけた手を揉む。何となくではあるが、そうしたほうが温まる気がした。


「其方が……?」

「俺の何か……」


 ―――知っているのか? そう訪ねようと思ったところで気がつく。記憶がないのだ。年と名前は覚えているが、しかしそういえば、なぜ泉に足を突っ込んでいたのかもわからない。それ以前の記憶も同様だ。


「あんたは、俺の何か……」


 カツミは女性を睨みつける。美人だ……とは思うのだが、服の上からでも、その体が鍛え抜かれていることはわかる。引き締まった身体は、おおよそ常人といえるようなそれではない。長い黒髪は高い位置でひとつに結ばれていて、三つ編みが絡んだような、不思議な結い方をしている。口上は固く、相手を射抜くような鋭い目は、どこか本能的に背けたくなる獣のような瞳をしている。服装は単調(シンプル)だが、機動性は高く、篭手(こて)脚絆(きゃはん)で補強している。不意打ちの蹴りを、いとも簡単に受け止めただけのことはあるように、おそらく武人なのだろう。


「歳を聞いてもいいだろうか?」

「俺はあんたの何もきいてない」


 睨みつけても何も思い出すことはない。自分が彼女を知っているのか、あるいは彼女が一方的に自分を知っているのか。それさえも謎のままだ。


「失礼。私はアガタ、二十八だ」

「……二十歳(はたち)だ」


 アガタ、と名乗った女性は、革袋から器を二つ取り出した。どうやらカツミにも(スープ)を分け与えてくれるらしい。ともなれば、カツミは目の前の人物に対して、警戒を緩めてもいいかも知れないと思った。空腹時の頭では、食べ物が関わるといささか従順となってしまうらしい。


「カツミという名で歳は二十……。ということは間違いないな。私はそなたを迎えに来た」

「俺を?」


 カツミは少し前に緩めた警戒心をさりげなく引き締めた。何一つ思い出せない今、自分がおかしなことに利用されないために。


「密命を受けた故。カツミという名で二十歳(はたち)の男がいるから迎えに行けと……」

「密命……?」


 カツミには、己がどのような存在なのかはわからない。しかし密命というのは穏やかではないような気がした。己の存在は隠されるような何かだと……。カツミには何一つわからないが、警戒心は先ほどよりも高まっている。


「詳しくは主人が言うだろう。とりあえず、毛布を貸してやるから服を脱ぐがいい。そのままでは風邪をひく」


 カツミはしばし無言で値踏みする。悪い人物ではないようだが、果たして信用すべきであろうか。カツミはしばし思い悩んだが、結局アガタの言葉に甘えることにした。


「クシッ」


 くしゃみが漏れて、いたたまれなくなったのだ。




「記憶がないというのは、本当か?」


 アガタは帯の様な物を木に括りつけ、お互い背中を向けたままのカツミに声をかけた。当のカツミは毛布にくるまり、焚火(たきび)のそばに身を寄せるように座り込んでいた。カツミは目を閉じて、アガタの言葉に耳を傾ける。なぜ彼女は己のことを知っているのだろう。いや、知りはしないはずだ。だが、なぜか名を知っている。


「沈黙は肯定とみなす。ひとまず、(スープ)を飲め。小麦粉が入っているから腹にたまるし温まる」


 カツミが考えている間に、結論を出されてしまった。間違えではないのだが、せっかちな気質なのか、そのつもりもなく回答を作り上げられてしまった感が否めない。


「あ、ああ……」


 決して悪い人物ではないのだろう。どのみち毛布の下は下着だけという情けない姿だ。こんな格好でこの場から去ることはできない上に、脱いだ服を吊るしてくれたのも彼女である。厚意を無碍(むげ)に扱うことも、もちろんできない。差し出された器を受け取り、白くとろりとした液体が盛られた器を見つめた。


「……いったい、なんなんだ?」


 何が“なんなんだ”か、それもわからなかったのだが、それしか言えなかった。口に含んだ(スープ)は、なかなかにいい味をしている。ホロホロと柔らかな獣肉は、長時間煮込んで出汁(だし)を出し切ったのだろう。野菜はとろけてしまい繊維を失っているが、小麦粉と混ざっていてなかなかの風味だ。歯ごたえのある野菜は後から入れた野菜だろう。このような森の中で食べる食事にしては手をかけられている。


「私も詳しくは知らないが、森にそなたを召喚した故、迎えに行くようにと命じられた」

「召喚……?」


 イマイチ要領を得ないところだが、自分はどこから召喚されたというのだろうか。召喚するにしても、泉に足を突っ込んだ状態というのはいかがなものであろう。カツミはもう一口、(スプーン)で掬った(スープ)を口に含んだ。調味料として入っているのは塩と胡椒くらいであろうか。他の香辛料はおそらく入っていない。


「ああ。故、(グウ)でお館様にお会いするのだ」

「オヤカタサマ……」


 カツミはいよいよ持って眉を寄せた。記憶がないせいか、イマイチ自分の考えに自信がもてない。そのくせ料理について考えてしまうということは、もしかしたら自分は記憶を失う前は料理をしていたのだろうか。自分のことが分からぬせいか、よそ事でありながら、自分の中でわかることが気になってしまう。重要な部分が分からなければ、本末転倒だというのに。

 一度思考を切り替え、カツミは再び口を開いた。


「……なぜ、会わないといけないんだ?」

「お館様が望まれているから、としか言い様がないな」


 胡散臭い。カツミはそう思う。食事をもらって、毛布を借りて、服まで乾かしてもらっているところ申し訳ないのだが、その“オヤカタサマ”に会おうという気にはならなかった。


「……悪いが、俺はそのお館様とやらに会うつもりはない」

「そうか……」


 アガタはゆっくりと立ち上がり、そしてカツミの後ろへと回った。そこには服が干してあるので、おそらく乾き具合を見てくれているのだろう。寒くはあるが、このあたりは火を焚いていて暖かい。それならば割と早く乾くはずだ。

 カツミは(スープ)の入った器を置いた。先程に比べて腹が鈍く重いことを思えば、どうやらそれなりに腹に溜まったらしい。

 突然視界が地面に近づいた! 顔がぶつかるだろうという所で意識は遠のいていく。


「すまないが、強制なのだ」


 意識の遥か彼方で、アガタの声が聞こえた。





 ―――さま……。


 ぬるま湯につかるようなまどろみの中、誰かに揺り起こされている気がした。しかしカツミはそんな物は気にせず、浮上する意識を留めるように惰眠(だみん)を貪る。


 ―――じん……ま……。


 これは何であろうか。ふわふわと柔らかくて軽いものは、いままで感じたこともない、安らぎを与えている。まるで親鳥のようにやさしく包み込み、ぬくもりを与え、眠りに誘う。この眠りから引き起こそうとする者は悪に違いない。そうなると、今すぐにでもこの己を揺り動かすものを、排除しなければならないではないか。なぜならカツミはまだ眠りたいのだから。


「きゃぁ!」


 ゆらりと手を伸ばしたところ、細い何かに触れ、掴んだそれを

いてそのまま組み敷く。カツミは武器など持っていなかったので、首に手をかけて……そこで一気に意識が覚醒した。


「あ……」

「ご主人様、その……御慰めが必要とあらば光栄と存じますが……」


 少女が頬を染めて視線を逸らす。恥じらう様はなかなかに庇護欲を誘うものだが……。


「うわぁ!!」


 飛び退いて改めて目の前の存在を見つめる。大人というわけではないが、間違いなく女性である。赤毛の髪を後ろでまとめて団子(シニヨン)をつくり、子猫のような灰色の丸い目をしている。なんということだ。寝ぼけて女性に無体を働くなど、褒められたことではない。


「ご、ご主人様!? 大丈夫でございますか!?」

「ごしゅ……!?」


 ご主人様とは何か。意味のわからない状況に辺りを見回す。石造りの部屋だが、暖炉があるせいか室内は暖かい。膝をついているのは寝台(ベッド)のようで、真っ白な敷布は織り目も均等で肌触りがよい。状況から、己は先程まで、この寝台(ベッド)に眠っていたということになる。しかし記憶を遡れば、自分は外に居たのではなかったか。しかも目の前にいたのはこの少女ではなく、明らかに成熟した大人の女性だったはずだ。石造りの部屋で、広さは九平米ほどだろう。壁に埋もれるように置かれた寝台(ベッド)と、反対側には本棚もあるようだが本はない。


「ここは……?」

(グウ)の一室にございます。わたしはご主人様に仕えるよう申しつかりました、この(グウ)采女(ウネメ)として働いている、ココノと申します」

「グウ……?」


 カツミは記憶を手繰る。たしかこの部屋に来る前は、アガタという女性のそばにいたはずだ。その彼女が(グウ)に連れて行くと言っていた。目を覚ます前、首の後ろが痛くなった。意識すれば今も鈍い痛みは残っている。ともなればあのアガタという女性に、この(グウ)まで無理やり連れてこられたということになるだろう。


「……ココノ、といったな」

「はい、ご主人様!」

「そのご主人様ってのはやめてくれ」


 カツミの言葉に、少女はきょとんと丸い目をより丸くする。それからすぐに再び微笑を浮かべた。


「でも、ご主人様を何とお呼びすればよいのか、教えていただいておりません。故にココノはご主人様とお呼びしているのでございます」

「……カツミだ」


 名がわからないのなら聞けばいいだけの話ではないか。それとも、誰かに仕える者は何かを尋ねる権利さえないのだろうか。


「カツミ様……でございますね」


 ココノと名乗った少女は胸の前で手を合わせ、嬉しそうにはにかんだ。さすがのカツミも、その様子には毒気を抜かれ、仕方がないとでも言うようにため息を漏らす。部屋の中は殺風景で何をするでもない。窓の外は明るいので昼間とは思うのだが、それが午前か午後かもわからない。ふと見れば、ココノが何かを差し出している。紙切れのようなのだが……。


「これは?」


 小さな紙は三(センチメートル)四方の大きさで、その紙いっぱい、いっぱいに“九”と書いてある。


「ハイ、ココノの名前にございます。ココノのような下流の采女(ウネメ)は、お仕えし始めた歳から名前が決まるのです。もうこの館にお仕えして六年になるんですよ」


 (ココノ)―――六年ということは、目の前の少女は十五歳ということになる。


「何故俺が主人なんだ?」

「……? お館様よりカツミ様付きに命じられました故。字を明かすことは、服従の意をお伝えすることになるんです」

「は?」


 思わずぽかんと口を開けて固まってしまう。つまりはカツミはこの少女の主人になってしまったというのだ。名前を勝手に告げられたものだから、正直なところ投げ出したい所だ。強引にも程がある。


「名によっては字がわかってしまうこともありますので、偽名を名乗る方も多くおります。……それから、将来の伴侶となった方にも、字を教えますし、特別な呼び名を贈ることもあるのです」


最後の部分を、ココノは少し照れくさそうに告げた。もしかしたらこのあどけない少女にも慕う相手がいるのかもしれない。十五歳ならば、色恋に憧れる年齢だろう。カツミは邪推した。


「俺は……いや、なんだ……?」


寝台(ベッド)から降りもせず、頭を押さえて考え込んでしまう。混乱する頭を整理したいが、自分をさらに混乱させそうな少女が目の前にいる。どうしたものか。


「あの……詳しい話はお館様がお話になるそうですので、参られてはいかがでしょう……?」

「お館様……か……」


 あのアガタという女性―――ここに連れてきた本人であろうが、彼女も「お館様に会わせる」と言っていた。はっきり言えば、気が進まない。そもそも無理やり連れてくるという時点で問題ではないか。それならば余計に、会いたくないと思うのも納得である。しかしほとんど本能的に、“お館様”とやらに会いたくないと考えていることは気になった。もしかしたら前世で高貴な身分の者と何かあったのかもしれない。


「気が進まないな」

「お館様は、『召喚されたご主人様は記憶がないだろうから、説明が必要であろう。私のもとへ連れてきなさい』とおっしゃっておりました」

「召喚したというのは、その者なんだな?」

「ハイ」


 さて、どうしたものか。カツミはしばし考える。連れてこられてしまったことは、もちろん腹が立つ。しかし来てしまった以上は、現状を維持したところで何も得るものはないだろう。召喚ということは、どこからかあの森に喚ばれたのだ。どこから喚ばれたというのだろう。自分はどこの誰なのか。それが一番気になった。もしかしたら、“お館様”とやらに会ってみれば何かわかるかも知れない。ならば顔を合わせるのも一つの手かもしれない。

 それに彼女――ココノはこの(グウ)に仕えている身なのだ。自分がその“お館様”に会わなければ、彼女が咎められるかも知れない。“お館様”に会いたくはないのだが、それは毛嫌いのようなものだ。自分のわがままでこの少女に迷惑をかけるというのも、いかがなものだろう。


「……カツミ様、どちらにしても、身なりを整えましょう。湯浴みと散髪の準備をいたします」

「散髪……?」


 カツミは視界に映る金糸(きんし)をつまむ。そういえば髪の毛は伸び放題だ。服は乾いているが、誰が着せたのであろうか。少なくとも気を失う前は毛布にくるまっただけの、下着姿だった気がする。目の前にいるのはこの少女で、ここまで運んできたのはアガタという女性だ。


「カツミ様、どうなさったのですか?」


突然寝台(ベッド)の上で足を抱え込むカツミの様子に小首をかしげる。背を向けられてしまい、すこし気まずい。ココノは自分の発言の中に、失言があったのではないかと、慌てている。


「何でもないんだ、なんでも、な……」


別に要介護の人間というものでもない。だというのに、女性に着替えさせられたなどとはとんだ恥である。よく考えたら女性に気絶させられている。カツミはますます落ち込んだ。




「できました、カツミ様! ご希望通りにあまり短くは致しませんでしたけど……これでよろしいですか?」


 ココノは剃刀(かみそり)を置いて、カツミに鏡を差し出した。室内に鏡台のようなものはないので、湯浴みをしている間に彼女がどこからか持ってきたようだ。大きい鏡はそれなりに重いようで、それを持つココノの手がぷるぷると震えていた。


「ああ。髪切るのうまいな」

「下流とは言えこれでも采女(ウネメ)でございます。身を整えるすべは一通り心得てございます」


ココノはカツミの髪に櫛を通していく。なるほど。まだ十五らしいのだが、采女(ウネメ)としては優秀のようだ。


「衣はこれでいいのか?」

「ハイ。それで……まぁ。あわせが逆ですわ、カツミ様」


言われてカツミは自分の衣とココノの衣を見比べる。言われてみれば確かにあわせが逆だ。彼女の衣類をよく観察してから着れば恥をかかなかったのかと考えながら、帯を緩めて衣をくつろげた。

「そんなことが決まっているのか…」

「ええ。昔の宗教の名残だそうです。神代ではこのように衣装をまとっているのだとお聞きしました。神の恩寵がその身にあるよう、衣のあわせは右が上に来るのだ……と、先生に教わったのです。衣のあわせを逆にするのは、咎人くらいだという話ですので、お気をつけてくださいませね?」


 ココノは帯を緩めたカツミの様子に、特に戸惑った風でもなく、丁寧にあわせを直した。見かけから勝手に初心(うぶ)な様子を想像したのだが、采女(ウネメ)の彼女にとって、人の衣装を整えることは当たり前のことなのかもしれない。


「……できました。少々窮屈かもしれませぬが、お館様に御目通り致しますので、しばし辛抱下さいませね」


 カツミは衣をいくつも重ねて身にまとった状態だ。これが正装であるというのならば仕方がないのだが……。身動きが取りづらく、衣装が重い。身分の高い者に会うために、正装するということもわかる。わかってはいるのだが……。乗り気ではないことがこれほど苦痛なものなのか……と、嘆息する思いである。


「にしても見栄えが悪くないようにいたしましたが、お(ぐし)は結わなくてよろしいのでございますか?」

「ああ」


ココノの言葉に頷きながら、それがなぜかを考える。どういうわけなのか、あまり人と顔を突き合わせたくないと思ったのだ。前髪も視界がわかるようにしたが、それでもやはり長めだ。ふと見れば、寝台(ベッド)の上には大量の、それこそ色鮮やかな衣が投げ出されている。また後で、動きやすい衣を優遇してもらうつもりだが、ここに置いてある衣はあまりに自分の好みからかけ離れていた。


「それでは、片付けは他の者が致しますので、参りましょうか」


(グウ)というものの勝手はわからないのだが、これからこの(グウ)の主に会うということになるようだ。カツミはやはり気が進まないと思い、しかし目の前の小さな背中に溜息を吐いた。


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