其の四
落ち着かない。
動揺と怒りがないまぜになった夜。それなのに俺の心はなぜか、ずっと昔の亮平と付き合い始めた頃の記憶に触れていた。
「颯太、何か欲しいものがある?」
「颯太の耳のうしろ、甘い匂いがする。颯太が生まれてきてくれた事が奇跡だな。颯太を抱きしめている時が一番幸せだ。俺が一番欲しいものは颯太だ」
下手をすれば歯が浮くどころか、奥歯まで全部抜け落ちてしまいそうな言葉も、全てが耳からだけじゃなく、全身に染み渡っていった。もちろん、今でもそこに疑いの気持ちが入り込むことはない。
でも……。
相容れない別の気持ちとのせめぎ合いに心は乱れていた。
不意にスマホがブルブルと震えた。
電話がかかってきたけれど、公衆電話からだ。まあ知らない奴ならすぐに切っちゃえばいいか。
「颯太? 久しぶりね。私、夢。伊藤夢よ。覚えてる?」
「えっ、夢ちゃん? もちろん覚えているよ」
「ずっと連絡してなくてごめんなさい」
「あ、いや、そんなこと気にしなくていいよ。それよりもよくこの番号がわかったね?」
「偶然に駅で千恵ちゃんに会ったの。懐かしくて、それで連絡先を教えてもらったの」
俺はふと妙だなと思った。
「千恵ちゃん、色白になって別人みたいだったでしょ? 俺たちも久しぶりに会って本人だとわからなかったんだ」
「そうね、見た目は変わったかも知れない。だけどすぐわかるわ。だって同じ魂でしょ?」
「魂?」
「うん。中身って意味よ。人の中身は年齢を重ねても変わらないわ」
「そういうものかな」
「そうよ。ね、久しぶりに会わない?」
なんとなく人とは違う言葉の選び方や、歳に似合わない大人っぽさは小学生の頃の夢ちゃんと変わらないな。
俺は自分の記憶が間違ってはいなかったことに心から安堵した。
(皆んなにちゃんと納得してもらわなきゃな。夢ちゃんはちゃんと実在しているって)
「明日は時間取れるかな? ほら週末だと予定もあるだろうから平日なら少しだけ時間ある?」
「え? 俺ひとり?」
「だって、皆んな私の事を忘れているんでしょ? いきなり他の人も一緒より、颯太ひとりの方が安心だもの」
確かに皆んなひどいよな。夢ちゃんのことをすっかり忘れてしまうなんて。
「それにしても千恵ちゃんは、よく夢ちゃんのことを思い出したね?」
「覚えてる? 銀色のイルカのペンダント。その話をしたら思い出してくれたの」
銀色のイルカのペンダント。忘れもしない。あの時、旧校舎の肝試しの時に僕が拾ったペンダントだ。
「そう言えばあのペンダント……どうしたんだっけ?」
「きっとまだそこにあるわ」
「そこ?」
「あの旧校舎がある場所に。颯太ならきっとまた見つけられる」
「あ……旧校舎はもう取り壊されて、今はないんだよ。夢ちゃんは急に転校しちゃったから知らないのか。旧校舎の跡地には新しい校舎は立てられなくて、石碑と広い花壇だけになっちゃったんだよ。ほら、あれはちょっと怖い出来事だったから……もうあの時の話はしないようにしているんだけどね」
「そうね、わかるわ。人が死んだんだものね」
「うん……友達だったんだよ」
「あの場所にもう一度行ってみたいわ。颯太、一緒に行ってくれる? お花を供えてあげたいの」
「うん、いいよ」
電話を切ってから、俺はふと思った。
今、俺は夢ちゃんと待ち合わせの約束をした。
これって亮平と同じじゃないか。だって夢ちゃんと会うことは亮平や裕二には言わない約束をしてしまったのだから。つまり亮平ももしかしたら、千恵ちゃんが他の人には言いたくない個人的な相談を受けているのかも知れないじゃないか。いくら俺と亮平と裕二の三人が昔からの仲間だからといっても、誰と誰が会うとかいちいち報告し合うことなんかない。それに千恵ちゃんは久しぶりに会ったんだから。夢ちゃんだって俺とだけ会いたいって言っていたじゃないか。
そうさ、女子っていうのはそんなものなんだ。
だから千恵ちゃんと内緒で会う約束をした亮平に嫉妬を抱くのは間違いじゃないか? 亮平が会うのは俺たちのキューピットだった千恵ちゃんじゃないか。
そうだ。亮平は晩ごはんはいらないと言っていたけれど、もしかしたら食べずに帰ってくるかも知れない。カレーなら次の日に食べたっていいんだから、カレーを作っておこう。最近は電子レンジで10分で出来ちゃうからな。ま、それ亮平には内緒だけど。




