愛しのホットチョコレートより
書斎から這い出て、珈琲でも淹れようかと思いリビングを通ろうとしたところ、何故かリビングに広がった段ボールに眉を寄せる。
リビングのソファーの上には、死体のような男が一人。
ボクに気付くと「あ」と声を上げ、体を起こしてボクを見た。
「作ちゃん、おはよう」
「もう昼過ぎてるけど、お早う」
ソファーの背凭れには、絵の具汚れの付いた白衣が引っ掛けられている。
それと死体のようだった男――崎代くんは「そっち側、作ちゃんの分ね」と段ボールを指し示して言う。
そっち側というだけあって、幾つかの段ボールが場所を開けて置かれている。
「何アレ」
「バレンタインの贈り物」
ソファーの肘置きに肘を立ててボクを見る崎代くんは、色素の薄い前髪の奥で眉を僅かに下げた。
その顔を見ながら、その言葉を聞いて「嗚呼……」と気の無い返事を返す。
バレンタイン、贈り物、作家になってから桁違いに増えたものだ。
決してそれは悪い事では無いが、まぁ、食べ物が多いと消費は大変ではある。
そして今回は書斎に引き籠もっていた為に、崎代くんが全て受け取って、リビングの方まで運んでくれたのだろう。
自分の分もあるというのに、有難い事だ。
「後で部屋に持って行くよ」
「運ぼうか?」
「いや、今資料とかも出してるから」
暗喩的に入らないで欲しいという事を告げれば、崎代くんは「そっか」と直ぐに引き下がる。
しかし、その代わりというのかボクの手元のマグカップを見て「俺も作ちゃんの淹れた珈琲飲みたいな」と言って笑う。
ベランダから入って来る陽の光が、崎代くんの色素の薄い髪に当たり、キラキラ光る。
人好きのする笑みに良くあった、柔らかな容姿だと思う。
そうして、発言の狡さを感じる。
「滅茶苦茶に苦いの淹れる」
「えっ。俺は仕事終わったからカフェオレにして欲しい」
「知らない」
えぇ〜、と声を上げている崎代くんを無視してキッチンへ向かう。
視野の広いダイニングキッチンに立ち、リビングの方を見れば崎代くんはまたしてもソファーに沈んでいるようだった。
先程、仕事が終わったと言っていたから、その前まで寝ないでキャンバスと向き合っていたのだろう。
ボクの仕事は作家、それに対する崎代くんの仕事は画家。
職種は微妙に違うが、仕事内容的には家に籠って部屋に籠るのが常だ。
お互いに煮詰まる事は存外に多い。
そんな時は息抜きと称して、甘い物とお茶を楽しむのだ。
戸棚を開けて珈琲豆を取り出そうとして、結局インスタントの粉珈琲を引っ張り出す。
それを台の上に乗せて、冷蔵庫の扉を開ける。
幼馴染みが作り置きしていった惣菜が幾つか残っていて、その隙間にある赤いパッケージを引っ張り出す。
次いで包丁とまな板を戸棚から出して、赤いパッケージと銀紙を引き剥がした板チョコをまな板の上に乗せる。
それを細かく切り刻んでいく。
トントントン、と軽快な音が響くが、ソファーの上の崎代くんは身動ぎ一つしない。
肘置きから飛び出した両足の爪先は、力無く床下を向いている。
全て細かくした後は、雪平鍋を出して、再度冷蔵庫の中を漁り未開封の牛乳を引っ張り出す。
それを雪平鍋に注ぎ、コンロに火を付けて火に掛ける。
泡立て器で牛乳を掻き混ぜながら、沸騰するのを待つ。
鍋の縁とぶつかり合い、カチャカチャと音がする。
片手間にヤカンも火に掛けておく。
牛乳が沸騰する頃には、ヤカンも湯気を吹いて音を立てる。
一度両方の火を止めて、持って来た黒猫の描かれたマグカップに珈琲の粉を落とし、夜間のお湯を注ぐ。
適当に掻き回し、今度は鍋の方へ刻んだチョコレートを、数回に分けて入れて混ぜる。
全てが溶けた後は、もう一度火に掛けて温める。
湯気がふわりふわりと確認出来た頃、火を止めて食器棚から出した崎代くん用のマグカップの黒猫が逆向きになったそれに注ぐ。
甘い香りが鼻腔を擽る。
珈琲の粉を戻すついでに、猫の顔が描かれたマシュマロを崎代くんのマグカップに落とす。
最近ではシマエナガの砂糖何かも出て、華やかなお茶が楽しめる。
使った器具は全て水に浸けてから、キッチンを出た。
バレンタインという行事に関して、特別な思い入れは無く、毎年幼馴染みに贈り贈られというものだ。
作家になってからは増えたが、それに関してはホワイトデーにメッセージカードを送り返すくらいしか変わらない。
思い出せば、一月末にオンラインショップでチョコレートを注文して、そのまま幼馴染みの方へ送り付けていた。
締切前なので、端末を確認していなかった。
恐らく幼馴染みの面々から、連絡が来てるだろう。
それに対して、崎代くんへのチョコレートは注文しておらず、これに関しては幼馴染みの一人であるMIOちゃんからのアドバイスだ。
『崎代くんには手作りがいいよ!』という言葉をどストレートにぶん投げられ、赤いパッケージのチョコレートを冷蔵庫に突っ込まれた。
押しが強いと言うか、良くも悪くも純粋な好意で動く女の子なのだ。
既に成人済みで、女の子で良いのか分からないが。
「ほら、崎代くん」
「んぅ……」
「これ飲んで寝室で寝なよ」
えい、と天井に向けられているお尻を蹴る。
眠そうな崎代くんは、もそもそと身を起こし、手を伸ばしてマグカップを受け取った。
ソファーに変な沈まり方をしていたせいか、前髪がピョン、と跳ねている。
「じゃあ、ボク仕事に戻るからね」
「うん」
「ソファーで寝ないでよ」
目を擦る崎代くんはローテーブルの上に置いている眼鏡はそのままに、白衣だけを引っ張って羽織る。
マグカップに口を付けようとするところまで見届け「ハッピーバレンタイン」と後ろ手に手を振って書斎へ戻る。
「うーん」と曖昧な返事を背中に受けて、ボクもマグカップに口を付けた。
「ぬるっ」
作業している間に温くなってしまったのだろう。
無意識に眉を寄せる。
それに合わせて背後から「作ちゃん!!」とボクを呼ぶ崎代くんの声が聞こえた。
寝坊助の声とは思えない大きな声だ。
「これ!これ!!ホットチョコレート!!!」
こちらに走って来そうな空気を感じて、早々に書斎の扉を閉める。
弾んだ声に眉根が緩み、ふはっ、と笑いも漏れるというものだ。
「さて、仕事仕事」