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或る一日

作者: 藤井 硫

「君、今日はどれ程の作業をするつもりでいる?僕は出来れば両脚を畳の上にうっちゃって、直ちに堕落したい気分なんだが」

足塚の右耳に向かって怠惰なリズムの囁きが響いてきた。メフィストのそれよりかは下賤な声質の主は、足塚の詩を構築するには非常に重要で、唯一の同居人である。

「正直に告白すれば僕も同じ思考に辿り着きそうなんだが、今日ばかりはそうも行かないんだ」

肺の中でマーブル模様になりかけていた、わかばの煙をたっぷりと吐き出しと足塚はページの右端に茶色い染みの付いた手帳に万年筆のペン先を落とした。罫線の上でフラフラと踊るペン先は、足塚の心臓の不安定さを如実に表して、それを足塚は心ここに在らずといった表情を敢えて浮かべて見せた。

「どうやらそんなペンじゃ忘我して作業するのは難しそうだな。当初の僕の要望通りの展開になりそうなのだが、そのままねっ転がって今日を終えたんじゃ僕の気持ちも収まりそうにない。本心を伝えたまえよ」

「この前の縁日で香を焚いていた女の子を見たのを覚えているか?」

いそいそと手帳を閉じ、万年筆にキャップを付け新しいわかばにマッチで火をつける。マッチ棒の硫黄酸化物的匂いが足塚の心臓機関を更に動かした。

「僕はやられちまったんだ。所謂、その、一般的に言うところの恋というやつにだね」

下賤な声質の主は何も言わなかった。と言うより何も言えなかった。嗚呼、とうとう踏み出してしまったのか。こいつのたった一つの良さだった無垢な機関が、塩水を浴びてギチギチと錆びようとしているのか。詩人としての奇異なる才能が、珍しくもない流通品の香を売る少女によって呆気なく壊されようとしているのか。いや待てよ、何もこの恋慕がこの後スペクタルを迎えるとは限らない。明け方の空みたいにあっという間に終わるかも知れないのだ。それならば足塚にとって都合の良い栄養になる。そんな企みを下賤な声質の主は右耳でボソボソと呟いていた。

「そうだ。僕は僕の栄養の為に縁日に出掛けようと思う。これは創作において非常な重要だと思うから早急に家を出なければならない。だから決して作業を辞めるわけではない事を言っておこう」


大師様の境内で行われる土日の縁日には、余暇をなるべく金を掛けずに楽しもうとする親子連れと、それなりの幸せを感じている風の恋人が何組かいた。足塚はそういったものとはなるべく距離を取りながら生きていたので、賑やかな場所に自ら居る事に違和感を覚えながらも、あの香りのする屋台まで人をすり抜けて行った。

「足取りが軽い男ってのは僕はみっともないんじゃあないかと思うんだがどうだろうか。それに、その萎んだ胸郭をもう少し広げてみたらどうだい。枯れかけた若木に話しかけられて喜ぶ雌蕊がいるとでも思うか?」

哀れみまでも含ませて下賤な声質の主は右耳から囁いた。

「僕が背筋と腹筋の調律が取れていないのを知っているだろ。それに一時の逞しさに靡く子ならこちらから願い下げだ。なんだったら枯れた若木の思慕を赤いチイクを塗ったあの頬に叩きつけてやろうじゃないか、そうだそうしよう」

以前と変わらぬ場所で香を焚いている娘を足塚は見つけたが、勇んでいた歩めを止めた。年中髪を重たがっている様子で不誠実な態度で香を焚きつけながら、壮年の夫婦に嫉妬を含んだ視線を投げかけている娘を見てしまったからだ。

「その胸郭、目立ち過ぎるからもう少し萎ませた方がいい。それと出来るだけ明後日の方向に進軍するべきだな」

 足塚は軽い眩暈を覚えながら、賑わいの影の方、なるべく暗い方へと歩を進めた。

「これは遊歩だ。何かを期待していた訳ではなく、僕はただ雑踏の中に何か詩の欠片が埋まっていないか遊歩しに来たんだ。なんだったら口笛を吹いてやろうかしら。これ見よがしにって訳でもないがね」

 足塚の拙い口笛は娘には届かなかった。下賤な声質の主はそれで良かったのだと足塚の右耳にそっと呟いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 純文学を書こうという気概 言葉選びのセンスが良い [気になる点] そもそも何を見せたいのかが不明瞭 あいまいさゆえの良さというものは見つけられなかった [一言] 今後も頑張ってください。読…
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