九話 黒は黒を追う 4
「もし、よければ……」
その日、そんな事を言ってしまったのは、焦りがあったからなのだろう。
彼女の心を繋ぎとめたいが、上手くその気持ちを伝えられない焦りだ。
「篠田家で、孤児院を援助してもいい」
孤児院の居間で、洗濯物をたたむすてに房光はそう切り出した。
それを聞いたすては、悲しそうに目を伏せる。
喜んでくれるだろうと淡く期待していた事もあり、房光は若干戸惑った。
「申し出は、嬉しいです。でも……」
「何か、気に障ったか?」
「いいえ、そんな事はありません」
慌てた様子で、すては胸の前で小さく手を振りながら言い繕う。
「言いましたよ。嬉しいですって。援助してくださるなら、どんなに孤児院の経営が楽になる事か……」
「ならば」
「でも、それに甘えたくありません」
すてはきっぱりと申し出を跳ね除けた。
「何故?」
「だって……」
すては言葉を切り、たたみ終った洗濯物を籠に入れてから続ける。
「もし、その申し出を受けてしまったら、それは私の心に負い目のような気持ちを作ってしまいそうで」
彼女は静かに語る。
少し悲しそうな声で、房光から目をそらして。
「房光様にとってもそう。もしかしたら、彼女は援助を受けたいがために、別れたくとも別れられないのかもしれない。そんな疑念を懐いてしまうようになるでしょう」
そんな事はない。
そう言おうとするが、それが言葉になる前に、すてはまっすぐ房光を見た。
「私は、疑われてもかまいません。でも、私があなたの事を想う気持ちだけは、疑わないでください。それだけは、自信を持って言える事ですから」
彼女は気付いているのかもしれない。
自分の気持ちに。
あの申し出には、確かに下心があったのだから。
彼女を離したくないと、そう考えたから言ってしまった事だ。
それを彼女は、非難しているのだ。
繋ぎ止める実利がなければ想いを向けられない女、そう疑われたと思って怒っているのだ。
「なら、小生の気持ちも疑わないでくれ。何があっても、小生はすてを裏切らない」
「はい」
すては優しく笑った。
「本当は、それだけじゃないのですけどね」
「そうなのか?」
「意地もあります。前にも言いましたけど、私は子供達を捨てたくないのです。援助を受ける事は、自分で育てる事を放棄してしまうみたいに思えて。それに、自分を売り渡してしまっているような気もして。絶対に、そんな事はするもんかって」
そう言った彼女の声は、静かであったが力強かった。
前に、か弱い人だと思ったが、そうじゃなかった。
彼女には折れることのない信念が、心に一本通っているのだ。
「それに――」
すてはもじもじとして、顔を赤らめながら呟く。
「こんな美丈夫を逃したら、多分、私は一生誰も好きになれないでしょうから」
ちらちらとこちらを見ながら言う彼女の様子に、房光はなんとなくおかしく思えて軽く笑った。
「小生は顔だけ、か?」
「いいえ。ただ、心根が顔に出ているかのようです」
珍しく洒落た事を言う。
躊躇いのない彼女の言葉に、房光は帽子を下げて顔をそらした。
顔の火照りに気付いてしまったから。
日が沈み、月が昇り、夜が来て久しく。
夜も半ば、人が眠りに落ちようとする時間。
そして、町は慌ただしく走る憲兵の足音と車の音で満たされていた。
房光は、路地の壁に体を預け、目を閉じていた。
「「マーシャルの近くにいなくていいのか?」」
クラークは房光に問い掛ける。
マーシャルとは、公的な保安官の事だ。
どうやら、憲兵の事を言っているのだろうが、クラークは憲兵の概念を知らないらしかった。
「必要ない。夢幻男爵は、ここに来る。予告のあった場所から逃げるとすれば、このルートを選ぶはずだ」
「「本当かよ」」
クラークの疑問には、房光に代わってフランドールが答える。
「「間違いはなさそうです」」
「「どうして」」
きっぱりと言い切るフランドールに、クラークは不審そうな声で訊ねた。
「「来ましたから」」
房光は顔を上げる。
すると、丁度ビルとビルの間にできた夜空を遮る影が、一瞬だけ見えた。
それは闇夜のカラスなどではなく、夜を駆ける怪盗の姿に他ならなかった。
「「おお、本当だ。って、どうやって追うんだよ」」
「「登るしかないでしょう」」
「「その間に逃げられちまうじゃねぇか」」
「「いえ、その心配はないかと」」
その言葉を証明するかのように、房光はその場で跳躍する。
窓などを足がかりに、蹴ってさらなる高みへ飛び上がる。
そうした壁蹴りを繰り返し、房光は屋上に躍り出た。
「「すげぇな、おい」」
呆れの混じった声で、クラークは感嘆する。
フランドールの身体能力は、人を遥かに超えている。
しかし、こうした動きの経験は全てが体を動かす人間の技能だ。
だから房光には、生前からこうした事ができたという事に他ならない。
房光は、屋上に降り立つとその場で隠れるようにしゃがみ込む。
「「おい、追わねぇのか?」」
その言葉に答えず、房光はある一点を見つめ続けていた。
目線の先では、夢幻男爵がビルを走っていた。
そして、彼が見つめる中、夢幻男爵の体から白い煙が噴き出した。
夢幻男爵は白い煙を纏ったまま、白い尾を引いて走っていく。
「「ああ、逃げられちまう」」
「「いえ、大丈夫です」」
「「どうして?」」
「「よく見てください」」
言われて、クラークが意識をそちらにむけると、視界が透明感のある黄緑色に染まった。
「「わ、なんじゃこりゃ……ん?」」
気付くと煙の中が透けて見えていた。
ヘビのように横たわる白煙の半ばには、しゃがみ込む夢幻男爵の姿があった。
「「便利な目だなぁ。っていうか、あいつなんであんな所でしゃがんでるんだ? 逃げる気がないのか?」」
「「逃げる必要がないのです。煙の中が見えない人にとっては、煙の先、突端が夢幻男爵の居場所に思えるでしょうから」」
「「なるほど、途中から煙の出る物を投げたんだな?」」
「「はい。黒煙ではなく、夜に目立つ白煙を使うという事は、あえてそちらに目を向けさせるためです」」
フランドールの言った通り、憲兵隊が白煙の先を追いかけていくのが見えた。
「「先手を取りたいが、俺の銃じゃあこの距離は少し遠いな」」
「「狙撃するのですか?」」
何故か、フランドールは不思議そうに訊ね返した。
その様子に、クラークは怪訝そうな声を出す。
「「てっとり早いだろう。まぁ、俺の銃じゃ無理だが」」
「「恐らく、房光さんの所持する銃ならそれも可能でしょう」」
「「房光の?」」
房光は外套の中に手を入れ、銃を取り出した。
彼の握っている銃は、シリンダーが一つしかなかった。
銃弾が一つだけ装填できるタイプのものだ。
シリンダーはフレームと一体化していて、そのフレームも肉厚で頑丈そうだった。
銃身も長く、重さも片手に余るほどだった。
「「古そうな銃だな」」
「曾祖父の代から伝わる古式拳銃だからな」
クラークの感想に、房光はそう答えた。
「「古式ではありますが、古式にしてはと言いますか、かなりの遠射性能があると見受けられます。遠中距離での狙撃を前提に作られた物なのでしょう」」
「「よし、じゃあそれを使おう。狙撃なら俺にまかせろ」」
だが……。
「いや、その必要は無い」
房光は提案を却下する。
「「どうして? あいつをどうにかするのがお前の願いなんだろう?」」
そんなはずはない。
房光は心の中で否定する。
房光が夢幻男爵を追うのはそれが房光の仕事だったからだ。
使命と言っても差し支えのなかった事だ。
そして、そんな使命に忠実な彼だったが、夢幻男爵に対しては例外のルールも自らに課している。
そのルールが夢幻男爵への銃撃を許さない。
房光が見ている中、夢幻男爵はビルから飛び降りた。
それを見届けると、房光は夢幻男爵の居たビルへと向けて、谷間を飛び越え駆けていく。
道の半ばにして、発砲音が聞こえ始める。
それも一発二発ではなく、雷鳴のような轟音が幾度も連続で夜闇に響き渡る。
「「何が起きてるんだ? あいつが、マーシャルと撃ち合ってるのか?」」
それは違う。
夢幻男爵は銃を使わない。
決して人を殺さないというルールが、奴にはあるからだ。
だが、それでもあんな銃撃の音がしているとするなら、夢幻男爵が一方的な銃撃を浴びせられているという事だ。
房光は目的の場所に降り立つと、夢幻男爵が降りた場所を見下ろした。
そこには、大型のゴミ箱に隠れる夢幻男爵ともう一つの影があった。
その影は、鎧武者のようにも見える金属の体を持っていて、背中より生えるパイプからは蒸気を噴き出し、周りは霧に包まれているようだった。
夢幻男爵に向けられた手は五指を持たず、それどころか手の形すらしておらず、手首にあたるだろう場所から先は丸く、丸い手の中央から細い銃身が伸びていた。
「「なんじゃ、ありゃ?」」
クラークが未知の物体に、そんな言葉を漏らす。
「「私のお仲間ですね」」
フランドールが答えた。
「「じゃあ、あれもお前と同じ機械なのか?」」
クラークの新たな疑問に答えたのは房光だった。
「そのような高等なものではない。あれはバイオロイドではなく、蒸気式無人甲冑。むの三号だ」
蒸気式無人甲冑とは、かつての大戦の最中にこの国で開発された人型兵器の総称である。
科学燃料の不足を解消するため、蒸気機関を動力にした兵器をコンセプトに作られた機体だった。
むの三号とは、戦争の末期に開発された試作先行機であり、実践配備も数少ない機体だった。
終戦間際に作られたため、製造されたはいいが配備すらされなかった機体もあったという。
あの機体も、その内の一機なのだろう。
「あれは隠密性能の高い高機動機体を目指して作られたが、蒸気の量をどうしても抑えられなかったために、隠密性能を台無しにしてしまった機体だ。だが、それを逆手に取り、むしろ蒸気の量を増やし、目をくらましながらの戦闘を可能にした」
蒸気を抑えるのではなく、増やした事により出力も上がり、さらに機動性能が向上した。
小型の固形燃料を使用するため、重量も軽く。人を超えた動きを可能にしている。
この機体ならば、夢幻男爵と同等、もしくはそれ以上に渡り合える事だろう。
「通称、夢幻」
奇しくもそれは、この兵器が追っていた者と同じ名であった。
「そして、小生の命を奪ったのはあれだ」




