六話 黒は黒を追う
どうした事だろうか?
体がぴくりとも動かないのは、先ほどと変わらない。
しかし、痛みと寒さが消えつつあるのはおかしな事だ。
こんな所で、長居しているわけにはいかないというのに。
もしや、これは死というものだろうか?
死した後には極楽浄土が待つという。
が、今の小生の前にそれが開ける様子は無い。
なら、小生はまだ、生きているという事なのだろう。
そのはずなのに、どうして体が動かない?
水の流れる音。
せせらぐ音は、こと暑き日に聞くには風流で、耳を慰めもする。
だが今のこの身にあっては、こうも虚しく響くものか。
ここは狭間か……。
死に向かう途中か……。
それは困る。
小生にはまだ、やらなければならない事がある。
追わねばならない。
追わねばならないのだ。
さながら、その思いは小生を追い立てようとするかのようだ。
だが、滾々《こんこん》と尽きる事無く、小生の胸から滂沱の如く流れ出る紅きものは、それと同時に小生の命を吸い取っていこうとしている。
見えずとも、触れている手がその様を如実に伝えてくる。
その手の感触も、もう殆どない。
小生は未だ死なず。
しかして、我が命、粛々と流れいずる。
なれば、我が役目、我が身に課す使命を諦めなければならないという事なのか?
そうであっても、せめて……。
身勝手と謗られようと、小生の願いを他に託し逝きたい。
それまでは、死んでも死に切れぬ。
誰か、誰でもいい。
小生の願いを聞き届けてくれ。
「わかりました」
死に際の幻聴か……。
はたまた死神の囁きか……。
可憐な声が、小生に答えた。
インストール開始。約四十秒後に完了予定。
……
…………
………………
インストール完了。
「いたぞ! 夢幻男爵だ!」
「追え! 追え!」
そんな怒号に追われながら、黒い影が夜の街を疾走する。
ひるがえらせた黒い外套で夜気を切り裂きながら走る姿は、まさしく影のよう。
ただ唯一、顔の上半分を隠した銀のマスクだけが、まるで闇夜に浮かび上がっているかのようだ。
さらけ出された口元から見える素肌は若々しく、その者が歳若い事を見る者へ知らしめる。
その者の名は、夢幻男爵。
ここ最近、巷を騒がせている怪人であった。
裕福な商人や、はたまた政府の高官。
財を誇るあらゆる者を標的に、前もって送られる予告状通りに盗みを働く。
そして、憲兵達が堅固に警備する場所よりまんまと宝を盗み出し、その名の通り夢幻の如く消え失せて逃げ果せる。
まさしく、怪人と呼ぶに相応しい奇怪なる犯罪者。
それが、夢幻男爵であった。
今もまた、夢幻男爵はある高官の夫人が異国の宝石商より購入したダイヤのブローチを盗み、憲兵達に追われていた。
「フハハハハッ」
憲兵達を嘲笑うように、深く響く男の声が夜の街にこだまする。
笑い声に疲弊の色はなく、追い詰めようとする憲兵など意にも介さない様子だった。
そんな中、夢幻男爵の前方から別の憲兵隊が姿を現す。
夢幻男爵はそれを見て、咄嗟に路地の横道へと入る。
だが、その道に先はなかった。
ビルとビルの合間にあるその道には、行く手を遮る壁が立ち塞がっていた。
この道には、確かに昨日まで壁などなかった。
この壁は、夢幻男爵がここを通ると見越して、憲兵隊が一日で作ったものだった。
夢幻男爵は人為的に作られた袋小路へと追い込まれたのだ。
危うし、夢幻男爵!
来た道へと振り返った夢幻男爵に、軍用ライトが照らされる。
光から逃れるように夢幻男爵は外套で顔を隠すが、すぐにそれをやめて背筋を正す。
外套が翻り、黒い燕尾服とシルクハットがあらわになる。
そんな夢幻男爵の前に、一人の男が立つ。
軍帽を被り、軍服に身を固めた体格のいい男である。
いかにも軍人という風貌の男だった。
男はライトを背にして立ちはだかる。
「今夜こそは逃げられんぞ。夢幻男爵」
男は厳つい声で言い放ち、それを聞いた夢幻男爵は「ふん」と余裕の笑みを口元に浮かべる。
「そう言って、私を捕らえられた事はありましたかな? 蘭堂大尉殿」
大げさな動きで胸元へと右手を当て、左手を差し出すように蘭堂へ向けて言う。
犯罪者にあるまじき、恥じる事はないといわんばかりの堂々とした立ち居振る舞いだった。
「ほざけ! 今夜だけは、この言葉を嘘にするつもりはない。それに、この状況から逃げられると思うのか?」
夢幻男爵は大げさに外套をはためかせ、蘭堂に背を向けた。
「ふうむ、確かにこのような物が行く手を遮っていれば、いささか逃げるに骨が折れる」
その声には一切の焦りがない。
さながら舞台俳優が観客へ独白するかの如く、夢幻男爵は芝居がかった言葉遣いで答える。
そこから流れるような動作で振り返り、左手の人差し指を蘭堂に向けた。
その様子に、蘭堂の後ろに配されていた幾人かの憲兵が銃を構える。
「だが、逃走経路というものは、我が前には如何なる形であろうと必ず存しているのだ」
宣言するように言い放つと同時に、かちりという音が夢幻男爵の左手袖から鳴った。
夢幻男爵の袖の中から、凄まじい量の黒い煙が噴出され、一瞬にしてその場所にもうもうと煙が立ち込めた。
「しまった、目くらましだ!」
ライトの光が黒煙に阻まれる。
その黒い煙に内包されてしまった憲兵達は、視界が奪われた上に煙を吸ってむせ、咳き込む。
既に夢幻男爵の姿を見失い、それどころか自分の居場所すら満足に把握できないでいた。
「夢幻男爵が逃げたぞ!」
そんな中、叫ばれる言葉。
「右だ、そっちにいったぞ!」
「蘭堂大尉に変装している!」
「捕まえた! 夢幻男爵を捕まえたぞぉ!」
それぞれ、別人の声が所々で上がる。
しかし、どれもバラバラで、憲兵達はどの言葉を信じればいいのかわからない。
それがますます、混乱を招く。
黒煙の中は混迷を極め、憲兵隊はすでに組織としての機能を失っていた。
「ええい!」
その中で一人、蘭堂大尉は忌々しげに吐き捨て、煙を掻き分けて煙幕の中から逃れ出る。
「くそ、やってくれる。奴はどこへ行ったんだ」
こういう時、奴ならばどうする?
蘭堂は今までの夢幻男爵の行動パターンを思い出して考える。
奴は、声と姿を自在に変える事ができる。
さっきの叫び声も奴の仕業に違いない。
ならば、まだこの黒煙の中にいる可能性がある。
という事は、奴は憲兵に変装してうやむやの内に逃げる気なのかもしれない。
どうする?
一端召集させて、点呼を取るか?
いや、待て。
そう思わせるのが、奴の狙いなのだとしたら。
声でかく乱させる事で、その場所にまだいるのだと思わせ、その間に逃げ去ってしまうつもりなのだとしたら?
奴はどこに逃げる? 奴なら……。
蘭堂は顔を上げた。
そこには彼の思った通り、夢幻男爵の姿があった。
ビルの壁にあるわずかなとっかかりを蹴って、夢幻男爵はビルの屋上へと跳び上がる所だった。
飛翔。
そんな言葉が頭に浮かぶような、重力を感じさせない身のこなしで、夢幻男爵は飛んでいた。
あれではもう追えない。
あの場所には、憲兵を配していない。
たとえ、配置していたとしても、並の憲兵では捕らえられやしない。
ビルの上の世界は、夢幻男爵の独壇場だ。
一度躍り出れば、ビルからビルに飛び移り、縦横無尽に駆け巡る。
そんな夢幻男爵を追える者など、憲兵にはいなかった。
たった一人を除いて……。
蘭堂は口惜しさに歯噛みする。
「あいつさえいれば……」
今回の作戦は、成功していたに違いない。
あの憎き悪党も捕縛せしめただろう。
続くその言葉を口にせず、蘭堂は夢幻男爵の消えた屋上を睨んで苦悶に顔を歪めた。
そんな彼の視界に、信じられないものが映った。
夢幻男爵とは違う、黒い影が反対側のビルから飛び出し、夢幻男爵の着地したビルへ飛び移ろうとする姿があった。
「あいつは……!」
蘭堂はその光景に息を呑む。
一瞬の事ではあったが、その姿は彼のよく知る者だった。
黒い外套と黒い軍帽。
それは憲兵隊の常用品ではあったが、そのビルを飛び越える姿は、間違いなく彼だった。
何より、そんな芸当ができるのは彼しかいないのだ。
嬉しさと共に、蘭堂は憐れさを覚えた。
「お前はまだ、あいつを追うのか? 死してもまだ、眠れぬと言うのか? それほどに、お前は奴を捕まえたいと、執念を燃やしているのか?」
夢幻男爵は背後の気配を察して、今まさに隣のビルへ跳び発とうとする足を止めた。
「遅ればせながらも私の前に現れるとは、君も中々に心憎い事をする。今日は、君の顔を見る事もなく、事を終えると思っていた所だよ。篠田くん」
屋上の端。
屋上の床と奈落の境界を分かつその場所で、夢幻男爵は背後に立っているであろう男へ振り返った。
「君のような堅物に、そんな洒落っ気が――」
完全に振り返り、相手を認めた夢幻男爵が言葉を止める。
「誰だね? 君は」
背後の人物が思っていた人物と違って、夢幻男爵は怪訝そうな声を出す。
振り返って見た先には、黒ずくめの少女がいた。
黒い軍帽、黒い外套、黒塗りの鞘に収められた軍刀。
どれもが、思っていた人物と同じ物だった。
「…………」
無表情で無口な所まで同じ。
しかし、その顔は別人のものだった。
「驚いたな。篠田くん以外に私を追える者がいるとは」
夢幻男爵は口元を歪め、フフと笑った。
「こうして私の元に来てくれた以上、何かしらのもてなしをした方がいいのかもしれないが。しかし誠に残念だが、私にもそれだけの時間の余裕は残されていない。ここで私は退場させていただこう」
言うと同時に、夢幻男爵は大げさに外套を翻し、ビー玉ぐらいの大きさの黒い玉を少女に投げつけた。
少女は鞘より切っ先の無い軍刀を抜き放ち、そのまま玉を両断する。
二つに分かたれた玉は失速し、重力に囚われ地に向かう。
その最中、玉からまばゆい閃光が放たれる。
が、少女は予めそれを予想していたかのように、両眼を閉じていた。
まぶたを閉じていなければ、目を焼かれてしばらく視界を奪われた事だろう。
少女が再び目を開けた時、そこにもう夢幻男爵の姿はなかった。
「「閃光が放たれている隙に、逃げ果せました。あの方にとって、あれはわずかな逃走時間を稼ぐためだけのものだったようですね」」
少女の内に、声が響く。
「「逃走経路はビルの下。飛び降りた後、ワイヤーで落下速度を緩めて着地。今ならまだ、追えますが?」」
「構わない。今日の仕事は終った。あれはもう、この夜に現れない」
少女、フランドールは答えると、切っ先のない軍刀を鞘に戻し、先ほどまで夢幻男爵の立っていた場所から背を向けた。