十一話 黒は黒を追う 6
名を知って、人柄を知って。要はその人間と知り合ってしまえば、今まで気にならなかった事も気になるという事である。
夢幻男爵を追って、その末に見失った場所が、たまたま孤児院の近くだったという話。
夢幻男爵が孤児院に逃げ込んだのではないか、と房光は心配になった。
この町のたった一つの孤児院にあの犯罪者が隠れようとするなんて、それはとても小さな確率で、房光は懸念しながらもそんな事があるとは半信半疑であった。
多少、心配が過ぎるとは房光自身も自覚していたが、そう思っても気になって仕方がなかった。
まして、意中の人物の住まいとあればなおの事。
房光は本隊に連絡をする事も怠って、孤児院へと足を向けた。
孤児院の門をくぐる房光。
すると、庭の納屋に明りが灯っている事に気付いた。
母屋には明りが灯っておらず、時間から言っても子供達は皆就寝している事だろう。
明りを見てすぐに夢幻男爵が忍び込んでいるのではないかと思ったのだが、その考えも改める。
子供達を起こさないために、すてがそちらで針仕事でもしているのかもしれない。
やんちゃ盛りの子供が多く、服がよく破れるのだと前に零していた。
それでも用心に越した事はなく、房光は足音を殺して納屋の引き戸の前に立った。
音を立てないよう、戸に隙間を作り、覗き込む。
その時には、俯いた小さなかむろ髪が見えるだろうと半ば思い込んでいた。
だからこそ、そうして覗き見えたものに、房光は驚きを隠せなかった。
目に映ったのは、蝋燭の火に照らされ、納屋の壁に大きく影を映す黒い外套。
その後姿だった。
その姿は紛う事なき夢幻男爵のものだ。
しかし、すぐに踏み込まなかったのは、仮面を外してあらわになった顔が、見知った顔であったからだ。
そう、それは彼の意中の人である我妻すてだった。
房光はその事実をどう受け止め、どう行動するべきなのか、様々な事柄と動揺と躊躇いを混ぜ合わせたかのような脳で考えを巡らせる。
今までに体験した事がない程に、目まぐるしく思考は回転し、しかし解決策へは到底たどり着けそうになかった。
冷静沈着にして、怜悧に事を運ぶ。
そんな印象が自分にあるのだとかつて同僚に言われ、自分でもそれを自負していた。
しかしそれはなんという思い上がりであったか。
房光は手で顔を覆う。
そうして触れた自分の顔は、酷く歪んでいた。
それを自覚すると、少しだけ現状というものが見えてきた気がした。
少なくとも、夢幻男爵が捕らえるべき目標であるという事を思い出せる程度には。
そう、夢幻男爵は捕らえるべき相手なのだ。
それは堅固な使命であり、決心でもある。
歪める事はできようはずもない。
しかし、そんな融通の利かない心に、ふとした囁きが聞こえた。
今の彼女は夢幻男爵では無い。
今の彼女は我妻すてであって、断じて、決して、夢幻男爵などではないのだと。
自分が捕らえるべきは、夜の町を跳び駆ける犯罪者であって、この孤児院を守る小さな少女ではない。
なら、捕らえる必要はあろうか?
誤魔化すように、遵守するルールの隙間を縫うような都合の良い考え。
詭弁であろう。
嘲笑する内なる自分を握りつぶす。
……今、彼女を捕らえる必要はない。
何故なら彼女は我妻すてであり、夢幻男爵では無いからだ。
あくまでも自分が捕らえるのは、夢幻男爵である。
だから、彼女が夢幻男爵の時以外は逮捕しない。
そのように、房光は自らのルールを曲げ、そして新たに課したのだ。
そして、彼女の自分へ対する気持ちへの疑念もまた、その時に生まれた。
デパートが多く建ち並ぶモダンな情緒のある一角。
その日は休日であり、道には人が溢れていた。
そんな道の端、洋風のオープンカフェでフランドールは紅茶のカップを優雅な仕草で口元へと傾けていた。
テーブルには、新聞がある。
見出しには、篠田房光殺害の容疑者として美術館館長が逮捕されたという記事が躍っている。
昨日、無人甲冑を倒した際に、駆けつけた憲兵へフランドールが説明したためである。
蘭堂大尉はしっかりと館長の追及をしてくれたようだ。
これからも余罪は明らかとされる事だろう。
紙面をなぞるその顔は無表情で、房光のそれと何も変わるところなどないように見えた。
実際、房光が体を動かしていたとしても、体はフランドールのものである。
何が変わってしまってもおかしな話だった。
しかし、今のフランドールの表情はまさしくフランドール本人が作ったものだ。
房光は表層に出ていない。
白いテーブルには、スコーンが三つほどのった小さなバスケットが置かれ、彼女の対面には誰も座っていない白い椅子があった。
その椅子に、ほっそりとした手がかけられる。
「ここ、よろしいですか?」
無言でその人物を確認すると、フランドールは静かに「どうぞ」と席を勧めた。
「ありがとうございます」
にっこりと笑って礼を言い、椅子に座ったのは我妻すてだった。
「「代わりましょうか?」」
フランドールは内だけに響く声で、房光へと訊ねる。
「「いらない世話だ」」
返答は実に簡素で淡々としたものだった。
感情の熱もなく、果たしてそれは恋人を前にしての態度だろうか?
これが最後になるかもしれないというのなら、なおのことである。
残念ながら、心がないと自負するフランドールがそれを解する事はない。
そう思いこそすれ、心にそった行動はできない。
だから、強引に房光を表層へ出す事はしなかった。
「どうして、私を逃がしてくださったのです?」
席に着き、何の話題も挟まず、答えを急くような間で彼女は訊ねる。
とはいえ笑顔はそのままで、そのような態度は微塵も見せなかった。
「さぁ、どうしてでしょう?」
とぼけたつもりはない。
実際、彼女と房光の間柄を正しく理解しているわけでなく、願いだけを聞き届けた身であるフランドールにとって彼の心など知れるはずもない。
だからその言葉は、フランドールが懐いた素直な感想でもあった。
「男女の仲なら、こうしたやり取りも面白いでしょうね」
そう言って微笑んだすての顔には、堂に入った妖艶さが浮き上がって見えた。
房光がこれまでに見た事のない表情だった。
自分の前では純真で純粋な印象を振りまいていた彼女だからこそ、今までの彼女との違いに軽い衝撃を受ける。
もし、今の房光に顔があったなら、眉根を顰めていた事だろう。
その機微をフランドールは感じていた。
内にある人間の感情は、それなりにわかる。
「彼の最後の願いだったのですよ。あなたをあの機械から守るように」
フランドールが言うと、すては表情を消した。
「それは無論、房光さんの事ですよね?」
「はい」
「なんだ……」
すては正していた背を反らせ、椅子にもたれかかって溜息を吐いた。
「いつばれたのかと思ったら、あの人にもばれていたのか」
態度の豹変するすてに、フランドールは無感情な瞳を向け続ける。
その視線に気付いて、すては再度背を正した。
「失礼しました。でも、いいでしょう? 今更、何を偽る事も無意味でしょうし」
「いいえ、誰かしらの感情が大きく揺さぶられるかもしれませんよ」
「そんな相手、もういないわ」
そう言ったすての声は、少し沈んで聞こえた。
「「すまないが、少し代わってくれないか?」」
フランドールは小さく頷いた。房光に代わる。
「あなたは、彼を欺いていたのか?」
「ええ、そうよ」
至極当然とばかりに、すては頷いた。
「そうか」
房光は呟くような声で漏らす。
「ならばやはり、小生に声をかけたのも情報を引き出すためか?」
彼女は最初、フランドールと房光を間違えたのだと言って近づいてきた。
背丈の違いすぎるフランドールを見紛うはずもなく、それは口実に過ぎないのだろうと確信しての問いだ。
「ええ」
言葉は難なく返される。
そこに一切の躊躇いは無い。
二人の間に、沈黙が訪れた。
すてはまるで目の前に座る房光を無視するように、目を雑踏へと向けた。
ふと、すては口を開く。
「でも……」
房光へと目を向けないまま、すては続ける。
「半分は本当」
「どういう意味か?」
意味を解する事ができず、房光は訊ねる。
すては顔を房光に向けて、にっこりと笑った。
「本当に、どこが似ているのかわからなかったけど、あの時本当に、あなたが彼に見えたの。どうしてか、今も彼を相手にしてるみたいなのよ。馬鹿みたいな話だけど」
にっこりと笑った顔は、その言葉の通りに馬鹿みたいに思って照れたからなのか、よく見れば朱に染まっていた。
「だから、あなたに伝えたいと思ったの。たとえ、あなたが彼でなかったとしても、彼に伝えたかった事を」
笑って細められた目から、頬へと涙が伝った。
顔の赤みは照れたからではなく、涙を堪えていたからだった。
きっと、笑顔を作ったのもそれを悟られないために違いなかった。
しかし、その目論みも彼女の笑みと共に崩れ去る。
一転して、彼女の笑顔は泣き顔へと変わった。
「生きている内に伝えられなかったから、だから、だからあなたに言わせてほしいの。騙してごめんって。騙したくなんかなかったって。好きな気持ちに嘘はなかったんだって。今でも大好きだって」
感極まったのか、彼女は堪えるように顔を歪め、そのままテーブルへと突っ伏した。
すすり泣く声が、突っ伏した彼女の口から漏れ出ていた。
房光はただ、何も言わずそれを見ていた。
おもむろに、フランドールは席を立つ。
泣き顔など、他人に見られたいはずはない。
そんな配慮からだった。
去り際、房光は囁く。
「知っていた。お前が夢幻男爵だという事は。それでも、小生は好きだという気持ちを捨てられなかった。すてと同じように……」
そう囁かれた声は、生前の房光と同じものだった。
驚いてすては顔を上げる。
そこにもうフランドールの姿はなかった。
しかし、彼女の前には確かに彼が立っていた。
姿は見えなくとも、今も彼女の前に房光はいた。
彼女を見守り続ける決意を以って、霊体の彼が彼女の前に……。
「「不器用な方ですね」」
「「だよなぁ。お前でもそう言うんだから、間違いねぇよな。疑いようもねぇよ」」
街の外へと向かい、道を行くフランドールとクラークはそんな会話をしていた。
フランドールは口を動かしておらず、会話は内だけで行われていた。
話の話題は今しがた別れた房光についてだ。
「「最後にチュウぐらいしてから別れりゃいいのに」」
「「そういえば、あなたの時もそうでしたね」」
「「それは言うな」」
自分は他人を茶化すくせに、クラークは自分の話に照れているようだった。
「「しっかしまぁ、あのお嬢ちゃんが夢幻男爵だったとはなぁ」」
「「ご存じなかったのですか?」」
「「知ってたのかよ」」
「「勿論。各種センサーを用いて、すぐに女性だと判明しました。そうして入手したいくつかの身体的特徴を比べて、同一であると照合しました」」
「「身体的特徴、ねぇ」」
若干、にやけた声でクラークは呟く。
「「何だかいやらしいですね」」
「「何がっ?」」
「「さぁ? 私には心がありませんので」」
「「またそれかよ。しかし、あいつは成仏もせずにこれからどうするのかねぇ?」」
「「彼女を見守っていくのでしょう」」
彼は見守り続けるのだろう。
彼女の幸せを祈りながらずっと側にいるだろう。
たとえ触れ合う事が叶わなくとも、彼は生涯に一度の恋のために、尽くし続けるのだろう。
それこそ、その魂を燃やして。
フランドールはそう思った。
「「それよりお前、あいつから技能をもらうんじゃなかったのか?」」
フランドールが死者の願いを叶えるのは、技能データをもらうためだ。
しかし、今回はデータをもらわずに房光を置いて来た。
「「サービスという事にしておきます。二人の幸せを願って」」
「「心が無い、か」」
クラークは懐疑的な声音で呟いた。
「「何か?」」
「「いや、別に。ただ、前よりお前の事が少し好きになった、って所だな」」
「「そうですか」」
抑揚のない声でフランドールは答えた。
夜の帝都。
明りを灯す高き楼閣。
屋根から突き出た飾りに、危うげな様子も見せないままに立つ少女がいた。
彼女は静かに笑みをたたえ、夜の街を見下ろしていた。
「ああ、麗しき東の都。びっくりするほどにエキゾチックで、ミステリアスで、本当にびっくりしたよ。しかし、お別れなんだよね。でも、この街は気に入ったから、また来るよ」
まるで人に接するかのように街へ向けて語ると、彼女は名残惜しそうな声で一言呟いた。
「夢幻男爵。欲しかったのになぁ」
呟いて一転、彼女はケタケタと楽しげに笑った。