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十話 黒は黒を追う 5

 思えば、その時の房光は自分でも気付かぬ内にうかれていたのだろう。


 美術館の入り口前。

 憲兵隊の車両が並んで停められた駐車場。


 彼は手の平に金色のリングを載せ、それを眺めていた。


 これはエンゲージリングというものだ。

 想い人に結婚を申し込む際、渡すものらしい。

 純金らしくなかなかに高価なものだったが、趣味に乏しく普段から金の使い道を持たない彼には、それほど苦にならない買い物だった。


 勿論、こんな洒落た物を房光が知っているはずもない。

 しかし、彼がこうしてこれを手に持っているのは、姉の薦めがあったからだ。


 房光の姉は生粋の軍人ではあるが、房光ほど融通が聞かないわけでもなく、物の風情が解かる人間だった。

 どこで知れたのか、房光に想い人がいる事を知って、時折強制的に相談を受けさせられていた。

 先日、房光が決心を固めた事を話した際、こうしたものを薦められたのだ。


 今の時代のこの国において、こうした指輪を送る事は一般的では無い。

 かつての敵対国家で盛んに行われた習慣であるからだ。


 とはいえ、気持ちを物に込めて贈るというのは、悪い気分でもなかった。


「どうした、中尉。やけに、嬉しそうじゃないか」


 かけられた声に目を向けると、蘭堂大尉がこちらに歩いてきていた。

 房光は指輪をポケットにしまって敬礼する。


「そのように見えましたか?」

「ああ。いや、お前の顔は無愛想な仏頂面だがな。なんとなく、わかるようになってきたんだよ」


 蘭堂大尉と出会ったのは一年前。

 夢幻男爵を逮捕するために、専門の憲兵部隊が編成された時だ。

 各隊の優秀な人員が集められたのだが、房光もその中にいたのである。

 房光が取り分け他の隊員よりも若いためか、編成当時から可愛がってもらっている。


「さっき見ていたのは、エンゲージリングという奴じゃないのか?」

「はい。その通りであります」


 もう敵対関係にあるわけではないが、敵対国の習慣に嫌悪感を示す人間はいる。

 が、蘭堂大尉は、そんな事を気にする人間ではなかった。

 気質の心地良い人間である。


「察するに、今夜にでも想いを告げる気だな?」


 大尉は髭面を悪戯っぽい笑みに歪めた。


「はい」

「悪いな。そんな夜に呼び出しを食らわせてしまって」


 憲兵隊は、ある美術館の警備をしていた。

 勿論、その理由は夢幻男爵が予告状を送りつけてきたからだ。


「だからと言って、追うのを切り上げて早退したりするなよ?」

「それはごもっともです」


 房光は口の端をわずかに上げた。

 それを見て、蘭堂は意外そうな顔をする。

 そしてすぐにその顔を笑みに変えた。


「お前も笑う事があるんだな」


 それは、自分でも忘れていた事だ。


「さ、警備に戻るぞ」


 蘭堂は背を向け、美術館に向かって歩き出す。


「はっ」


 房光は敬礼して、蘭堂に続いた。


 どうやら、この美術館の主は中を他人に荒らされる事がお気に召さないらしく、警備は美術館外の敷地内と周辺の道路だけと指定された。

 館内にいるのは館長だけだ。


 そんな事を言っている場合ではないので強行に中の警備をしようとしたのだが、美術館内の品を壊せば弁償させると脅されてそれもできなくなってしまった。

 落とし所として、今の様に美術館周辺を警備しているわけだ。


「ああ、そうだ。中尉、館長を見張りに行ってくれないか?」

「わかりました」


 房光は敬礼を返す。

 館長を見張るなどとおかしな話ではあるが、房光はその意図を理解した。


 夢幻男爵は声をまね、姿をまねる。

 かつて、家主本人に変装され、まんまと宝を奪われた事があった。


 もしかしたら、もう既に館長は夢幻男爵の変装かもしれない。

 そういった配慮があっての事だ。


 相手が夢幻男爵であるならば、被害者すら見張らねばならないという事である。


 房光は館長室へと足を向けた。

 紅い絨毯の廊下を歩き、もう少しで館長室という所。

 部屋の前で、ふと話し声を耳にする。

 漏れ出る声は、館長室の中からだ。


「ふふ……それで夢幻男爵に……」


 館長の声ではない。

 若い……というより幼いという印象の声だった。

 夢幻男爵という単語に、房光はつい足を止めて聞き耳を立てる。


「ああ、それがうまくゆけば……」


 今度は男の声だった。

 恐らく、館長のものだろう。

 この部屋には、二人の人間がいる。

 房光は足音を殺してドアに近付き、ドアノブをゆっくり回して小さな隙間を開ける。


「しかし、大丈夫なのか?」


 立っている館長の姿とソファーに座る誰かの背中が見えた。

 二人は向かい合っている。

 残念ながら、その誰かは身長が低いのか、後頭部しか見えない。

 ただ、この国に珍しい金色の髪で、外国人である事だけはわかった。


「相手はあの夢幻男爵。憲兵ですら捕まえられない。それを殺すなど、可能なのか?」


 殺す。

 その言葉に、房光の体が強張った。


「可能だよ。人間なんて死ぬために生きているようなもんだ。殺せない人間なんて存在しないよ」


 背を向ける人物は、楽しそうに語る。


「いや、あの夢幻男爵っていう奴。初めて見た時はびっくりするぐらい身体能力が高くて、本当にびっくりしたものだけど、でもやっぱり所詮は人間だよ。やってやれない事は無い。そのための秘密兵器だってあるじゃないか」

「だがねぇ……」


 館長は自信のない声を出す。


「金が欲しいんだろ? お宝の偽物を盗ませて、本物は売り払う。成功すれば、億万長者じゃないか」


 その言葉に意を決めたのか、館長は一転して強気の表情になった。


「ああ、その通り。全部夢幻男爵のせいにしてしまえば、ここの美術品を堂々と金に代えられる。そうすれば、こんな所の雇われ館長ともおさらばだ」

「そうさ、その通りさ。後は夢幻男爵を殺してしまえば、誰もこの事に気付く人間はいない。死んだ夢幻男爵の住処から、たとえ偽物の宝が出たとして、それも夢幻男爵のせいにしてしまえばいい。死人に口なしって奴さ」


 煽られて、気分が大きくなったのか、館長はそれに続いて同調する。


「そうだ。あんな悪党は死んだところで誰も困りはしない。むしろ感謝してもらってもいいくらいだ」


 そこで房光はドアを開き、中に踏み込んだ。

 館長は仰天し、一歩たじろいだ。

 房光がソファーを見ると、不思議な事に今まで座っていたはずの人物が消えていた。


 逃げたのか?

 あの一瞬で……。


 だが、今はそんな事などいい。


「館長、今の話は聞かせてもらった」


 館長は冷や汗をかきながら、「ぐぬぬ」と苦しそうに呻いた。


「あれは、あれは、ただの独り言だ。私に、そんな大それた事ができるはずがない」


 焦りにしどろもどろになりながらも館長は弁明するが、房光はそんなものに耳を貸そうとしなかった。

 房光はおもむろに館長へ近付くと、その襟首を掴んで捻り上げた。


 そのまま房光は館長を睨みつける。

 眼光は鋭く、その迫力は虎すらも竦みあがりそうな恐ろしさを伴っていた。

 首を絞められる苦しさと睨みつけられる恐怖で、館長は顔を引きつらせ、泣きそうな表情になっている。


 その時。


「夢幻男爵だ! 夢幻男爵が出たぞっ!」


 そんな叫び声が聞こえてきた。

 それを聞き、房光は渋々ながらも館長を解放する。


 ただ、収まらない気持ちを晴らすかのように、乱雑に投げ捨てる。

 館長は無様に赤い絨毯の上を転がった。


「この件については、報告させてもらう。重い沙汰は免れないと思え」


 言い捨てると、房光は部屋から出て行った。

 廊下を全力で疾走する。

 苛立ちはまだ消えない。

 でも、夢幻男爵が出た以上、優先するのはそちらだ。


 房光が展示スペースに到着すると、すでに宝は盗まれた後だった。

 窓ガラスを破り、逃げようとする姿だけを目にする事ができた。

 白煙が撒き散らされる館内。

 憲兵達は一様にその中であがき、夢幻男爵を追える者は一人もいなかった。


 房光を除いて。


 房光は夢幻男爵と同じように、窓から飛び出して外に出た。


 そして、いつもの追跡劇を経て、房光は一人河川敷に立っていた。


 あっさりと逃げられた。


 こんなに心を乱した自分では、それも仕方の無い事だろうが。

 房光は、溜息を吐いた。

 自分の情けなさゆえか、それとも安堵から出たものだったのか。


 しかし、今日はこれで終わりだ。

 すてに会いにいける。

 指輪を渡す事ができる。


 そう思えば、少しの嬉しさがある。


 思いつつ、房光は美術館に戻ろうと振り返った。

 そんな緊張の解かれた瞬間を狙ったかのように、銃声が一発、夜の河川敷に響き渡った。


 押されるような感覚が、左胸にあった。

 本当に、ただ少し強めに押されただけだと、そう思えた。


 房光は左胸に触れる。

 ぬるりと手に温かい液体が纏わりついた。


 その手を月明かりに照らし、そうして明らかになったのは血に濡れた紅い手だった。

 それに気付いた途端、遅れて胸に痛みが走った。


 撃たれてしまったようだ。

 不思議と冷静に、彼は思った。


 紅い手から視線を上げると、霧のような蒸気を纏う、蒸気式無人甲冑の姿があった。


 秘密兵器。

 館長室でのそんな言葉が思い出された。


 この国は大戦の際、統一国家の側についたため今でもあのような兵器の所持を認められている。

 そのため、各国と比べても文明レベルを高く保てている。


 しかし、それでも一個人が得ようと思って手に入れられるものではない。


 それをあの少女がどこからか手に入れてきたのだろう。

 入手経路は合法じゃないだろう。


 なるほど、これなら夢幻男爵を追える。

 互角以上に渡り合える。

 もしかするなら、殺す事もできるだろう。


 そして、ここで自分が口封じされてしまえば、次に狙われるのは夢幻男爵だ。

 この兵器は、夢幻男爵を殺すために放たれる事となる。


 そう思えば、房光は自然と刀を抜き放っていた。

 それは自らのルールに反する事かもしれない。

 彼はあるきっかけから自分の中で、夢幻男爵に対するいくつかのルールを設けていた。


 しかしながら、そのルールを以てしても夢幻男爵を助けるなどという法はない。

 夢幻男爵を助けるなど、あってはならない事だ。


 だが、それでも刀を抜かずにいられなかった。

 夢幻男爵を殺させるわけにはいかない。

 強くそう思った。


 その次の瞬間、彼が見せた動きは瀕死の重傷者とは思えないものだった。

 それこそ、無人甲冑の演算機器ですら、追えないほどの俊敏な動き。


 房光は銃弾をことごとくかわしながら無人甲冑に接近すると、その肩に飛び乗る。

 そして、首筋の隙間から内部に目掛けて軍刀を突き入れた。

 露出した電線が断裂し、余りに余った力は内部の鉄骨にまで刃を届かせ、強かにぶつけられた切っ先は鋭い金属音と共に折れた。


 無人甲冑は蒸気とは違う黒煙を立ち昇らせ、その場で膝をつく。

 だが、房光はそこで限界に達した。

 足を支える力を無くし、その場に崩れ落ちる。


 無人甲冑は動きを止めなかった。

 崩れた膝を立て直し、銃口を房光に向ける。

 しかし、房光の生命活動が停止しようとしている事を知ると、その場で踵を返した。


 甲冑の足音を聞きながらも、動かない体。

 そんな中で房光は死に焦燥を感じ、渇望し、フランドールに出会った。




 嵐のように止む事のない銃撃の音。

 同時に吐き出され、壁を穿ち続ける銃弾の雨。


 死を音にするなら、きっとこんな音なんだろう。


 夢幻男爵はこの状況と、そんな中に放り込まれた自分に焦りを覚えていた。

 まさか、帰り道にこんな物と遭遇するなんて思いもしなかった。

 憲兵達をまいたと思った矢先の事だったから、これと鉢合わせた時は大層驚いた。


 しかも、こうして休みなく銃撃を放ってくる。

 これというのは、蒸気を撒き散らす甲冑の兵士だ。


 夢幻男爵に対しては、射殺もやむなしという命令が憲兵達に出ている。

 現に撃たれた事も何度かある。


 しかし、ここまで派手に銃弾をばら撒かれたのは初めてだった。

 やむなしと銃殺前提の違いが如実に表れているようだ。


 白煙も黒煙も切れてしまって、目くらましで逃げる事もできない。

 閃光もあれに効くとは思えない。

 とはいえ、こんな中で飛び出しては如何に常人離れした自慢の身のこなしでも鉄火の餌食とされてしまう。


 蝶の様に舞い、蜂の巣の様に穴だらけだ。


 アホみたいな事を考える余裕はあっても、自分はもう詰んでしまっているのかもしれない。

 夢幻男爵は、溜息を吐いた。


 彼が死んで、自分の命運も同じように尽きてしまったのか。

 まだ、自分は死ねないというのに。


 諦めと悔しさを覚える。

 けれど、そこまで辛く思えないのは不思議だ。

 実際の所、自分はもう自棄になっていたのかもしれないな……。


 夜空を仰ぎ、諦め混じりの溜息を吐く。


 そんな時だった。


 夢幻男爵と無人甲冑の間、それも無人甲冑の目前に黒い影が降り立った。


 無人甲冑はそちらに銃を向けようとしたが、それが叶う前に一閃が無人甲冑の右手を撫でた。


 鋼鉄に包まれていたはずのそれは、その閃きが通った瞬間、斜めにずり落ちた。

 腕内に収められた銃弾帯がばらけ、銃弾がバラバラと路上を叩く。

 その閃きは、房光の握る軍刀だった。


「あの夜は、傷のせいで十分に剣を振るえなかった……」


 房光は無人甲冑に目を向けながら、そう語る。


「言い訳がましいが、不意打ちにさえ合わねばこのように愛刀を折るような事はなかっただろう。あそこで敗れる事も」


 感情のない無人甲冑にとって、それは理解する事のできない独白だ。

 ただ、この無人甲冑が判断できるのは、自分の銃がもう使い物にならないという事と目の前の脅威をどう排除するかという事だけだった。


 それでも房光が語ったのは、口惜しさがあったからなのだろう。

 房光が望んでいたのは、夢幻男爵をどうにかする事ではなかった。

 彼が望んだのは、夢幻男爵を狙うこの機械を壊す事だったのだ。


 無人甲冑が体を動かし、全身から軋みを上げる。

 さながらそれは、咆哮のようでもあった。


 鉄の豪腕が房光に振るわれる。

 銃がないとはいえ、その馬力は人の及ぶ物ではない。

 当たれば、ただではすまないだろう。


 房光はそれを避けようとせず、むしろ前進する。

 次いで、再びの一閃。

 腕の付け根へと刃を入れた。


 振りぬかれた刃の軌跡は美しく、鉄の腕を見事に断った。

 鉄腕が重量感のある音を立てて落ちる。


 間髪入れずのさらに一閃。

 次に落ちたのは、体の割に小さな頭だった。

 手足の動きを制御するため、無数の電線が密集した首が、軍刀で全て断ち切られた。


 無人甲冑は生物であるかのように脊髄反射に似た痙攣を起こし、膝を折り、しばらくして動きを止めた。

 いとも簡単に、あまりにもあっさりと、あの夜の決着はついた。


「どうして、私を助けたのかね?」


 問い掛けたのは背後に立つ夢幻男爵。

 房光は首だけを巡らせて一瞥すると、すぐに目をそらした。

 軍刀を鞘に収める。


「その上、逃がしてくれると?」


 意外そうに、夢幻男爵は訊ねる。


「小生に、もうそのような使命は無い。小生は小生として、望むべく事をするのみ」

「その言い草は、まるで彼のようだな。職務に忠実な彼が、そんな台詞を吐くとも思えないが」

「いや、篠田房光なら、きっとこうする。思っていたよりも、彼は自分に甘い男だったようだからな。我妻さん」


 言って、房光は跳躍した。

 そのまま壁を蹴って、彼はビルの上へと姿を消した。


 夢幻男爵は一瞬だけ驚きに口を開いたが、すぐに引き結んで苦笑に口元を歪めた。

 そして、仮面に手をかける。


「いつ、ばれたのでしょう?」


 そう虚空に質問をなげかける夢幻男爵の声は、鈴の鳴る音に似た少女の声だった。

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