唐突に「あなたを負かすなど、赤子の手をひねるように容易いですわ」と言われました
唐突に「あなたを負かすなど、赤子の手をひねるように容易いですわ」と言われました。
それを言ったのは、綾小路さんというお嬢様っぽい感じの女生徒で(本当にお嬢様なのかどうかは知らないけれど)、今は高校の体育の授業中で、担当教師がわりとやる気のない方なもので、自由時間なんだか何なんだかってなよく分からない妙な空気が流れている最中だったりします。面倒なので一気に設定とキャラクター説明をしてみました。
さて、“唐突に”と書いておいてナンですが、実を言うのなら、彼女がそんな事を言ったのにはそれなりの経緯があるような気がしないでもないんです。ただ、その今時、時代劇でも言わねぇだろってな台詞が現実に繰り出された事による衝撃で、その過程が忘却の彼方にぶっ飛んでしまったというだけなのかもしれません。まぁ、どちらにしろ、ほとんど聞いていなかったのですがね。
わたしはその素晴らしいセンスの台詞にこう返しました。
「確かにわたしを負かすなど、赤子の手をひねるように容易いかもしれない。だけど、綾小路さん。果たして、赤子の手をひねることはそんなに容易いのかしら?」
因みにわたしは、彼女の事が大好きです。綾小路さんは、それを聞くと「何を言っているのかしら?」とそう返して来ました。
「赤子の手をひねるのは、意外に難しいかもしれないって言っているのよ」
そしてわたしは手の平で、近くの地面を示します。
「さぁ、ここに赤子がいると思って、実際に手をひねってみて!」
「いないじゃない」
「いると思うのよ!」
それを聞くと彼女は腕組みをしながら、こう返しました。
「馬鹿馬鹿しい。どうしてわたしがそのような真似をしなくてはならないのです?」
わたしは力強くこう言います。
「あなたが言い出したことよ? 逃げ出すって言うの?」
すると、綾小路さんは渋々ながらそれに「分かりましたわよ。やればいいのでしょう?」とそう答えると、そこで赤子の手をひねる動作をしました。クイッっと。それを見てわたしは大袈裟にこう指摘します。
「駄目よ、綾小路さん! そんなに乱暴に赤子の手をひねってわ!」
「は?」
「ほぅら、ほらほら、赤ん坊が泣いているわ! やっぱり、あなたには赤子の手をひねることなどできなかったのね!」
もうお分かりかもしれませんが、一応断っておくと、正確にはわたしは彼女をからかうことが大好きなのです。綾小路さんは、頬をひきつらせるとこう言います。
「そんなのあなたが勝手に言っているだけじゃないの!」
わたしは“うん”と頷くとこう返します。
「そうよ、まったくその通りだわ! でも、それはあなたも同じ! あなたは一体、どんなことでわたしを負かそうというのかしら?」
「だから、聞いていませんでしたの?」
だから、聞いていませんでした。やっぱり、彼女があんな現実世界ではおよそ聞かないような台詞を言ったのには、それなりの経緯があったようです。それはもうまったく覚えてはいませんが。綾小路さんは、陸上のスタートラインを指差すと必死に続けます。
「わたしは短距離走で、あなたを負かすとそう言っているのですわ!」
「そーいう事は、早く言いなさいよ」
「だから言ったんですわ!」
見ると、そのスタートラインのちょっと先には綾小路さんの取り巻きのA子さんが立っていました。きっとあそこがゴールってことなのでしょう。50メートルといったところでしょうか? わたしは余計な事は言わずに、素直にそこまで歩くと構えます。いえ、なんか色々と言ったりしたりすると、話がまったく前に進まないような気がしたもので。
「ホホホ。やっとその気になりましたのね」
嬉しそうに綾小路さんも構えます。とても彼女らしく、大袈裟にクラウチングスタートのスタイル。外しません。期待を裏切らない。やっぱりわたしは彼女が大好きです。
二人揃ったところで、取り巻きのB子さんが「よーい、ドン!」の合図をしました。勝負をすると言い出しただけあって、綾小路さんはとても速かったです。わたしの一歩先くらいを軽快に疾走しています。しかも「ホホホ!」と謎の怪笑いを発しながら。流石です。外しません。期待を裏切らないのが彼女のとても良い所だと思います!
やがて、彼女はわたしより先に取り巻きのA子さんの前を駆け抜けました。
「やりましたわ! 勝ちましたわ!」
そしてそんな喜びの声をあげました。わたしはそんな彼女の横を駆け抜けます。唖然と、そんなわたしを彼女は見送ります。通り過ぎもう後になってしまったので、どんな顔をしているかまでは見えませんが、今頃はきっと怪訝そうな表情を浮かべているのだろうと思います。ある地点を駆け抜けて、わたしはこう言いました。
「やった! 勝ったわ!」
大袈裟に喜びます。すると、やっぱり、綾小路さんはわたしの近くにやって来てこう言いました。
「何を言っているのです? わたしの勝ちですわ。先に50メートルにゴールしたのは、わたしですもの!」
わたしは“かかった!”とそう思うと、こう返しました。
「あら? そんなのあなたが勝手に言っているだけじゃない。わたしにとっては100メートルがゴールなのよ」
「あそこに目印が立っているじゃ、ありませんか!?」
「あの子が目印だなんて、あなたはまったく言わなかったじゃない。ほぅら、やっぱりあなただって勝手に言っているだけだったでしょう?」
それを聞くと、綾小路さんは歯を食いしばり、「ぐぬぬ……。分かりましたわ。もう一度、今度は確り50メートルと決めて勝負を付けましょう」とそう提案してきました。わたしはそれに「嫌よ」と、そう返します。
「なんでですの?」
納得いかないといった表情で、彼女はそう訊いてきます。
「もう疲れたから」
「は?」
「そもそも、なんで、ほぼ自由時間の体育の時間に、こんなに真面目に徒競走をしないといけないのよ? ダラダラしましょうよ、ダラダラ」
「いや、だって、あなた、さっきはあんなにやる気だったじゃない? どちらが速いか勝負をしましょうよ!」
それを聞くと、わたしは「ふっ」と笑います。
「勝敗を決めるなんて虚しいわ。どちらが速くても良いじゃない。50メートルの方が速い人、100メートルの方が速い人、1キロの方が速い人。42.195キロの方が速い人。それぞれがそれぞれで速い。優劣なんて基準が変わればいくらでも変わるものよ。だったら、勝ち負けが一体何になると言うのかしら?
小説なんて、点数をつける基準がほぼない状態で、みんな、点数をつけているのよ? 優劣なんてつけられるはずがないじゃない! 中島敦の文体とか、果たして正当に評価できる人が何人いるのかしら?」
「あなたは何を言っているの?」
本当に、何を言っているのでしょうね?
「あなたには分からないのね……」
わたしは寂しそうな、綾小路さんを憐れむような目をつくって向けると、淡々とこう続けました。
「スポーツにおいて、本当に重要なのは勝ち負けじゃない。ひたむきに努力して精進するその美しい姿にこそ価値があるの。人々は、その姿にこそ勇気づけられるのよ!」
「いや、さっき、あなた、ダラダラしたいって言っていたじゃない!?」
そこで誰かが綾小路さんの肩に手を置きました。さっき、50メートルのゴールの所にいた取り巻きのA子さんです。彼女はこう言いました。
「わたしもそう思います。重要なのは、勝ち負けじゃありませんよ、綾小路さん」
それに綾小路さんは引きつった表情を見せます。
もうお分かりかもしれませんが、一応断っておくと、取り巻きのA子さんも、綾小路さんをからかうのが大好きなんです。
「その通りよね!」とそれを受けてわたし。
「その通りです」とA子さん。
そして「なんなんですのー!」と叫ぶ綾小路さん。
なんだか、とっても楽しい体育の時間でした。
いや、なんか、遊びたくなっちゃって……