南の方で弾性
それは急な思いつきだった。三月の月曜だった。天気は良くて、風は穏やかだった。気持ちの良い日だというのに、真っ暗な地下の道をぎゅうぎゅうに人の詰まった電車に揺られ移動して、ほとほと嫌な気分だった。地上に出て、太陽に目が眩み、一瞬立ち止まってしまったことが僕の運命を変えた。僕は人の流れに逆らうように地下に戻ると、近くのターミナル駅に向かった。
『どうしたのですか?』
「なんでもない」
『「会社」に、連絡をしますか?』
「いい」
僕は改札を出ると、窓口へ向かった。
せいしゅん! じゅうはちきっぷぅ!
頭の中で、あの有名な猫型ロボットの声で再生させると可笑しくてたまらない。今の状況も相まって。
もう戻れない。知るもんか。どうしようもない……どうにでもなれ。なってしまえ。僕は意を決して、ゴミ箱に社員証を投げ捨てた。
「なぁ」
『はい。なんでしょう』
「検索してくれ。『最南端』、『駅』」
『かしこまりました。ーー検索結果が出ました。鹿児島県、西大山駅』
「じゃあそこまでのルート案内。条件に『青春18切符』を入れてーー」
ホームに降りる。手に持った鞄を見つめる。角が剥げ、傷んでいる。僕はネクタイを外すと乱暴に押し込み、必要最低限のものだけを取り出してポケットに入れ、鞄はホームのベンチに置いて、来た電車に乗った。
*
『「会社」、からの着信です。電話に出ますか』
「いい。その番号からの電話を今後一切拒否してくれ」
『かしこまりました』
……かしこまりました。承知しました。「了解しました」は正しい敬語じゃないから使っちゃいけない。「なるほど」も失礼にあたるから目上の人には使っちゃいけない。
「申し訳ありません」。学生時代にコンビニでアルバイトをしていた時、当時仲良くしていた先輩は「謝るのも仕事の内だ」って言ってたっけ。
申し訳ありません。失礼いたしました。すみません。以後気をつけます。
最近、謝ってばっかりだ。僕は。でも、心の中では本当に悪いことをしたとは思ってない。
怒られる前に先読みして謝っておくのが癖になっている。嘘ばっかりついてる。
「音楽を流してくれ」
『何を再生しますか』
「おとなしいやつを」
くぐもった電車の走る音を背景に、クリアなピアノの音が流れ出す。窓の外を見れば、ちょうど熱海を過ぎた頃で、海がぱちぱち光っていた。日光によって身体の左半分が熱い。
これから二時間は電車に揺られている訳だから、と、僕は目を瞑った。
*
昼には静岡を過ぎていた。駅のホームで温かい緑茶を飲んで、キヨスクで買ったおにぎりを二つ食べた。上司と食べる定食屋のランチより断然うまい。好きでもない人と食う飯なんて、うまかった試しが無い。いつもは小便からその臭いがするほどにブラックコーヒーばかり飲んでいるけど、久しぶりに飲む緑茶はうまい。子どもの頃、実家で母が淹れてくれたお茶の味を思い出す。
ーー近頃、火星に独り置いてけぼりにされながらも何とか生き延びて地球に生還する映画を観た。それと関連して、無人島で独りぼっちになりながらも何とか生き延びる映画も観た。観たんだけど……どうにも僕にはしっくりこないところがあった。
どうせ死ぬのに、どうして人は生きるんだろう。どうして生まれてきたんだろう。何のために。映画の中の主人公の気持ちがわからなかった。僕だったら、なるべく苦しい思いをしない内にサクッと楽になることを選ぶだろう。
なぜ生きる。……それが自らの幸せの為ならば、どうして僕は毎日うんざりしながらルーティンワークをこなしているんだろう。人にとっての幸せを究極にシンプルにしていったならば、それは毎日食事を食べて、身体を動かして笑ったりして、眠くなったらぐっすり眠る……晴れたら外で日光を浴びて、雨が降ったらしのげるような場所でお話しをしたり、絵を描いたりする……。そんなところじゃあないだろうか。少なくとも、朝起きたらすぐ仕事に向かい、会社で息苦しい思いをして帰ってきたら、胃に何かしらを詰め込んで身体を洗い流し、次の日の仕事のために早く眠る……だなんて生活ではないはずだ。そこまでして生き延びて、帰ってくる価値が、この世界にあるのか。あるのだろうか。
空を見上げる。真っ青な空が広がっている。ーーが、その手前には飛蚊症による奇妙奇天烈な幾何学模様が浮かんでいる。視線を動かすとヤツらは少し遅れて移動して、決していなくならない。
視力は毎年少しづつ落ち、レンズは少しづつ分厚くなる。その内見えなくなってしまうんじゃないかと、怖くなる時がたまにある。
贅沢を望んでいる訳でもないのに、ただ普通に生きることがどうしてこんなに難しいのだろう。頭を下げ、屈辱に耐え、怒りを押し殺し、ひたすらパソコンのディスプレイに向かう。先輩の貧乏ゆすりは注意できない。咳をしているならマスクをしろ! 愛想笑いをしている自分が嫌いだ。……そうして限りある僕の時間が、削られるように失われていく。
次の電車が来て、乗る。運がいいことに、僕はずっと座れていた。ボックスシートの窓側、進行方向を向く形で座った。
山の中を突っ切っていた。僕はだらしなく、浅く座るような形で背もたれに頭をあずけ、外を見た。
頭を横にして見ると、木々の緑が視界の上に向かって流れてゆく。凄まじい勢いで。
まるで、ずっと自然落下しているように見えた。
*
日付がもうすぐ変わるという頃に広島に着く。外に出ると真っ暗で、すっかり街は寝静まっていた。
コンビニで肉まんを買い、食うと近くの温泉施設に入った。暖まり、仮眠室で眠る。ずっと夢を見ているような非現実感がつきまとう。夢は見なかった。
冷え込む朝の中に出る。二日続けて着るスーツは不快で、どこかで適当に動きやすそうな服を買おうと思った。昼頃に着いた熊本の服屋でスウェットとダウンを買う。「着て行っていいですか」と言うと店員は少し戸惑い、「これ、捨てておいてもらえますか」とスーツを手渡すと、店員は大いに戸惑った。僕はそのやり取りを、靴屋でもした。
駅のベンチに腰掛ける。ずっと身体が揺れているような感覚を覚える。髭が伸び始めている。空には雲一つ無かった。空気は清々しく、気分が良かった。
会社に対する未練は少しも無かった。僕は会社を信じていなかったし、会社も僕を信じていなかったと思う。僕にとっては体力と時間を金に変換する場所でしかなかったし、会社にとって人は一歯車程度でしかなかった。「運用するもの」だったのだ。まさか歯車が突然勝手にどこかへ行ってしまうとは思うまい。困ればいい。……まぁ、僕の代わりはいくらでも居るから、実際のところそこまで困ってもないだろう。大量生産品の歯車だったんだ。僕は。
電車の中から夕陽を眺める。僕の職場からは見えなかった。窓が東を向いていたからだ。隣のビルに反射するオレンジ色の光を、僕はいつも恨めしく見ていた。美しいものが見られない職場だった。
小さな宿屋を見つけて泊まる。することもないから、風呂に入ってすぐに眠った。朝一番の電車に乗るために早起きすると、宿屋の女将が「お早いんですね」と話しかけてきた。
「どこへ行くのですか」
「西大山に」
「西大山に、何かあるんですか」
「んー……何があるんでしょう」
きょとんとする女将を尻目に、僕は苦笑しながら外に出た。冷たい朝の道を歩きながら辺りを見回す。本来なら、出会うはずのなかった風景だ。僕は頭を横にして見た。まだ落ちる。まだ落ちる。
電車に再び乗り込んで、二つ乗り換えると西大山に着いた。駅の外に出ると、海に向かって歩いた。
ようやく着いた海は綺麗だった。太陽も綺麗だ。空も綺麗だ。僕は綺麗なものが好きだ。綺麗なものはそこらじゅうに当たり前にあるというのに、これ以上何を求めるというのだろう。僕は一つやりきって、とても満足していた。
防波堤に腰掛ける。光をいっぱいに含んで、髪が、真っ黒な服が熱い。ダウンのジッパーを下ろすと、風を含んで膨らんだ。深呼吸をして、潮の匂いを堪能した。
「ねぇ」
『はい、なんでしょう』
「ここから東京までは何キロある」
『約千二百キロです』
「歩くとどのくらい?」
『……』
「……ねぇ。歩くと、どのくらい?」
携帯電話を見ると、バッテリーが切れていた。充電器も持ってきていないから、回復させることもできない。
外に出る時には常に耳栓代わりにしていたイヤホンを、外した。一定の間隔で寄せては、引いてく、波の音が聞こえる。あちこちで鳥が、高い声で鳴いている。
僕はしばらくそこで景色を見ていた。飽きることがなかった。やがて座っていることに疲れると、立ち上がり、惜しみながらも歩き始めた。
近くに温泉があるみたいだから、そこで一泊していこうと決めた。僕はコンビニに寄ると、そこのゴミ箱に携帯電話とイヤホンを捨てた。
小さく縮こまっていた心が、むくむくと膨らんできたような気がしてきた。なんでも出来る気がした。今まで「時間が無いから」とか、「才能が無いから」とか言い訳して、やってこなかった、あらゆることを、やってみようと思えてきた。
とりあえずまずは歩いて東京まで帰ってみようかな。……どれくらいかかるんだろう。
やってみなくちゃわからない。