孤独の欠片
「じゃあお母さん戻るから」
「うん。気を付けて」
今日もまた、笑顔の仮面をかぶる。自分の本当の気持ちを悟られないように、何年もかけて肌に馴染ませてきた、歪な仮面を。
パタン、と無機質な音を立ててドアが閉まった。足音が遠ざかり、エレベーターの到着音が聞こえ、そして完全な静寂が訪れる。
大雅は鍵を閉めると、まるで昂った気持ちを抑えるように呆然と廊下に立っていた。
母の腹は、以前会った時よりもさらに大きく膨らんでいた。あの中には、新しい命が宿っている。義父との間にできた、純粋で、望まれた命が。
大雅がまだ幼い頃、実の父が死んだ。泣き崩れている母と、冷たくなった父の遺体が妙に印象に残っている。
母一人での子育ては、とてつもなく大変だったろう。周囲の助けを借りて生き延び、その過程で出会ったのが、今の義父だ。有り余る金を持ち、笑顔なのに目の奥が冷たい、そんな人物である。
義父と、夫に酔っている母、あの家に自分の居場所なんて最初からなかった。別居を申し出た時、母が一瞬だけ見せた安堵の表情を、大雅は生涯忘れないだろう。
それでも、今はその選択を後悔している。
大雅は愛に飢えていた。
働き詰めだった母に甘えることもできなかった幼少期、幸せな今の家族を邪魔してはならないと身を引いた現在。
無駄に広い空間で、電気を付けても音楽を大音量で流しても、寂しさは消えない。そうしているうちに、心の穴は二度と塞がらなくなってしまった。
気付かないふりをしていたのだと思う。
このままいい子でいれば、いつか愛してもらえるのではないかと。母が昔のように笑って、優しく抱きしめてもらえるのではないかと。
かつて愛してもらえたあの日々を、暗闇の中まだ探しているのかもしれない。
大雅はふらりと振り向き、部屋に戻って制服に着替えた。玄関に向かおうとして、途中で鏡に向かって微笑む。友達なんていないというのに。
『あなたの日常を、魔法少女が守ります! だから、怪人が来ても安心です。また、魔法が使えるようになった方は、直ちに魔法省本部にお問い合わせください!』
部屋を出て、街頭ビジョンから流れてきた声に、大雅は顔を上げる。いつも見ている薄っぺらい広告だ。
一昨日、怪人との戦いで魔法少女が一人死んだ。
広告のセンターに立ち、街中の視線を奪うような笑顔が似合う、紫色の髪の女の子だった。当日はどのテレビ局も悲劇のヒロインとして扱ったが、今日になるともう、過去のデータとして処理され始めている。
広告のセンターは、ピンク色の髪の、新しい女の子に変わっていた。
この世界は理不尽だと、まだ世界を知らない一人の少年が呟いた。
◆◆☆◆◆
淡々と授業を受け、HRが終わると大雅は一人で同じ道を辿って帰る。
いつものようにポストを確認した。その日はいつも通り何かに欠けていて、つまらない日常の一部になるはずだった。
「手紙……?」
ポストに5枚、紙が折られて入っていた。大雅はあとで確認しようと鞄の中に紙をしまい、自分の部屋の鍵を出した。
突然、大雅の肩が叩かれる。
「……っ!?」
大雅は驚いて振り返った。
「やっほー、大雅くん。驚かせちゃったか」
「あ、カイさん……」
彼の名前はカイ、漢字は知らない。義父の部下らしい。一人で暮らす大雅が心配だからと、毎日大雅の部屋に来て夕食をともにする。
「中入ろうか」
「……はい」
鍵を開け、二人で部屋に入る。
カイは慣れた手つきで、買ってきた惣菜を皿に移し、味噌汁を手際よく温め直した。無機質で広すぎるキッチンに、大雅が一人では決して作らない、生活の音が満ちていく。
「学校はどう? 嫌なこととかなかった?」
「……普通です。特に、何も」
「そっか。大雅くんは聞き上手だから、周りも助かってるんだろうなあ」
大雅にとって、この時間は間違いなく救いだった。
箸を動かし、温かいものを胃に流し込む。カイと交わす他愛もない会話。
「明日は雨らしいよ」「最近、駅前に新しいパン屋ができたんだ」
そんなありふれた日常の欠片が、この時間がずっと続けばいいのにと思うほど愛おしい。
大雅は、鞄の奥底にある紙の感触を思い出していた。
それをカイに見せれば、彼はきっと親身になって相談に乗ってくれるだろう。
けれど、大雅がそれを言いだすことはない。当たり前だ。
大雅にとってカイは、絶対的な味方ではないからだ。こんな自分に気を遣ってくれるわけではあるが、あくまでも他人である。
「……大雅くん? ぼんやりしてどうしたの? おかわりあるよ」
「あ、いえ。……美味しいです。ありがとうございます」
大雅は作り笑いを浮かべ、慌てて箸を動かした。
食事を終えると、カイは「じゃあ、また明日ね」と優しく手を振って帰った。大雅はふっと息をつく。
毎日同じことの繰り返しだ。
大雅は机に課題を出し、ため息をつきながらそれを進める。
しかし、大雅はふとポストに入っていた紙のことを再度思い出した。鞄を引き寄せ、紙をゆっくりと広げ始めた。




