11 番じゃないから
翌日、午前中のお出かけから帰ってきたマティアス様にお茶会について報告すると、彼はとても驚いていた。さすがにオースティン王子が来るとは彼も予想していなかったらしい。
「姉上と兄上は、お元気だったか」
「はい。お二人とも、マティアス様のことを気にかけていらっしゃいました」
王子も王女も、マティアス様のことを弟として心配しているようだった。マティアス様はそれを聞くと、少しはにかんで、そうか、と言った。
城にいる兄と姉と、王都の外れの屋敷に暮らす弟。離れて暮らしていても、彼らはお互いを大切に思っている。
でも、仲の良いきょうだいのように思えるのに、彼らのなかにどこか遠慮が見えるのは、きっと勘違いではない。
——君ならきっと、マティアスが答えてくれる。
そう言っていたオースティン王子。そうだ。マティアス様のことを知りたいのなら、他でもない彼に聞くべきだった。
「あの、マティアス様」
「うん。なんだ?」
「マティアス様が病弱な王子として、ここに住んでおられるのはなぜですか」
マティアス様は紅玉の瞳を何度か瞬かせ、黙ってしまった。
唐突な私の問いに彼が何を思ったのかは分からなかった。
「もちろん、答えられないことや、答えたくないことは仰らなくても結構です」
「……いや、ライラ。お前には言いたい……聞いてくれたのも嬉しい」
ソファに座った彼は、おいで、と言って、自分の隣に座るように促した。いつもは向かい合って座り、話をしたりヒュエスをする。こうしてすぐ隣に座るのは初めてだ。
「ライラは今まで、俺に深入りしないようにと、俺のことが気になっても聞いてこなかったな。王族の面倒な事情に踏み込みたくなかったのだろう。でも今日こうやって聞いてくれたということは、それを押してでも俺のことを聞きたいと思ってくれたということだ。ライラにとって俺が、ただの同級生ではなくなったと思うと、嬉しい」
「少なくともずっと“ただの同級生”ではありませんでしたが」
「はは。そうだな。雇い主だ」
まぁ侍女と雇い主としても、こうして毎日どうでもいい話をしたり、ゲームに興じるのはきっと普通ではないだろうけれど。
「……俺が病弱という話になったのは、母がそう言ったからだ」
「王妃陛下が……?」
「あぁ。母上がそう決めたのなら、俺はそれに従うしかない。つまり病弱で、勉学もままならず、健康に不安があり、ろくに公務もできない王子——平たく言うとそういう存在になれと、母上が言った」
「なんでそんなことを」
「母が望む通りの王子であれば、たとえ俺の瞳が兄上よりも鮮やかな紅玉でも、魔力が強くても、兄上を蹴落とすことはないだろう?」
何度か遠目に見たことがある気高く美しい王妃陛下が思い浮かぶ。あの王妃の意向により、彼はずっと表舞台から遠ざけられてきたらしい。オースティン王子の王位継承を確かなものにするために。
「そういうことになったのは、八つのころだったかな。風邪一つ引いたことがない健康体だったが突然、もう宮からは出てはいけない、表に出るときは青白い化粧をする、令嬢令息を集めた茶会には参加してはいけない……、そういうことになった」
「そんな……国王陛下は何もおっしゃらなかったのですか」
「父上が関心を持っているのは兄上と姉上のことだけだ。俺について興味を持たれていない。俺に関することは母上に一任されている」
「……」
「ふふ。徹底していたぞ。学園に行くまで、俺の話し相手はヘンリーだけ。一応家庭教師と魔法の師匠が来ていたが、あとはたまに兄上と姉上がいらっしゃるのみだった。稀におかしな奴が寄ってくることもあったが、そういうときはベッドの上で病人のふりだ。その内興味をなくして去っていく」
想像もつかない生活だ。
限られた空間で過ごすことを強要される日々。自分を偽り続ける毎日。そんな生活を、彼は十年も強いられてきた。
それは、王妃としての政治的な判断なのだろうか。我が子の存在を邪魔にすることが? そうすることが、国のためと?
「あぁ、そんな顔をするな。お前が思うほど悪い日々じゃなかった。宮にいる使用人は皆、俺を尊重する人間ばかりだった。宮の中で完結することは許されていたから宮の庭園で運動もしたし、望んだ本はいくらでも届いたから勉学だって好きなだけ打ち込んだぞ。まぁ母上がどう思っていらっしゃるかは別として、見てのとおり健康に育った。学園に行きたいと言えば行かせてくれたしな」
学園に入学すると同時に彼はこの屋敷へ移り住んだのだという。さすがに毎日王宮から学園に通うと、いつ真実が露見するか分からないからだ。マティアス様の希望により、そのまま卒業後もこの屋敷に住み続けられることになったらしい。
感謝するような口ぶりで語る彼を前に、憤りがこみあげてくる。
「でも、本当の自分としては、マティアス王子としては行けなかったのですよね」
王族どころか、平民として。レオンと名を変えて通うしかなかったのだ。
「……あぁ。そうだな。それでも学園に行けたから、こうして王宮を出られたし、お前に会えた」
マティアス様が私の頭を撫でる。
その手のひらが温かくて、彼の瞳が優しくて、私はなぜか泣きたくなった。
「俺にとっての特別な人に、出会えた」
その瞳が雄弁に語る思いは、明らかだった。
「だめです、マティアス様」
「まだ何も言ってない」
「ですから、言わないでください」
「いやだ。言いたい」
マティアス様はそっと、私を抱きよせた。
男性とこんなに密着するのは初めてのことだった。とても温かくて、いい匂いがした。静かな部屋の中で、私の心臓だけがばくばくと激しく動いている。それなのに、マティアス様の温かさには安心して、もう離れるべきだと思うのに離れがたかった。
「かわいいな、ライラ」
「……!」
「お前が俺への壁を壊してくれるのを待っていた。好きだ。俺はずっと、お前が好きだよ、ライラ」
その声は、切実な響きを孕んでいた。私はマティアス様の腕のなかで、彼の顔を見上げた。
「わ、私とマティアス様では釣り合いません」
「そんなもの、大した問題ではない。俺は王子だが病弱ということになっているし、兄上に子ができれば臣籍降下する予定だ。おそらく公爵か侯爵あたりとクランシー伯爵の爵位をもらう。スペアとしての役割から逃れることはできないだろうが、むしろ爵位が高いご令嬢を娶るよりは歓迎されるはずだ」
名家のご令嬢が妻となると、へたな政争の具になりかねないからな、と彼は冷静に言った。
私は口ごもる。
マティアス様の気持ちには気付いていた。知っていた。でも分かっていないふりをしていた。
マティアス様の心に寄り添うのは怖かった。だって彼は王族で、私は子爵家の娘で、彼の侍女で——彼の番じゃないのだ。
一人で生きていくために、仕事を求めたはずだったのに。
「……むりです。だって、番じゃない、から……」
目の奥が熱くなって、瞳に膜が張るのが分かる。でもそれがこぼれないよう、必死で目を開いた。
あの日。信じていた未来が終わった日。共に生きると思っていた相手に、運命が現れた日。私の全ては変わった。
「バーナード・コネリーが好きだったんだな」
独白するように落とされたその声は、ひどく優しかった。
「知っている。お前が、あいつのことを本当に想っていたこと。だからこそ、怖がっていること」
「……」
「辛かったな」
その言葉をきっかけに、堪えきれなくなった涙が、ぼろぼろとこぼれた。
あの夜会から、ずっと私は泣かなかった。泣けなかった。そうしてはいけないと思っていた。
だって泣いたって、どうにもならないのだ。バーナードにはもう私ではない他の相手がいて、あまつさえ私に「幸せになれ」なんて言った。私に、自分じゃない誰かとの幸せを願ったのだ。
彼のことが好きだった。優しい声が。笑うと下がる目尻が。細かな気遣いができるところが。家族や子どもに優しいところが。バーナードには恥ずかしくて最後まで言えなかったけど、とても好きだった。
家同士が決めた縁だったけど、バーナードの妻になれることが、嬉しかった。
彼も同じように思ってくれていると信じていた。
辛かったのだ、私は。自分以外の存在からそれを認めてもらえて、溢れる涙とうらはらに不思議と心が救われていく。
長い間我慢していた涙が、止められない。マティアス様は私の頭に手を伸ばし、自分の肩に寄せた。マティアス様の服をどんどん濡らしてしまう。
「俺はお前の番じゃない」
「……はい」
「でも、お前に選ばれたい」
「無理です、私には……」
「ライラ。俺に番が現れるのが怖いか」
私はなんと答えればいいのか分からなくて、声を詰まらせた。
「俺は、たとえ番に会っても、ライラを選ぶ」
「……それは! あなた様がまだ番に出会われていないから、そうおっしゃるのです!」
軽い調子で言うマティアス様に、私はつい大きな声を出してしまう。子どもみたいだと自分でも思う。でも止められない。
だってそんなことは、知らないからこそ言えるのだ。彼は番に出会った瞬間の二人の表情を見たことがないから、そんな風に言えるのだ。
「どうしても信用できないか」
「……」
「……分かった。お前が俺を信じられないと言うのなら。薬を作ってやる」
「く、くすり?」
「たとえ番に出会っても分からなくなる薬を作る。そうしたら安心できるか?」
そんな薬は聞いたこともない。
マティアス様は笑った。その顔があまりにもあっさりとしているので、ぽかんとしてしまう。
「必ず作る。だから何も心配しなくていい」
はたして薬で本能が抑えられるものなのか。そんな簡単な話なのだろうか。分からない。分からないけど、マティアス様がそう言うのなら、できるのかもしれない。
気が付けば私は頷いていた。私を諦めないと彼は言う。それが嬉しいと思った。
読んでくださってありがとうございます。
明日からは一日一話の更新になります。