1 婚約解消
人が恋に落ちる瞬間を、私は見たことがある。
まるで周囲から音が消えたように見つめ合い——どちらともなく声をかける。小説の一節のようにロマンチックな瞬間を。
二人は『運命の番』だった。
番とは互いにとって唯一無二の存在。惹かれ合うのは必然なのだ。
女性の一人として、そんな出会いに憧れがないとは言えない……劇的な、運命の出会いを果たした片割れが自分の婚約者でなければ。
◇
ここリューゼ王国は、竜人を祖先に持つ国だ。王国民のなかでも、竜人の血が濃く現れた者は成長すると他人のフェロモンを認識できるようになる。
相性のいい相手——とりわけ『運命の番』と呼ばれる相手——の匂いは何よりも好ましい匂いに感じるという。
番に出会った者は互いに強く惹かれ合い、求めあうらしい。
番という熱烈に愛し合う唯一無二の特別な存在に憧れる人は多い。だが竜人の血が薄れた近年では、相手の匂いを認識できる者も少なくなってきている。匂いが分からないと番を見つけることはできない。最近では、番に出会うことは珍しいことだ。
だからこそ、多くの人は番に拘らずに相手を探し、婚姻を結ぶ。
私もそうだった。私とバーナードは番ではない。ただ単に、家が決めた相手だ。
私たちは王立学園の三年生のときに婚約者になった。
彼は私よりも二歳年上なこともあり、いつも余裕があった。穏やかで優しく、手紙にもまめに返信をくれた。
互いに子爵家の子女であり、身分も釣り合っている。二人で多くの時間を過ごした。少しづつ、穏やかに、関係を築いていた。彼が自分の夫となることに、なんら異論はなかった。
しかし私の目の前で彼は運命に出会った。
バーナードの番は伯爵家の令嬢だった。彼のパートナーとして一緒に出席した夜会で、二人は劇的な出会いを果たした。あの時の彼らの表情を、きっと私はずっと忘れないだろう。バーナードはパートナーである私の存在などすっかり忘れ、巡り合えた自分の番に熱っぽく語り掛けたのだ。
運命の恋人たちを前に、私はすっかり蚊帳の外だった。
「ライラ。君は何も悪くない。どうか幸せになってくれ」
あの夜会から数日。私の家、ディアニー子爵家の応接室で苦しそうにバーナードは言った。我が家に破談を申し入れに来たのだ。「番に出会ったから」という理由は、この国においては真っ当な断り文句となる。わが国では、番と出会い結ばれることが絶対的に『いいこと』だからだ。
当代の国王夫妻も番である。彼らは積極的に、いかに番同士で結ばれることが素晴らしいかを語っている。
バーナードたちの邪魔をすれば、むしろこちらが冷ややかな目で見られることだろう。
だから私は破談も予想していたし、彼に追いすがるつもりなんてなかった。
しかし、バーナードは今、何と言った?
幸せになってくれ、と。彼は私に、幸せになれ、と言ったのだ。
(まずいわ。笑顔が崩れそう)
熱を持ってせり上がってくる感情とは裏腹に、ぎゅっと握りしめる手先は冷えていた。どうやら私はとても腹を立てているらしい。婚約者としてバーナードと交流を持って数年。彼に怒りを覚えたのは初めてだったかもしれない。あの夜会でも怒りは沸かなかったのに。
(幸せになれ? あなたが、この状況で言うのね)
何の瑕疵もない婚約者を捨て、自分だけ運命の番と幸せになる罪悪感を少しでも払拭したかったのかもしれない。しかし。
その程度の罪悪感ぐらいは背負えばいい。
婚約者として重ねたあの日々は何だったのか。私が一体なにをしたというのだろう。一方的に捨てられて、終わり。誰もあなたを責めない。あなたたちが番だから。これは浮気ではなく、運命だから。
まるで自分も辛い、というような、そんな表情をするのは卑怯だ。まさか私を傷つけるのが苦しいとでも言いたいのか。違う。苦しいのは私で、幸せになるのはあなただ。
でも私は幸せになって、だなんて絶対に言ってやらない。
「さようなら」
私が笑顔を浮かべて言う。それ以上に言うことなどない。バーナードは気まずそうに顔を伏せた。隣にいる父が、破談の条件について話を始めたのだった。
私はもう十九歳。つり合いがとれる令息は軒並み売約済みだ。
それでも両親は私に結婚させようと、国内の目ぼしい家に釣書を送る準備を始めた。
バーナードとの破談で私は傷がついたともいえるが、婚約解消の理由が理由であるので、そう悪くない条件で結婚できるのかもしれない。
かもしれない、が……。
「お父様。わたし、結婚しません」
「なにを言いだすのだ、お前は」
父は訝しげな目線を返した。
私はもう結婚なんて考えられなかった。だって運命の番に出会う可能性がある。
バーナードの一件から、私は番について調べた。
私と同じような経験をした人間は過去にもたくさんいた。婚約どころか、結婚して子どもまで設けていても、運命の番に出会えば本能には抗えない。夫や妻が番と出奔してしまい、残された家族が途方に暮れるという事例は今も起きている。
確かに、番に巡り合える人は僅か——しかし、出会う人は確実にいる。国王夫妻や、バーナードのように。
それは私だってそうだ。私も他人のフェロモンを感じることはできる。番に出会わないという確証はない。
パートナーとどれだけ信頼関係を築いていようが、運命に出会ったら終わりなのだ。リューゼ国民はみんな、爆弾のような不確定要素を抱えて生きているように私は思えた。
「結婚しません、と言いました。仕事を見つけて職業婦人として生きていきます」
「馬鹿なことを言うな! そんなことが通るとでも思っているのか!」
父がわめく。たしかに結婚しない女性は少数派だ。でも、いない訳ではない。我が家に関しては兄がすでに結婚して甥が産まれているし、後継者という側面でも、問題は起きないはずである。
何より私はもう、結婚に対してとても前向きには考えられそうもなかった。
両親が次の縁談を見つけてくる前に、私は仕事を探すことにした。
本当は王宮の文官がよかったが、学校を卒業してもう一年以上が経っていた。父の口利きも期待できない以上、かなり望みが薄い。結婚するのだからと、学園卒業と同時に就職しなかったことを今さらながらに後悔した。
私が今就ける現実的な仕事といえば、高位令嬢の侍女や家庭教師といったところだろう。親戚や知り合いに伝手がないかと思いを巡らせて、学生時代の同級生の顔が思い浮かんだ。
——もし何かあれば、連絡してくれ。
私は自室の文箱を開けた。目的の書付を見つけ、手にとる。
あの時の約束はまだ有効だろうか。
私は書付の主へ、手紙を書き始めた。
新連載、よろしくお願いします。
本日三話投稿します。