第一章:量子の扉を開く【計算の限界を超える時】
■ 限界点の風景:ムーアの法則の終焉
20世紀を駆け抜けたテクノロジーの進化は、ムーアの法則によって象徴されていた。
「半導体の集積度は18~24ヶ月で2倍になる」
だが、2020年代、シリコンのスケーリングには物理的限界が訪れた。
トランジスタの幅はついに5ナノメートルを切り、
電子はトンネル効果によって量子的に“抜けてしまう”。
限界に達した計算機構――
それに代わる新たな「次元」が、量子の世界だった。
⸻
■ 古典から量子へ:違いは“重ね合わせ”と“干渉”
通常のコンピュータは、0か1かのビット(binary digit)を使う。
一方、量子コンピュータは 量子ビット(qubit) を使う。
•重ね合わせ(superposition):
qubitは、0と1の両方の状態を同時に取ることができる。
•量子干渉(interference):
正しい解を強調し、誤った解を打ち消す計算が可能。
•量子もつれ(entanglement):
離れたqubit同士が、瞬時に影響し合う“非局所性”。
これにより、N個のqubitは2^N通りの状態を同時に処理できる。
つまり――
古典コンピュータが一本道の解探索を行うなら、
量子コンピュータは全ての道を“同時に”進む旅人だ。
⸻
■ ショアのアルゴリズム:暗号を脅かす“未来”
1994年、数学者ピーター・ショアは、量子コンピュータ向けの素因数分解アルゴリズムを発表する。
これはRSA暗号を含む公開鍵暗号の根幹を揺るがすものだった。
具体的には:
•古典的手法:RSA 2048bitの素因数分解に数千年
•ショアの量子アルゴリズム:数秒~数分(理論値)
これは単なる演算速度の向上ではない。
「国家レベルの情報セキュリティ」をも脅かす技術革新である。
⸻
■ 実機の時代へ:量子優位性(Quantum Supremacy)
2019年、Googleが発表。
自社の量子プロセッサSycamoreが、
“古典コンピュータでは1万年かかる”とされる演算を200秒で完了したと報告。
これが Quantum Supremacy(量子優位性) の到来だった。
IBM、D-Wave、Rigetti、そして中国の紫光量子、さらに各国の国家研究機関も、
競うように量子機械の設計と誤り訂正技術の開発に乗り出した。
⸻
■ 何が変わるのか:量子による世界変容の可能性
量子コンピュータが実用レベルに達したとき、
以下の分野が劇的に変わると予測されている:
•医薬品開発:分子レベルのシミュレーションと最適設計
•気候シミュレーション:現代計算機の1/1000の電力で100倍の精度
•金融モデル解析:リアルタイムのリスク計算とポートフォリオ最適化
•AI強化:量子的ニューラルネットによる“予測不能な直感”の出現
•暗号とセキュリティ:ポスト量子暗号の創造と防衛戦争
“世界を計算できるなら、未来も予測できる”という幻想。
だがその向こうには、もはや人間の直感や倫理が届かない知性が存在するかもしれない。
⸻
■ 観測する者の孤独
量子計算には“観測”という概念がある。
それは、状態の確定と引き換えに“可能性”を捨てる行為だ。
人間は果たして、自分の未来を観測すべきなのか?
それとも――
見えないままで、未知を抱きしめるべきなのか?
演算装置は加速する。
知性は限界を超える。
だがその先に、“人間”はついていけるのだろうか?