8話:恐怖する転機
ずるずると重い足を引き摺るようにして帰路をひたすら歩く。
父が軍人で普段まったく家にいない我がシュープリー家は、母と私、それからペットの鳥との3人(?)暮らしだ。たった3人、しかも一匹は鳥ということで大きな一軒家ではなくそこそこの広さなマンションで暮らしている。
私たち家族が住むマンションはここ、首都・フォスマーギルの都市部から少しばかり離れたところにある。しかし都市部から離れているとは言え、首都は首都。
閑散としたところはこの辺りにはまずないはずだし、なんらかの理由で賑わっていてもなんら不思議ではない。
…なんら不思議ではないはずなのだが、今日は少しばかり違うようだった。
この角を曲がって後は直進すればすぐ家だと角を曲がった私の視界に飛び込んできたのは、決して狭いとは言えないわりと幅のある路上に犇めくざわざわと賑やかな人の群れだった。
一瞬なにかの祭り催しかと考えたが、みな一様に空を見上げて、ある一点を指さしたり携帯を構えていたりと動きが忙しなく、見るからに見物人だか野次馬だかの集まりっぽい。
これはどう見たってなにか事件があったに違いなかった。
騒ぐ人々を見て私は無意識に眉間にしわを寄せた。
様々な人種や種族が集まってくるこの首都で大小なりとも事件が起こるのはそれほど珍しいことではない。普段の私ならその思いのままに何事もなく素通りするか、もしくは一緒になって少しだけ見物していったかもしれない。
けれど今はそんな気持ちにはとうていなれなかったし、なんてことない顔をしてこの場を通り過ぎることも出来なった。
なんてことない、ただの小さなわかだまり。悪いのは自分。それでも思ってしまう。
呑気でいいよね、と。
私だって昨日の件があるまであそこでああしてワイワイしている人たちとなにも変わらなかったはずなのに、事件の当事者となった今はおこがましくも思ってしまう。
気分が悪い、と。
見物人たちに罪はないが無責任に騒ぎ立てる彼らに腹が立った。
本当は、立ち止まるつもりすらなかったのに。
自分は関係無いと思うことももしかしたら無責任なのかもしれないが、それでもあんなことがあった以上、どんな事件だろうが関わりたくなかった。
それに事件はよく起こるが、比例するように警察や軍の対応がいいので遅くとも後数分もすればこの現場にどちらかが到着するだろう。
私がいようがいまいがなにも変わらない、とすごいとかなんでとか、警察はまだかとかいう人々の声を聞きながら足早に路上を塞ぐ人ごみの中を抜けようとする。
気にならないと言ったら嘘になる。でも、それでもやっぱりここにいるのは耐え難かった。
とにかく足を動かして密集した人の間をすり抜けて行く。
人ごみは私が思ったよりも大きかったらしく、中々抜けられない。もしかしたら私がこうして悪戦苦闘している間にも人が集まり続けているのかもしれない。
そんなことを考えていたら段々と人の波が薄れてきた。
ああよかった、もう抜けられる。
嫌な思いから逃れるように駆け足で残り少ない人波を進む。
ほとんど人波から抜けられた所で、ほっと息を吐いたのも束の間だった。
「………っ!!」
轟音。
鼓膜をぶち抜くほどの大きな振動が空気を揺らした。
「なんっ……!」
どう考えてもそれは背後からだった。
本能的に背後を顧みようとした私の背が轟音と共に巻き起こった爆風で押され、身体が揺れる。なんとか転倒こそは防いだものの、急いで後を振り返るとそこは酷い有様だった。
私の周辺にいた人たちは私同様転倒は免れたみたいだったが、轟音の原因付近にいた人たちはほとんどがドミノ倒しのように重なり合って倒れこんでいる。
幸い大怪我を負った人はいないみたいだが、それでも負傷者は見る限りたくさんだ。
あちらこちらに地面を彩る赤が見えた。
「きゃああああああ!!」
「なんだ!?」
「邪魔だ退けっ!」
「いたいよお!おかーさん!」
突然の出来事に錯乱して逃げ惑う人々。
轟音の原因から少しでも遠ざかろうと近くにいた他人や知人を押しのけ、あるいは踏み付け、押し合いながら全力で逃げて行く。
そんな風に我を忘れてまで安全を確保しようとする人たちをただ眺めているだけの私は、きっととんでもない大馬鹿者決定だ。
私も逃げた方がいいだなんて考えるまでもなく当然のことなのに、足が動かなかった。
思い通りにいかない。
こんな経験が前にもあった気がする。
アデラを、助けようとした時だ。
恐怖と混乱で身体の自由が利かない。
燃え上がる施設と立ち上る黒煙が脳裏に蘇る。
フラッシュバックにも似た感覚。
あの事件を彷彿とさせるここの場所から今すぐに逃げ去りたいのに、やはり思いに反して足は本当に頑なに動かなかった。
……私こんなんばっかだ。
半ば諦めと虚しさの中、すっきりとした眼前に意識を集中させた。
私の前にはもう人ひとりいない。きっとみんな遠くに避難したのだろう。
何かが落下してきたせいで醜く抉れたコンクリートの道路、もうもうと土煙を上げるその向こう側に揺らめく影を見た。
その姿を認識して、思わず息を呑んだ。
爬虫類に酷似した姿形。しかし一般的なあの蜥蜴や鰐などとは到底比べられないようなイキモノ。
太く長い首に尻尾、全身を覆うのは見るからに硬質な鎧状の鱗、胴体から伸びる四肢は強靭そのもので、手足の先で煌めくのは抜き身の刃物同然の爪。
頭からその先々に至るまで全身が凶器と恐怖の塊。
轟音の原因。
それは尾を入れておよそ4メートル弱の全長の、竜だった。
竜。鱗板目竜科爬虫類に分類される異種族の総称のことだ。
人間や一般の生物とは比べ物にならないとされている力を持つ数あるフリーク共の中でも群を抜いて圧倒的な力を誇る怪物。食物連鎖の頂点に君臨する王にも等しい存在だとされている、竜。
空の王者、世界の一部、真実を知る者。
錚錚たる呼び名で畏怖されている、そんな存在が、どうしてこんな街中に?
わからない。わかるはずもないが、今私の目の前には竜がいる。
それだけが事実だった。
どうすればいいと頭の中で考えるが、生憎と竜と遭遇した時の対処方など習ったことがない。ともすれば恐怖で崩れそうになる膝を支えるので精一杯だ。
どうすればいい、と思考していた私の頭は次第に現実を見詰められなくなっていく。
足は動かないが首なら辛うじて動く。助けはまだかと、私は竜に気取られないようにそうっと、空を仰いだ。
「……………」
この世界は人間と異種族が共存する世界だ。
しかし共存していると思っているのはあくまでも人間だけであって、フリークたちはそうは認識してはないだろう。フリークの人への認識はきっと餌だとか障害物だとか玩具だとか、よくて小うるさい隣人程度に違いない。
フリークにとって人間はぽっと出の邪魔な存在に過ぎないはずだ。
だから排除しようとかどうにかしてやようとか、そんなよからぬことを考えるフリークがいても可笑しくない。実際、人と徹底的に敵対しているフリークもいる。
それなりに知性や理性がある種族ならばそういったものに気持の折り合いもつけられるのだろうが、本能のままに生きているフリークとなるとそうもいかないみたいだ。腹が減ったから人里に行こうとか、つまらないからニンゲンで遊ぼうとか、意味合いは違えどとにかく人間は的にされやすい。
大袈裟過ぎないかと思わなくもないし、なにより人間がたくさん住んでいる場所なんかに好き好んでやってくる奴もそうそういないような気もするが、我ら人間はフリークに対してあまりにも脆弱だ。
だからこれは保険だと政府は言う。なにかあった時のための。
それ自体に大した力はないが、政府が許可していないもの、すなわちフリークなどの生物が触れると世界政府直下の特殊戦闘部隊、通称WGSFの本部にすぐさま知らせが行くらしい。
侵入者だと。
言うなれば電網だ。はっきりと視認することは出来ないが、ぼんやりとした網目模様の結界のようなものが国全体に張り巡らされている。
あれがなにで出来ていて何処から国中を包みこんでいるのか私たち国民は残念ながら知らないが、あれが一種の警報装置だということは周知済みだ。
あの電網を通り抜けなければこの国自体に入ることは不可能だから、当然政府は何者かが国に侵入したことなど把握済みだろう。
…軍の人間がこの場に駆けつけるまで時間の問題だなあなんて考えたが、どうやらこちらも時間の問題みたいだった。
小さい、しかし背筋を凍らせるには十分な低い唸り声が耳に入る。
現実逃避のように軍がくることだけを今まで考えていたけれど、ずっとそんな状態でやり過ごせるかと言ったらそんなことは絶対ない。わかっていたけど、大分苦しい現実だ。
上げていた視線を恐る恐る眼前に戻すと、薄れてきた土埃から這い出てくる竜の姿が見えた。
「っ…………」
息が、できなくなった。
竜は空の王者と称されているように空中でこそ本来の暴力的な力を発揮するフリークだが、地上でも他を寄せ付けないほどの十分な強さを誇る。それこそ十分過ぎる力を持つフリークなのに、今私の目の前にいる生物はおおよそ王の名に相応しいとは言えない有様だった。
逞しい肢体は血に濡れ、蝙蝠にも似た竜の象徴たる翼も無残に破れている。見るからに硬質な鱗は所々本体から剥がれてしまっていて、身体を守る役目を果たしていない。
身体中にある傷痕からは大量の血液と共に桃色の肉が見えてしまっていて、下手をしたら瀕死の状態だ。恐ろしいほどの生命力と寿命を持つ竜とて不死なわけではない。
身体を引き摺るようにして落下地点から進み出てきた全知とされる竜の黄金の瞳には、知性の欠片もなかった。痛みで我を失っているのか、それとも自身をこんな状態まで追い詰めたものに対する憤怒でだろうか。
その凶暴さしか映していない二つの金が辺りを探るようにぎょろりと動いた。
「あ……」
背筋を氷塊が滑り落ちていく。
竜の視界に捉えられたら終わりだと本能的に感じた。
心臓が痛い。
一生分の心拍数を今使い切るのではないかと思うほど暴れる心臓と、震えだす手足。
恐怖に叫びだしそうになるのをなんとか堪えるだけで精一杯だった。
金の眼が獲物を探して動く。
瞳孔が開いた瞳が獲物として捉えたのは、…幸か不幸か私ではなかった。
年の頃は十歳前後か。私とは反対側の路上で腰を抜かしてしまったのか座り込んでいる。
緩慢とも思えるような動作でぐるりとその場を見渡した竜に目標とされてしまったのは私ではなく、私同様逃げ遅れてしまった少年だった。
瞬きもせずに両目を限界まで見開いて少年はなにも出来ずに固まっている。きっと恐怖で動けないのだ。もしかしたら状況判断すら出来ていないかもしれない。竜の背を眺めているだけの私でもこんなに怖いのだから、あの少年は…と考えるだけでも恐ろしかった。
標的を見つけた竜は瀕死ながらもゆっくりと尾を振りながら歩きだす。
少年は相変わらず動かない。
あの竜にはきっと理性なんて欠片も残っていないのだ。今ここであの子供に襲いかかってもなにも変わらないのは火を見るより明らかなのにただ本能のままに目の前にいる餌に喰らい付こうとしている。
竜が足を進めるたびに血液が辺りに飛び散る。
少年は、動かない。動けないのだ。
私もまた、動けなかった。
頭の中が真っ白だ。
違う。
真っ白ではない。
色々な思いと場面が脳内を駆け巡っていた。
施設。炎。煙と悲鳴。爆発音。足音。怒鳴り声。
…それからアデラ。彼女の笑顔。
竜の歩みは止まらない。
少年の顔色は青を通り越して白かった。
アデラも、怖かったんだろうか。
今の私よりも、もしくはあの少年のように。
アデラ。
考えるよりも先に、というより気付いたら、だった。
あんなに動かなかった身体が動いて、足元に無数に散らばっていた竜が抉ったことで砕けたコンクリートの破片をしゃがんで掴む。そのコンクリートの破片の重さと冷たさを頭のどこか感じながら、手の中のそれを、竜の背に投げつけた。