シトラス‐弐
「ののののののののの乗りますっ」
「早く行け」
仲良く…違う、ちゃんと相棒として認められる一歩を進めたと思ったのに、臆病風に吹かれて未だに一度もシトラスに乗れない私の首根っこを引っ掴んで地下室まで連れてきたのは、喧しく茶々を入れてくるサクラス…の隣で腕を組んでいるフレデリックさんだった。
見ている限りでは常に鉄面皮である表情を、さして付き合いのない私でもわかる程度には呆れを含んだ顔にして、忙しい日々を縫って私なんかのために時間を作ってくれたのかと思うと、最早頭が上がらない。
そこまでしてもらったらうだうだ悩んでいるわけにもいかず、野次馬根性丸出しで着いて来たサクラスを背景に私は伏せたシトラスの背に手を掛けた。
「頼むよ、シトラス…」
自分に言い聞かせるように呟いて、何度も繰り返した手順でシトラスの背中に乗る。
ここまでは、いつも何ごともなく済むのだ。振り落とされるとこもなく、彼は優しく私を受け入れてくれる。…問題は、この後である。
「……」
背中に乗ることは当初から許容してくれている彼が、私を問答無用で振り落とす決定打は、いつも手綱を握ってからだった。
傍にいる、言わば友人のような存在としては心を許してくれていても、彼は相棒として私を認めていなかったのだと、フレデリックさんのおかげで気付かされてから早数日。
背中に無事に乗り込んだ、私の目の前にその、今回のキーポイントである手綱がある。
緊張と不安でびちゃびちゃに濡れそぼった手のひらをそっと、その手綱に寄せた。
異種族に乗るために必要不可欠な手綱捌きは、既にこの2カ月ほどで学んでいる。
今はまだ乗ることもままならないけど、いつか必ず必要になるからと、ロヴィーナさんがかなり前から丁寧に手解きしてくれたおかげで、覚束ないながらもシミュレーションではかろうじて合格ラインを突破出来るまでの腕前にはなっている。
シトラスにも、ロヴィーナさんとWGSF専属の調教師が、人を背中に乗せて飛ぶ技術、私とは別の意味での手綱捌きは、初歩的なものではあるが教えてもらっているので、根本的な水準はふたりともクリアーしているのだ。
本来、野生の竜は勿論のこと、《干渉》され人と共に生きることを選んだ竜でさえ、認めた人間以外を背に乗せることを厭う。
これは何も竜だけに言える話ではなく、フリーク全てに当て嵌まることであり、更に言うならば、…本当なら、私が相棒であるシトラスにさっさと乗り込んで騎乗技術を教えなければいけなかったのだ。
だからまだシトラスは、人の年齢に換算すれば子供であるいちばんの伸び盛りにも関わらず、私が御しきれないという不甲斐無い理由からこんな地下に籠りっきりになっている。
「……ごめんね。いい加減、言葉だけじゃないとこ見せなくちゃ、ね」
色々な人から様々な応援支援を受けて、舞台は完璧なまでに整っている。
後はほんとに、私がシトラスに受け入れてもらえているかどうか、それだけ。
特殊強化素材の合成皮で造られた手綱に指先が触れる。
途端にぴくりと揺れたシトラスの巨体に尻込みしそうになる自分を叱咤して、えいやと勢い良く手綱を両手で握り込んだ。
「…で?」
「落ちました」
きらっきらと晴れやかな表情で言い切る私に、バーバラさんが頬杖の上に呆れ顔を作る。
アンティークカップに注がれた紅茶をくるくるとティースプーンでかき回しながら、レリアがそれでいいならいいけど、と彼女は呟いた。
「いいわけじゃ…ないんですけどね。どう考えたって今ようやっとスタートラインに辿り着いたって体ですし、そこに至るまで時間掛け過ぎもいいとこだし…」
「ま、始めから上手に騎乗出来る方が珍しいのは事実なんだから、そう粗探ししなくてもいいような気もするけど。あたしはね」
言って十分にミルクが溶け込んだカップを傾けたバーバラさんの言葉を胸に、私は開いた手のひらをじっと見詰めた。
あの瞬間から数時間が経った今でも、しかと手のひらに握り込んだ手綱の感触がまだ消えない。記憶と感触の残滓を掻き集めるように再度固く手のひらを握った。
ふと顔を上げた目の前のテーブルに置かれた、アンティークカップになみなみと揺れる紅茶にうつる私の表情が、今まで自分でも見たことがないほど晴れやかで、思わず苦笑が漏れる。さすが、私ってげんきん。
「レリア!」
手綱を手に取ったまま、振り落とされることがない事実に気取られて硬直した私を叱責する声で我に返った。はっとして下を見下ろせば、サクラスと、それから相変わらず腕を組んだままこちらを見上げるフレデリックさんと目が合う。
早くしろと言わんばかりに顎で指示を下す彼に追い立てられて、未だにシトラスの背に乗り続けている現実味がないまま、習った手綱捌きを頭の中で反芻させた。
汗で滑る手綱を、顔を上げさせるように身体に引き寄せ引っ張れば、鼻先にも連動した合成皮の綱に従って、シトラスの逞しく長い首が聳える塔となって地下室の天井を頂く。
そのまま首を覆う鈍く光る鱗を刺激するように手綱を振るえば、薄い皮膜が張った竜特有の翼がゆるやかに上下運動をはじめた。
振り落とされなかった実感も、私の指示にシトラスが素直に従ってくれている感動も、きちんと間違えず手順を踏めている感慨も…すべてが一度に襲ってきて、最早なにを感じればいいのかわからない、脳内が飽和状態である私の気持ちは置き去りに、徐々に耳元で唸る風の音が大きくなる。
数秒もしないうちに大気を掴んだ翼に支えられて、シトラスの巨体が重さを感じさせない優雅さで脚が地から離れた。呆然と瞬きさえ忘れる私を背に乗せて、シトラスが地下室の天井目掛けて舞い上がる。
ふわりと訪れた浮遊感に包まれつつ、ゆっくりと上昇していく彼の巨体を身体で感じて…それから、…愛すべき相棒の背から見渡す初の絶景を楽しむ余裕も時間もなく、気付いた時には、私は再びシトラスの背中から転げ落ちていた。
身に着いた習慣とは怖いもので、訳が分からない状況下でもきちんと受け身を取った自分のことは褒めてあげたい、と、いつもより高い位置から落ちたせいでかなり痛む身体を余所に思った。それでも、いまはその痛みだって嬉しくて、そんなつもりは全くないのに次々と零れてくる笑みに、更に可笑しくなる。
「おい、レリア!おま、…だ、だいじょぶか…?」
落ちた不格好な体勢のまま不気味に笑う私が、さしものサクラスも心配になったらしい。
慌てて駆け寄ってきてくれたサクラスが奇怪なものを見る眼差しで声を掛けてくるのに対して、乗れた!と大声で叫んだ私に、重ねてサクラスが頭の心配をしてくる。失礼な、私は至って正常なのに。
医務室行った方が、とかなり本気で気を遣うサクラスの背後に、ゆっくりとこちらに近付いて来るフレデリックさんを見た。
意識もしていないのにひたすら表情筋が緩む私の頭の傍らにしゃがみ込んだフレデリックさんの一言に、更に笑みが深くなる。
「レリア」
「…はい」
「騎乗する時は手袋くらいしろ」
「……はい」