21話:行き止まる?
かつんかつん、と響く自分の足音とロヴィーナさんの足音を聞きながら、先ほどの会話を脳内で反芻させた。
せっかく彼とお近付きになれたんだし、騎乗練習してみない?
首を傾げて笑ったロヴィーナさんの問い掛けを頭の中で繰り返す。
せっかく彼とお近付きになれたんだし、騎乗練習してみない、…か。
確かに当初に比べれば私と彼の仲は大分進展したと思う。
簡潔な意志の疎通ならなんなく出来るようにもなったし、彼もきっと私のことを好意的な気持ちで想いやってくれているのが相対すればわかる。
それに仲良くなってはいお終い、という彼との間柄を私は目指しているわけではないので、遅かれ早かれこうなることは予想済みだったわけ…だけど。
「うーん…」
「心配?」
なんとなく不安な気持ちが拭えなくて唸った私に、ロヴィーナさんが柔らかく笑う。
それに首を横に振って否定してから、心配というよりは、と続けた。
「なんか悪い予感がするって言うか…不安って言うか。ロヴィーナさんの言う通り仲良くもなれましたし、ぶっちゃけ期待する気持ちもなきにしもあらずだったするのに…、…でもやっぱり、上手に言えないんですけど、とにかくなんか…」
「不安なんだ?」
「…はい」
いつもとは違う、緊張ではない胸がざわつく感覚。
明確には言葉に出来ないのに、確かに心の中にあるわかだまりに更なる不安が募る。
けれど積み重なる明瞭のない気持ちとは裏腹に足は止まることなく進み、遂には数日で見慣れた扉の前までやってきていた。
いつもなら浮かぶ気持ちはまったく色を成さず、零れるのは溜め息ばかりだ。
情けなくふう、と息を吐けば、背後から心配する声が落とされる。
「…大丈夫?」
「はい、…もちろんです」
「そっか」
若干引き攣ってはいたものの、ちゃんと笑えているはずだ。
その私の返事を聞いて、ロヴィーナさんがドアを開けた。
すぐに見えた、薄暗いに室内でも月光を放つ瞳に出来るだけ気負いのない笑みを浮かべた。
「こんにちは。さっきぶりだね」
「そう、そこの金具を留めて…うん、上手上手」
丁寧な手解きを受け、手伝ってもらいながら彼の巨体に鞍を括りつけていく。
いくら距離が縮んだとは言っても、こうもべたべたと長い時間触って今まで付けられたこともない道具を身体に張り付けられれば、なんらかの拒否でも起こすのではないかと少々危惧していたのだが、彼はまったく微動だにせず大人しくちょろちょろと自分の周囲を走りまわる私を見詰めていた。
よかったよかったと思いながら、ひんやりとした彼の鱗を引っぺがさないように細心の注意を払ってロヴィーナさんの言う最後の金具を留めれば…よし、完成。
「出来…、たっ」
「はじめてにしては手際が良かったね。この子も大人しくって良い子だったし」
言葉通り借りて来た猫みたいに大人しかった彼の首をロヴィーナさんが優しく撫でる。
どうやら私が彼女を先輩として敬っている気持ちが伝わっているのか、それともただロヴィーナさんが纏う温かい雰囲気を感じ取ったのか、彼はその手を甘受して目を閉じた。
流れる穏やかな空気にのほほん、と私までつられて頬を緩めるが、でも此処にくるまでに感じていた不安は拭えないでいる。
彼がいくら大人しかろうと、私が感じている不安には関係ないようなのだ。
「レリアちゃん」
浮かない顔で彼を見詰める私に気付いたのか、ロヴィーナさんは取り敢えず挑戦してみようよ、と背中を押してくれる。
それにはい、とか細い返事を返し鞍を背負った彼に近付いて、なにをするのかわからない、と瞳を瞬かせる彼に身振り手振りで背を屈めるように伝える。そうすれば、どうやら伝わったらしく彼は巨体をのっそりと動かして縮めていた身体を更に低く地に伏してくれた。
「ありがと」
よしよし、と鼻筋を撫でてあげれば嬉しそうにぐるぐると喉を鳴らして金の眼を細める。
その優しく溶ける彼の瞳に心に重く纏わりつく不安を無理矢理押し付けて、足場に靴を引っ掛けた。鞍を掴んで身体を腕の力で引っ張り上げる。
のそのそと上半身を足掛かりになんとか鞍に跨れば、目下に広がる高さに目が点になった。
「うわ、思ってたよりも高いかも…」
約4メートルの高さは想像していたよりずっと高かった。
高層ビルから下を覗くのとは違う恐怖がある。
なにしろ私の身体を支えるのは、強化繊維で造られてはいるものの細い私と鞍を固定する複数のベルトと、自分の手で持っている手綱だけだ。
高所恐怖症ではないはずなのに、ちょっと…嫌な冷や汗を掻いてしまう。囲いがない高さはこんなに怖いものなのかとつくづく実感した。
「やばい…今さら緊張してきた」
「レリアちゃーん、ちゃんとベルト締められた?」
「あ、はーい、今締めてるとこでーす」
下の方で声を上げるロヴィーナさんに返事をして、両足とお腹の前で締めるベルトをきつく引っ張る。二重構造になっている留め具をきちんと締めようと思ったところで…ぐらりと地面が揺れた。
大した揺れではなかったのでバランスも崩さなかったのだが、…可笑しい。地面って、私が今座っている場所は大地ではないはずだ。
なにかあったのかと思い、どうしたの、と彼に問い掛けるよりも早く、再び私が座る大地が…彼が大きく揺れ動く。あれこれやばいんじゃ、と…直感した瞬間だった。
「レリアちゃん!!」
「ぎゃっ、ああああああああああああっ、お……あだぁっ!」
*****
「だせえ」
「…言われなくてもわかってる」
頭上から降ってきた罵倒にむす、と言い返す。
後頭部を氷嚢で冷やしながら溜め息を吐いて、医務室の責任者であるラッセ先生に入れてもらった紅茶を啜れば、暗澹としていた気持ちが少しだけ薄らいだ。
だったらわざわざ言わせんなよ、とか宣っているサクラスはスルーすることにして、一心不乱に紅茶を飲み干す。
「……レリア」
まるで栄養ドリンクの如く紅茶を胃に流し込む私の心情に気付いたのか、薬品の整理をしていたらしい先生が手を止めて近寄って来てくれた。
手酌でティーポットからなみなみとカップに茶色の液体を注ぐ私を見て、先生が淡々と気にするな、と言ってくれる。
「大事に至らなかったんだからそれでよかったじゃないか。はじめから竜を乗りこなせる人間なんかそういやしないんだから、恥じることじゃない」
「そう…ですけど、でも…」
「………」
でも、と言ったわりには言葉が続かない私に、先生はあんまり気落ちすんなよと、とだけ告げて薬品の整理に戻って行った。
先生の言う通り、彼の背から落っこちたのにも関わらず、大惨事には至らなかった。
その大きな要因は、振り落とされるようなことがなかったからだと思う。
嫌だったのか不快感を感じたのか、私が背中に乗ることを許容してくれなかった彼が突然後ろ足で直立をしたものだから、ベルトを締め切れてなかった私は鞍から転げ落ちたのだ。けれど言い方を変えれば、転げ落ちただけで済んだのだ。
私は後頭部と背中を強打してたんこぶを作った以上の怪我はなし、彼の足許にいたロヴィーナさんにも怪我はなし。
トレッドミルから落っこちてたんこぶを作成した時と同じように、氷嚢で頭を冷やすだけで済んでしまうほど軽傷で済んだのだから、儲けものだ。
…そう、わかっては、いるのだけど。
溜め息が零れる。
紅茶を飲んで気を紛らわせようとしたが、もう飲み過ぎでお腹に入らなかった。
悔しいやら悲しいやら情けないやらで次々に浮かんでくる暗い思考にリンクして、負傷した後頭部が痛む。
ほんとに、なにやってんだ私は…。
「おい、根暗」
知らず知らずのうちに俯いていた私の頭に圧し掛かって来るのは、優しさではなく呆れを含んだ無礼者の声だった。
…別段優しい言葉を期待しているわけではないが、蔑みの台詞を寄越すのならせめて黙っていてほしい。そんな気持ちを込めて眉間にしわを寄せながらサクラスを仰ぎ見ると、彼はもう一度根暗、と繰り返した。
「…根暗じゃなくてネガティブなんです」
「暗いのに変わりはないだろーが」
「……、確かに…」
「ばかそういうところが暗いんだよ!」
「いったあ…!?ちょっと!人のたんこぶになにしてくれるの!」
一ヶ月も同じライダー候補生として一緒に訓練を積んでいれば、第一印象が悪かろうが良かろうがそれなりに仲良くはなっていて、その上に年齢が近いこともあってサクラスと私は良い意味でズケズケと物を言い合える仲になっていた。
口の悪さに腹立つことは多々あれど、ロヴィーナさんが初対面の時に言っていたように良き同輩であり先輩でもあることは認める。それに私としては珍しく、なんでも気負いなく口を出せるから楽な相手と言えば楽な相手で、肩肘張って会話をしなければならない人が多いこの環境で彼はやはり私の良い友人だった。
だけどこういう時はあまり有り難くない。
落ち込んでるんだから放っておいてほしい。
馬鹿だ阿呆だと罵られながらたんこぶをチョップされて、思わずソファから立ち上がった。
「大体ね、人が殊勝な態度で落ち込んでるんだからあーだのこーだの言わないでよ!デリカシーないな!」
「変なとこで態度でけえんだよてめーは!殊勝な態度で落ち込んでんじゃねーのかよ!」
「それとこれとは別問題でしょ!?それに私はあんたなんかよりよっぽど慎ましやかだっつーの!」
「あ!?どの口が物言ってんだ!大体なあ…!」
「なんだ、元気じゃん。レリアは落ち込んでるって言ってなかった?ロヴィーナ」
ぎゃあぎゃあと勢いよく言い合いを始めた私たちの口論に唐突に割って入ってきたのは、マイペース一直線な聞き慣れた声だった。
突然の乱入に驚いて医務室のドアを振り返る。
ドアに凭れかかって背後にいるロヴィーナさんに、やる気なさげな訴えを口にしている人の名前を不本意ながらサクラスとダブルサウンドした。
「リチャードさん!」
「ロヴィーナからレリアが竜から転げ落ちて沈んでるって聞いたから見物しにきたんだけど、なんだ残念。もう復活したんだ。お前はいつからポジティブキャラに転向した?」
「いえ転向してません、けど…」
「そ、ならいいんだ。で?ネガティブレリアちゃんは何に対して落ち込んでんの?」
「え、えっと…」
リチャードさんは肩を竦めながらつかつかと私の傍までやってきて、サクラスと口論する際にソファに放り投げた氷嚢を手にしてそれを指先で弄んだ。
その態度と、ほんとにどうでもよさそうな表情で問い掛けられたものだから、なんと返事をしていいものなのか迷って視線を彷徨わせる。
サクラスもゴーウィングマイウェイな先輩に呆気に取られてリチャードさんのことをただ凝視するだけだ。
「えっと…」
大体、私は何に対して落ち込んでいたのだろうか。
リチャードさんの問いに脳内がぐるぐると回り出す。
乗れなかったこと?それとも無様に転げ落ちたこと?はたまたみんなに心配と迷惑をかけたこと?それとも少しでも進んだと思ったのにまた歩みを止めてしまったこと?
どれも違う。そうじゃない。そうではなくて、きっと私は――…。
リチャードさんの問いではっきりした私が暗澹とした気持ちになる理由に、はじかれたように顔を上げる。それから氷嚢をつついて遊ぶリチャードさんに答えを返そうとしたのに、…出鼻を挫かれた。
「たんこぶと縁のある女の子なんだ」
「…今すぐ切りたい腐れ縁ですね!」
ずっこけはしなかったが寂しい気持ちになった。
なんでこのタイミングで!と表情で語るも、隊でも一、二を争うほどマイペースなリチャードさんには届かない。
…いや、届いているけど無視されてる可能性のが高いかもしれない。
「ごめんね、レリアちゃん。リチャードと仲良いみたいだったから、その…彼の顔見たらちょっとは元気出るかなって思って連れて来たんだけど…。ごめん、僕判断間違ったかも」
「い、いえ…リチャードさんのおかげで気付けたこともあったので、ダイジョブです…」
見兼ねたらしいロヴィーナさんがフォローを入れてくれる。
それに頷いて、氷嚢を私の後頭部に優しさではない熱意で押し付けてくるリチャードさんの手を振り払った。
「励まして頂いきましてどうもありがとうございましたっ」
「どう致しまして」
自分で質問を投げ掛けながら答えを聞く気がないリチャードさんに皮肉四割本気の感謝六割でお礼を伝えれば、愉しげに笑って流されてしまった。
…つくづく不可思議な先輩である。
「先輩の手を煩わせんな」
「出てくんな、サクラス」
「てめえオレの方が年上で先輩だってことわかってんだろうな!」
私が落ち込んでいた理由は、乗れなかったことでも無様に転げ落ちたことでも、はたまたみんなに心配と迷惑をかけたことでも少しでも進んだと思ったのにまた歩みを止めてしまったことでもなかった。
彼に騎乗してみようと言われた折に、緊張よりも不安を感じたのも、きっと同じ理由なのだと思う。
――…私は、彼に拒絶されたことが悲しかったんだ。
彼に、拒絶されるのが怖かったんだ。
乗れる乗れない以前に、受け入れてくれるかどうかが不安だった。
「…ロヴィーナさん」
「うん?」
気落ちしてる理由がわかってすっきりした。
そうだ、私は拒絶されるのが怖くて、不安だったんだ。
でも、天は私を見捨てなかったのか、私を背中から落とした後、打ち付けた後頭部を押さえ悶える姿を心配したのか単純に不思議に思ったのか、彼は私の身体を鼻先でつんつんと突いてきたのだから別段嫌われたわけでもないと思う。
それを思うと少しだけ安堵出来きて、だったらもう一度チャレンジしてみようと、そうも思えた。どちらにせよこのままではいけないのだし。
そのきっかけを与えてくれたのは、もちろん彼であり、私を引っ張って行ってくれたロヴィーナさんだ。
だと言うのに、彼女は私がこうして怪我、(ただのたんこぶ)をした原因が自分にあると責任を感じているらしく、笑ってはいるものの何処か影のある表情しか見せない。
そんなことは断じてないのに、逆に申し訳なくて仕方がない。
…私は、たくさんの人にたくさんのチャンスを貰ってここまでこられたのだから、今回もまた然りなはずだ。
先ほどよりも晴れ晴れとした笑顔を彼女に向けると、ロヴィーナさんは少しだけ驚いた顔をして、それからいつものように柔らかく微笑んでくれる。
「私、頑張ります」
「レリアちゃん…」
「えへへ、ポジティブキャラに転向します。頑張って」
「頑張るところ違ぇだろ」
「そっ…そこから頑張るんだってば!サクラスは黙ってて!」
「サクはレリアちゃんのことが気になるんだよなー。はじめて出来た可愛い後輩だし?」
「なっ、違います!!誰がこんなちんちくりのことなんか…!」
「またちんちくりんって…!だからデリカシーないって言われるんだよ、無礼者!」
「てめーにデリカシーある男だと思われても嬉しかないね!」
「レリアもサクも無駄に元気そうだし、帰るか、ロヴィーナ」
「自分で撒いた種くらい回収しなよ…」
「レリアはそれだけ元気ならティーセット片付けてから帰れよ」
今まで我関せずと薬品整理に励んでいた先生の淡々とした声が、やけに今は楽しく聞こえた。