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【短編小説】 瞬きする魚

作者: 大枝 岳

アパートへ帰ると、どの部屋のドアにも黄色の付箋が貼られていた。

私は帰る途中、魚の目をしたような黒ずくめの青年とすれ違ったばかりだった。

 アパートへ帰る途中、フードを被った黒ずくめの怪しげな青年と擦れ違った。

 青年の目は魚のように丸く見開いたまま、私の遥か後方を見つめたまま歩き続けていた。

 ほんの一瞬見ただけなのに、心の手の届かない場所にこびり付きそうな不気味な目をしていた。


 そういえば、瞬きをする魚がこの世界にはいないのだろうかと気になったが、私は自室へ帰る為に古臭いアパートの錆びれた階段を昇った。


 二階にズラリと並んだドア。いつもの光景ではあるのだが、妙な違和感があった。

 どのドアにも勉強や資料などに差し込む黄色の付箋が貼り付けられていたのだ。

 一体、誰がこんな真似をしたのだろう。ふと、先ほどすれ違った青年が頭を過った。


 シャワーを浴びてから黄色い付箋に何か意味があるのか、調べてみた。

 強盗目的の合図や目星などでその家の不在や留守を共有する為にマジックやシールが使われることはあるそうなのだが、付箋というのは見当たらなかった。


 付箋では風の強い日などはすぐに剥がれてしまうだろうし、目的は分からずじまいだった。

 管理会社には念のため報告しておいたのだが、翌日返って来たメールには

『空き巣などの報告はありませんが、緊急の際は警察へ連絡をお願いします』

 とだけ記されていた。

 そんな小学生でも分かる返事を聞きたかった訳ではなかったが、とりあえず実害もないので遣り過ごしてみることにした。


 翌朝、八時十分。派遣先の衣料品倉庫へ通う為、B駅まで出て企業バスの到着を待つ。

 バスが到着するまでの間に私と同じ期間雇いの身分の労働者が列を作り、それはロータリーをぐるりと囲む蛇となる。

 大半は生きる中で他人の毒に犯された、噛みつくことの出来ない蛇だ。

 今日も朝の九時から夕方六時まで、息つく暇もないピッキング作業が私を待っている。


 現場に入り作業が始まってすぐに、チームリーダーの女に叱られている青年が目についた。

 気になって少しでも立ち止まると作業効率が落ち、契約更新に関わる。ひとつでも多く、商品を集めなければならない。


「フード付きのパーカーはダメだって、入職説明会で話したよね?」

「はい」

「じゃあ、それ脱いで作業入ってもらっていい? コチラで預かるので」

「結構です。帰ります」

「は? 帰られたら困るんですけど」

「失礼します」

「ちょっと! ねぇ、キミ! 勝手に帰らないで!」


 倉庫の仕事をしていると、そんなやり取りを目にするのがありきたりになる。一週間に一人は、あんな跳ねっ返りの新人を目にする。

 しかし、私の前を通り過ぎて行く青年の目に私はたまらず立ち止まってしまった。

 私の前を通り過ぎたのは昨日の、魚の目の青年だったのだ。


「上村さんゴメン! その子止めて!」

「え?」

「いいから、話しがあるから帰らせないで!」

「あ、はい」


 突然指名された私は、青年の肩を叩いた。振り返った青年の目が、ほんの一瞬だけ魚になる。

 その薄気味悪さに頭で考えるよりも先に、身体が震える。


「あの、すいません……あのリーダーが、帰らないでって」 

「あぁ」

「あぁって、勝手に帰るのはマズイだろう」

「…………」


 すぐに辿り着いたリーダーに説得された青年は「依願退職書」を書く為に事務所へ連れて行かれることになった。勝手に辞めるにしても、書類が必要なんだと初めて知った。

 私はリーダーから礼を言われ、青年はリーダーに従って事務所へ行くこととなったのだが、私の前を立ち去る際に小さな声でこう言った。


「次は、オレンジです」


 その意味が全く分からなかったのだが、すぐにあの付箋に行き着いた。青年を呼び止めたくなったが、ピッキング用のハンディからピッキングロスの警報が鳴り出したので、私は靄のかかった気持ちのまま作業に戻ることにした。


 その日もアパートへ帰ると、やはり付箋が貼られていた。それも、あの青年が言っていた通り「オレンジ」の付箋だった。

 昨日と異なるのはどのドアにも付箋が貼られている訳ではなく、貼られているドアとそうではないドアがあるという点だ。


 その違いが何なのか分からなかったのだが、私の部屋のドアにはオレンジの付箋が貼られていた。

 ドアに貼られた付箋をスマホで写真に撮っていると、隣室のドアが開かれた。隣室の主とは普段挨拶しか交わさない。風貌はいかにもレゲエをやっていそうな髭面の痩せた青年だ。

 私の様子にすぐに気が付いたようで、向こうから話し掛けて来た。


「おじさんトコも貼られてたっすか?」


 見た目通り、軽い口調だ。だが、その軽さに少しばかり感じていた気味の悪さが掻き消された。


「あぁ……今日はオレンジのが」

「ふぅーっ……まいっちゃいますよね」

「本当だよ。警察に、連絡しようかな」

「あ、多分無理っすよ」

「無理?」

「えぇ。噂っすけど、コレやってんの公安らしいんすよ」

「公安? なんのために、こんな真似するんだろうか」

「さぁ。でも、指示を出してるのはもっと別のヤツらしいっすけどね」

「別のヤツ? まさか、政府とか?」

「バビロンっすよ、バビロン」

「バビロン?」

「はっは! おじさん、今の全部、俺の嘘っす」

「なんだよ……じゃあ警察だな。実は昨日、変な奴を見たんだ。真っ黒い恰好で、フード被った」

「あーあ……もしかして、目がこんなギョッとしてる?」


 レゲエ青年は両目を指で見開いた。あの青年の魚の目に、そっくりだった。


「そうそう! ソイツだ、ソイツがやったんじゃないかな……君も見たの?」

「いや、アイツは「デコちゃん」って言って……なんていうか、うちの客なんすよ」

「客? 君、飲食か何かやってんの?」

「まぁ~……食うっちゃ食うって言い方するんで、そんな感じっす」

「そうか。まぁ、頑張って」

「うぃーっす」 

「店教えてくれたら、今度行くよ」

「いやいや、ないない! おやすみなさいっす」

「……あぁ、また」


 レゲエ青年はそう言って、階段を駆け下りて行った。古びた手すりがガタガタ揺れていた。

 通りすがりに嗅いだことのないキツイ匂いが鼻をついたが、体臭ではなさそうだった。

 鍵が掛けられたレゲエ青年の部屋のドアには、オレンジの付箋が貼られたままになっていた。


 部屋に入って警察に連絡をしてみると、すぐに電話を切られそうな雰囲気だった。


「まぁ、そういったイタズラとでも言うんですかねぇ。もしも見掛けない不審な人間の出入りがあったり、危害が加えられそうな場合にはすぐに連絡を頂けますか?」

「まぁ、実害はないですからね。分かりました」

「念のために住所、教えてもらっといていいですか?」


 住所を伝えると保留にされ、別の担当に変わった。それからわずか二十分後に、刑事が私の部屋へやって来た。

 インターホンが鳴らされると、髪をオールバック風にまとめた中年刑事がモニターに映し出された。

 二人組だったが、辺りを物凄く警戒しているのがモニター越しでも良く伝わった。


 百円ショップで買った座布団風の小さなクッションに座りった中年刑事は「佐伯」と名乗った。もう一人の小太りの中年刑事は「児玉」と言った。

 佐伯刑事は声を潜めながら、眉間に刻まれた皺を上下させながらこのアパートに関してのことを色々と訊ねて来た。


 何人ほどが暮らしているのか、外国人はいるか、隣室の住民とは交流があるか、誰が何時頃に帰宅するのか等々。私は事の発端となった付箋の写真をスマホで見せてみたのだが、頷くだけで特に興味はなさそうにすぐに目を逸らした。


「上村さん。ベランダ、ちょっと良いですか?」


 私が佐伯と話している間、児玉はベランダに出て何かを探したり数枚写真を撮ったりしている様子だった。

 ベランダには枯れた花がそのままのプランターとエアコンの室外機くらいしか物はなかったが、念入りに何かを調べていた。


 刑事がやって来たものの、特に何の進展も安心も得られないまま彼らは帰って行った。

 形だけでも。そう思い、差し出したペットボトルのお茶二本はキャップさえ開けらずじまいだった。


 それから三日間は、新たな付箋が貼られることはなかった。

 機械に命じられながら動くような作業を終えた私は付箋がないことに安堵し、翌日が休日ということもあって酒をだいぶ飲み、シャワーもせずに眠り込んでしまった。


 翌朝自然と起きたのは朝の光ではなく、騒がしい物音の所為だった。

 隣室で棚をひっくり返すような音がして、数人の怒声が一斉に聞こえて来た。何かを詰問するような声。あのレゲエ青年の否定の声。壁越なのでハッキリと聞き取れはしないものの、相当に感情が昂っているのが伝わった。


 それからすぐにハッキリと聞こえた「おさえとけ」という声。その声に、私は聞き覚えがあった。それが佐伯の声だと気付いた私は肌着と下着姿だったのでスウェットだけ着込み、玄関のドアを開いた。

 隣室のドアは開かれたまま、入口に数人の警察官が立っているのが目に飛び込んで来た。


「なにが悪ぃんだよ! 俺は悪くねぇっつってんだろ!」


 そう叫ぶレゲエ青年は手錠を嵌められたまま、部屋から連れ出されて私の目の前を警官に脇を抱えられながら過ぎて行く。続いて、同じように刑事に脇を抱えられながら連れ出された者があった。

 黒づくめの恰好の、あの魚の目の青年だった。

 レゲエ青年の「客」だと言っていたが、きっと何か良からぬことをしていたから逮捕されてしまったのだろう。


 魚の目の青年は大人しく連行されていたが、目の前を通り過ぎる瞬間に私の方を向いた。

 そして、口元だけ「う」「お」と動かし、笑った。

 逮捕されているというのに、彼は何がおかしかったのだろうか。頭がクスリか何かでやられていたのかもしれない。すると、あのレゲエ青年もその仲間ということになる。


 すると、あの付箋の件について合点がいった。

 きっとあの二人で共謀して、悪ふざけでやっていたのだろう。レゲエ青年も中々の愉快犯で役者だったと思いながら、私はその日の休みを気持ち良く過ごすことにした。 


 アパートを出て映画を観に行ったが、実につまらない内容だった。後半のほとんどを寝て過ごしてしまった為、映画館を出る頃には頭が微睡んでいた。

 目を覚まさなければならないと思い、私は夕方から呑み屋へ入った。二件ハシゴして、一人で居たら退屈を酒で洗い流した。


 帰路に着く頃には辺りは既に暗くなっていたが、翌日も休日だったので実に気分が良かった。

 アパートが見えて来ると、ここ数日間感じていた緊張が解れているのを感じた。

 もう、あの訳の分からない付箋に怯えなくて済むのだ。レゲエと魚が仲良く牢屋にブチ込まれているのを想像すると、一層気分が良くなった。


「ざまぁみろってんだ。もう怖いもんなんか、ないんだ」


 独り言を言いながら階段を上がる。錆びれているので、若干揺れるからそのうち崩れそうだ。

 アパートのドアがずらりと並ぶのが見えるが、どの部屋のドアを見ても付箋は貼られていなかった。

 よしよし、悪質なイタズラごっこはようやく終わったんだ。

 部屋の前に立って鍵を差し込んで顔を上げると、あるものに気が付いた。


 魚眼レンズのすぐ下に、黒い付箋が貼られていたのだ。

 私は思わず仰け反りそうになり、たまらない気分になって他の部屋のドアを眺めて歩いた。しかし、私の部屋の他に、付箋の貼られた部屋はなかった。

 部屋に入るとシャワーを浴びて、猛烈な勢いで酒を呑んだ。恐怖感が拭い切れず、霊感など持ち合わせていないはずなのに終始背中にうすら寒い感覚があった。

 気が付くと、警察に電話をしていた。


「黒いんだよ、黒いのが貼られてて、おまわりさん、アレなんすか?」 

「あのー、酔ってます?」

「酔ってるんですけど、酔っても酔っても怖いんですよ! 冗談じゃないよ!」

「こっちも忙しいんでね、何かあったらまた電話下さい」

「もう何かあったんだってば、ねぇ」

「はーい。失礼します」


 酩酊する頭でリダイヤルしていたようで、意識することを念入りに意識してみると、私は電話越しで恐らく遥か年下の警察関係者に叱られていた。


 気が付いたら眠っていた。喉がカラカラで目を開けると、真っ暗だった。電気だけは消したことを自分でかろうじて褒めてやりたくなったが、こんな飲み方をするなんて私はどうしようもない中年だ。

 だから独身なんだ、そう思いながらズキズキと後頭部が痛む頭を起し、冷蔵庫を目指した。


 まだ酒がほとんど抜けていなくて、立ち上がると足元がふらついた。


「バカヤロ。呑み過ぎだテメェは」


 自分にそう呟いて、足元の確保の為に蛍光灯の紐を引いて、灯りを点ける。

 二回の明滅の後に、部屋が一気に明るくなる。

 喉を潤してから頭痛薬を飲もうかと思い、薬箱のある方へ目を遣ると、天井で止まった。


 人工的な灯りに照らされた天井は、黒い付箋でビッシリと埋め尽くされていた。

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