午前の聖女
朝日がまだ、まどろんでいるある日の午前。
場所は王城の敷地内東側にある、エリオットの離宮。
そこで、誰かが誰かに必死に呼びかけている声がする。
「……ット様」
「……リオット様」
「エリオット様!」
「わっ、驚いた。トードか。何?」
書庫の椅子の上で我に返ったエリオットは、膝に乗せていた本を取り落としそうになってから初めて目の前にいたトードに気が付いた。
「何?じゃないですよ。聖女様がいらっしゃってますよ」
「何故?」
「何故じゃありませんよ。今日お茶のお約束をしていたのでしょう?」
「……していたっけ」
このところ、どこかぼんやりとしていたエリオットは首をひねった。
聖女とお茶の約束などしていただろうか。まるで覚えていない。
いや、もはや最近聖女と話したことすら記憶にない。
「今日は体調が悪いから行けそうにないと伝えておいてくれないかな」
「駄目ですよ。午後からの公務は聖女と一緒ですから仮病は一発でバレます」
「……たしかに」
ふうと息をついたエリオットは、本をパタンと閉じた。
朝早くからこの本を開いていたが内容は大変つまらないもので、ほとんど頭に入ってこなかった。
本を本棚に戻したエリオットは書庫を出て、階段を下りて玄関横の応接室に向かった。
「遅いわ、エリオット」
応接室の中でエリオットの離宮のメイドたちにもてなされていたのは、聖女のスフィリアだ。
城下で流行りの背中が大きく開いた高価なドレスを見に纏って、部屋に入ってきたエリオットに微笑んだ。
エリオットは礼儀ばかりの微笑を返しながら、スフィリアに訊ねた。
「遅くなってごめんと言いたいところだけど、約束なんてしていたっけ?」
「え?したわよ。3日前に提案したら、エリオットはいいって言ったわよ」
「……そっか」
「もしかして忘れていたの?私との約束を?酷いわ、それは流石に酷いわよ!」
エリオットは眉をつり上げたスフィリアを見ながら、確かに3日前くらいに会って会話をしていたことをようやく思い出した。
確かにスフィリアが何かを喋っていて、エリオットはそれを肯定したのだった。そして多分それが、お茶の約束だった。
これでは、スフィリアが怒り出すのも無理はない。
自分の非を認めたエリオットは素直に頭を下げた。
「ちょっとド忘れしていたみたいだ。ごめんね」
「ド忘れ?私はこんなに楽しみにしてたのに、エリオットは忘れてたの?嫌よ、許してあげないから!」
スフィリアは腕を組み、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
スフィリアの機嫌が明らかに損なわれたことで、傍にいたメイドたちが困ったようにソワソワとし出す。
応接室の空気はさらに居心地の悪いものとなる。
これを少しでも改善する努力をするべく、離宮の主であるエリオットは客人であるスフィリアにもう一度謝った。
「申し訳ない。午後からの公務もあるし、機嫌を直して」
「女の子は待たせるものじゃないし、ましてや約束を忘れるものじゃないわ。本当なら一時間前から準備してくれるくらいが理想なのよ?」
「……ごめんね」
「本当に反省してる?」
「約束を忘れていたことは僕の落ち度だと思っているよ」
「ふうん」
そっぽを向いていたスフィリアが、ゆっくりとエリオットに向き直った。
「じゃあ、明日二人で出かけましょ?新しくできたレストランでランチをして買い物をして、遊覧船でお隣の国まで小旅行して明後日の朝に帰るの」
それで許してあげるわ、とスフィリアは挑戦するような顔で言った。
「楽しい二日間にするから。ね、多分二人で出かけたら私のいい所を、もっと知ってもらえると思うの」
「残念ながら、明日は一日騎士団で会議と訓練試合で忙しいから難しいよ」
「え?それくらい休めるわよね?」
「休めないよ。魔物の事もあるし、国の軍備は最優先事項だ」
「じゃ、じゃあ明後日でもいいわ。明後日にしましょ」
「明後日から10日間は、聖女のスフィリアが国の各孤児院に訪問する予定だよね?」
「それは大丈夫よ。エリオットの為に予定をずらしてもらうわ」
「駄目だよ。子供たちは聖女様が来てくれるのを待ってる。それに半年も前から決まっていたことを私用で変更するのは、あまりに責任感が無さすぎると思わない?」
エリオットが窘めると、スフィリアはうぐっと押し黙った。
珍しくしおらしくなってぎゅっと唇を噛んでいるスフィリアを見て、少しきつく言いすぎたかもしれないと思ったエリオットは、スフィリアの対面の椅子を引いた。
「お茶にする?午後の公務までにはまだ時間があるから」
「……じゃあ、テラスでお茶がいいわ」
パッと顔を上げたスフィリアが、窓から見えるよく手入れされた庭の一角を指さした。
芝生と季節の花が見渡せる、エリオットの離宮自慢のテラスだ。
「分かった」
折角座った椅子をまた戻して、エリオットは外へ出た。
今気が付いたが、今日はからりと青い空と、心地の良い風が吹く天気の良い日だった。
しかし空をゆっくり眺めることもせず、エリオットは速足で歩いた。
エリオットとスフィリアがテラスに着くと、すぐに離宮のメイドたちが色とりどりの菓子と大きなワゴンに乗せた茶器をもって来た。
テキパキと働くメイドたちは、あっという間にテラスのテーブルの上の準備を整えた。
「聖女様、どうぞこちらへ」
「あら、すごいじゃない!」
メイドに席に案内され、宝石箱をひっくり返したような菓子たちを見たスフィリアは機嫌を直したらしかった。
そしてテーブルに肘をついてその上に顔を載せたスフィリアは、メイドにお茶を催促した。
「アラゴン茶。蜂蜜とミルクを半分づつ。それにレモンと苺を浮かべてちょうだい。あ、レモンの皮は剥いて」
「かしこまりました、聖女様」
スフィリアは注文通りの茶を受け取ると、メイドを全員下がらせた。
いつもは世話をしてくれるメイドを何人か横に付けるのにどうしたのだろうと見ていると、スフィリアはエリオットの視線に気が付いたのか、微笑んだ。
「少しの時間でも、エリオットと二人きりがいいなと思って」
スフィリアはティーカップを両手で持って、お茶を一口飲んだ。
それから綺麗なチーズケーキを引き寄せて、先端をフォークに乗せて口に入れた。
「やっぱり美味しいわ。エリオットの離宮のパティシエ、王城で一番腕がいいのよね」
そんなことを呟いたスフィリアは、もう一口分フォークで取ってエリオットに差し出した。
「エリオット甘いもの苦手でしょ。でもチーズケーキはそんなに甘くないわよ。はい、食べて」
「いいよ、いくら甘くないと言ってもお菓子だからね。今は気分じゃないんだ」
「一口くらい、いいでしょ?」
「ありがとう。でも遠慮しておくよ」
「……」
首を振ったエリオットを見て、スフィリアは無言でチーズケーキを自らの口に運んだ。
エリオットはそんなスフィリアからは視線を逸らし、ティーカップの中で揺れるお茶を見つめた。
お茶はいい香りだ。
でも、あまり味がしない。
エリオットはふと庭を見た。
庭には迷いの森とは違って綺麗な花が整列し、芋畑とは違う剪定された珍しい植物が並んでいる。
そういえば、魔女とお茶をした日も今日のように良く晴れた麗らかな日だった。
……いや、あの日は今日よりも麗らかな日だった。
あの日は芝生の匂いが鼻に心地よくて、小さな風に木陰が揺れて、緑の葉に反射する陽光がキラキラと光っていた日だった。
「ねえ、エリオットってば」
「……あ、ごめん。何?」
「だから、エリオットの理想の女性像を教えて欲しいの。エリオットは女性に興味ないって言ってるけど、ときめいた事とか好きな女の子のタイプくらいあるでしょ?」
「そんなこと、聞いてどうするの?」
「どうするもこうするも、エリオットが婚約者の事なんて考えたことも無いとか言うからよ。エリオットが考えたことないって言うなら、考えさせなきゃいけないじゃない?」
「……」
訳が良く分からなかったが、エリオットが溜息をつく前にスフィリアがグイッと身を乗り出してきた。
「エリオットはどんな女の子が好みなの?」
「考えたことも無いよ」
「じゃあ今考えて。可愛い女の子と綺麗な女の子、どっちが好み?」
「どっちもそれぞれの良さがあると思うよ」
「もう、そういう答え方は駄目よ。じゃあ話し上手と聞き上手、どっちが好き?」
「どちらも素晴らしい特技だと思うよ」
「あのね、これは特技の話じゃないわよ。エリオットがどういう女の子と二人で出掛けたいと思うかって話をしてるの」
「出掛けたい?」
「そうよ。キスしたいとか手を繋ぎたいとかでもいいわよ。具体的で分かりやすいでしょ?」
エリオットに変化があったのが嬉しかったのか、スフィリアはふふんと胸を張った。
しかし一方のエリオットは小さく眉を寄せていた。
出掛けるというところに、少しだけ引っ掛かった節があったのだ。
エリオットが思い出していたのは、一か月ほど前のこと。
魔女に「迷惑だからもう来るな」と言われる数週間前のことだ。
あの日、エリオットは魔女に出掛けないかと聞いてしまった。
でもあれは二人で出かけたいと頭で考えた訳では無く、つい口にしてしまったことだ。
話の流れというか勢いというか、何も考えずに話していたらあんなことを口走っていた。
でもあれは、実はスフィリアが言うような理由からだったのだろうか。
……いいや。
結局魔女には断られたし、その上もう来るなと言われて嫌われてしまったのだから、もうこれ以上考える意味は無いだろう。
心優しい魔女はエリオットに付き合ってくれていたが、魔女は俗世と関わることを嫌うと何度も聞いた事があるし、彼女は本当は人間もお菓子もお喋りも嫌いだったかもしれない。
申し訳ないことをした。
エリオットは、新たに淹れたお茶から立つ弱弱しい湯気が風に消えていくのを見ながら、今の自分の気力もこんな感じだな、と何となく思っていた。
その間にもスフィリアは喋っていたが、話題はエリオットの頭に半分も入ってこなかった。






